平出一治氏が「埋まっていた「庚申」」を報告した『遙北通信』110号へ、わたしは茅野市の湯道観音のことについて報告している。写真を撮影した平成2年3月9日は、前日より京都市の高木英夫氏とともに八ヶ岳山麓に入り、前日は明治温泉に宿泊したと記憶する。文中にあるよあに、「右作場 左明治温泉」と刻まれるように、まさに湯地場へ誘うために造られた観音であることがわかる。
茅野市湯道観音 (『遙北通信』110号 平成3年5月1日発行) HP管理者
観世音菩薩は三十三種の変化身でこの世に示現すると『法華経普門晶』(『観音経』)に説かれるところから、観世音菩薩を本尊として祀る三十三力寺を巡礼する者は功徳が得られると信じられた。こうした観音倍仰から、紀州那智山・青岸渡寺を第一番とする西国三十三カ所の巡礼が平安時代未ごろから始まった。その後、巡礼の盛行に伴って坂東三十三カ所や秩父三十三カ所(のちに三十四カ所になる)などが開かれた。地方にも西国三十三カ所や板東・秩父になぞらえた三十三カ所観音や西国・板東・秩父をあわせた百番観音も作られるようになった。
長野県茅野市の蓼科高原一帯の温泉地には渋温泉道・滝の湯道・明治温泉道の三通りの三十三番観音が作られている。温泉への案内役といったところで、「湯道観音」などと呼ばれ親しまれている。古くより湯治場として栄えた温泉に行く道筋の松の木の根元や、大きな自然石の上、あるいは適当な石や木が無いと石を四角に刻んだ台座を設け、ほぼ等間隔に安置されている。
これら三つの湯道観音は江戸後期に最も栄えた西国三十三カ所のお寺の本尊を刻んでいる。当時、仏教興隆に併せたように湯治客も多くなり、その様子について渋之湯では1日4、500人も来て、泊まる所が無く、止むを得ず日帰りをしたと、高島藩の郡方日記にしるされている。
当時の里謡に次のように唄われている。
飲んで見たかえ 渋沢入りの
親は諸白 子は清水
一の坂越し 二の坂越して
三の坂越しや 強清水
渋の湯の湯壷の中で
話し置いた事 忘れない
蚕あがれば 渋湯か滝へ
連れて行くから 辛抱しろ
このように、三十三番の観音を拝むことで三十三カ所の霊場を巡ったと同じ功徳があると信じられていたわけで、それと同時に温泉への道案内と旅の安全祈願までしてくれたわけである
・渋温泉道三十三番観音
三つの温泉道三十三番観音の中では渋温泉道のものが古く、文政年間(1810~30)、当時渋之湯の揚請人(註1)をしていた糸萱新田の条左工門、惣五郎が施主となり、笹原新田の有力者堀内磯右工門が世話人となって、5、6年間にわたり寄進者を募り建立したものである。甲州・武州・遠州など全国各地の篤志家の寄進により建立されており、この頃にはすでに渋之湯は薬湯として全国に知れわたっていた。
当時の渋之湯道は現在の茅野市湖東、中村、山口、北芹ケ択糸萱を経て、一之坂、二之坂、三之坂、強清水を通り渋之湯まで通じていた。一番観音は一之坂の合流した所に安置され、三十三観音は渋の湯の入口に建立された。なお、一番観音は現在笹原の辻の公園に移されている。
建立された当時の観音の製作者は不明であるが、彫りの違い等から者えて4、5人ぐらいの石工によって彫られたものであり、また観音の材料の石質から、おそらく近くにあった石を使い現地で制作されたものと推定される(註2)。
なお渋之湯は天文5(1536)年にすでに存在し、相当に名が知られていた(註3)。信玄のかくし湯ともいわれている。
・明治温泉道三十三番観音
明治之湯は天保年間に両角与市右工門が発見して開湯したが中絶しており、明治元年に再開揚して、明治12年に「明治之湯」と命名した。
明治35年(1902)頃、明治温泉の道案内として、当時の経営者であった南大塩の宮坂宗作が施主となり、笹原区、南大塩区等地元の人達がおもに現茅野市内の篤志家の寄進により建立された。
一番観音は「右白井出 左明治温泉」と刻まれており、笹原の辻に安置されている。写真の三番観音には「右作場 左明治温泉」と刻まれており、三十三番観音は明治温泉前に建立されている。石工は不明であるが彫り具合等から同じ石工の制作と考えられる(註4)。
・保存復元
渋温泉道や明治温泉道の観音は仏教の衰退に伴い、欠損紛失にあい昭和56年、奥蓼科観光協会によって保護復元された。復元にあたって当初同様篤志家の寄進により、岡崎市の石工戸松甚五郎の手により製作された。復元された観音は、渋温泉道が15体、明治温泉道が11体であった。
註1.江戸時代には渋之湯は領主の直轄地であったので、高島藩は希望者を募り、入札により湯請人を定めて運上(営業税)をとって経営させていた。
註2.『湯みち観音』北沢栄一著 草原社 昭和59年刊
註3.『諏訪史料叢書』巻14
註4.註2に同じ
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