鬼ヶ城への尾根道から大下条を望む
先ごろ天龍村鬼ヶ城の道祖神について触れたが、ちょっと調べてみようと思った 時にすぐに頭に浮かぶのは、いわゆる市町村史誌の類。ところが期待していたことがそこに記述されていないことはごく当たり前ようにある。もちろんわたしの探し方が悪いかもしれないが、この手の本を開くことが多いから、めったにこうした本を手にしない人よりは的を得た探し方をしているとは思うのだが…。今回はそもそも道祖神の建っている脇の道はどういう道だったのか知りたかった。昔の道を扱った部分を開いてはその詳細を求めるのだが、記述はごく簡単、というかその記述がこの道なのかどうかもはっきりしない。記述のみでは正確に読み手は判断できない。記述が簡単だとなお更である。分厚い本で複数巻になっている本など、ふつうの人は手にしようとも思わない。そのいっぽうでわたしのように詳細が書かれていないだろうか、と期待する者は手にとったとしても期待を裏切られる。ましてや求めていたことの記述かどうかもはっきりしないとなれば、想像の世界。道の記述が少なくて不明瞭となると、次は石神仏の記述からアプローチする。村内の地区別の総数を示した表が記載されているということは、実地でそれらを調査したものなのだろう。しかしながらたとえば今回の道祖神に対する記述は「村内には双体道祖神もある」程度の記述のみで、固有のものを説明した記述はない。ようは執筆者にはある程度の基礎資料があるのだろうが、それはどこかに公開されていればよいが、おそらく執筆者のみのデータとして埋もれている可能性が高い。
昨日「いつまでも続かないこと」で記したが、わたしもだいぶ歳を重ねた。いずれは高齢者はこの世からいなくなり、たくさんの記憶はこれほどメディアなり保存方法がたくさんある時代でありながら、消え去る物も少なくないだろう。「調べた者のみ知る」では地域の情報は諸滅するのみ。もちろん市町村史誌にそれらをすべて記載する紙幅がないことは十分承知しているが、それなら知り得た情報をそれ以外のところで残していく方法を考えてほしいものだ。
前掲書に若干の記載があったが、おそらくわたしが車を停めた峠から鬼ヶ城へ続く道の途中までの道は、かつて神原村から大下条、そして飯田方面へ続く近道だったに違いない。たとえば向方から北上する際にはこのあたりの尾根道を通り、和知野川へ下って川を渡ると、再び起伏の激しい山間の道を上って大下条へと向かったはず。たったそれだけのことなのに、それを正確に教えてくれる情報が、なかなか世の中には出回っていないのである。
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