宮司に筒が渡される
湯立の舞
榊の舞
よう扇の舞
太刀の舞
豊栄の舞
南宮神社の祈年祭では筒粥の神事が行われる。筒粥については全国の神社で実施例が多いもので、『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)には次のように記されている。
つつがゆ 筒粥 粥占の一種で管粥(くだがゆ)ともいう。正月十五日などに行われる粥占の粥の中に青竹、アシ、カヤなどの筒を入れて炊き、空洞の中に入った米粒・小豆の多少によってその年の農作物の豊凶を判断する。また別の方法として粥棒の先端を割って粥を付け、付着した分量によって判断することも行われたが、こちらは早く衰退した。信州の諏訪神社の筒粥神事を実見した菅江真澄は、一七八四年(天明四)の紀行『諏訪の海』で「夜さり子の始より御階に日当たる迄煮やして奉ることは、年毎のためしなりける」と記述し、当時は社の傍に柱を四本立てそれに鼎を据えて粥を煮たことやワラグツをはいた群衆が霜柱も溶けるほど押し寄せ、小さい戸口から社の奥へ入り込み矢立に息を吹きかけつつ神官の読み上げる作凶を書き取る様を描いている。この諏訪神社の筒粥神事は、正月十五日に行われているが前夜から粥炊舎で小豆を炊く。この時長さ五寸五分のヨシ管四十二本を麻で簾状に編み巻いたものを中に入れ、終夜煮立てる。翌早朝神前に供えたあと神殿大床でヨシ筒四十二本を割り、中に入った粥の分量で四十二種の作柄を判定し、大声で参拝者に知らせている。また粥占の粥棒には呪力があると信じ、田の水口に立てられたり、女の尻を叩くと子を産むといい若嫁や娘の尻を叩く、嫁叩きは全国各地に見られた。成木貴の叩き棒として用いる地方もある。
ここに記されているように筒粥神事といえば諏訪神社のものがよく知られている。南宮神社も諏訪神社とのかかわりが強く、諏訪神社の神事を取り入れて始められたものなのだろう。
南宮神社の筒粥神事は午後6時45分過ぎに始まった。とはいえ、筒粥の判定を下すにはそれ以前から煮立てなくてはならず、拝殿前の庭で大釜に筒が入れられて火を入れられるのは午後5時ころのこと。神事が始まるまでの準備は神社総代に委ねられる。そしておおよそ2時間余大釜に入れられていた筒が出され、占いに移るのである。ここでは米5合、小豆3合が釜に入れられる。水を入れて焚きつけられるが、釜の火の管理は総代さんが行う。総代さんは12人ほどいて、2年任期というから筒粥神事に詳しいわけではない。「どこで占うのですか」とか「結果の発表はないのですか」と聞いても、はっきりは分からない。筒粥神事そのものが宮司に委ねられた専権事項なのである。したがって釜からあげられた筒は、総代さん4人の手を経て、神官に渡される。まず釜から引き揚げる2人、それを受け取って神官に渡す人へ手渡す人、そして神官に渡す人、と手渡されていく。筒を受け取った神官は神前までそれを運び、宮司に手渡すのだ。そして神前において筒が開かれる。ここでは37本の筒があり、それぞれ作柄や気候など判定項目が決められているという。そして37番目のいわゆる総評にあたるものが「世の中」である。この日の結果は「御筒粥占」の通りである。いつから37の占いになったか聞き忘れたが、向山雅重氏による「お筒粥」(『伊那路』昭和36年1月号)にある昭和35年の記録も現在と同じ37種であるが、その項目は現在とは少し違っている。8番までは同じだが、9番はかつては陸稲である。陸稲に代わって蕎麦が入ったことで、14番は「たばこ」、現在の23番「とまと」から以降は、春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕と続く。養蚕が盛んであった時代の名残が見られる。ようは時代によって作柄の内容は変えられてきたというわけである。
さて、冒頭の『日本民俗大辞典』の筒粥の記事のように、諏訪神社のものはその場で「大声で参拝者に知ら」された。それを書きとる者が押し寄せたとある。昔らしいと言えばその通りだが、だからこそここでも告知されるものと待っていたが、なかなかその様子はなかった。報道関係の方が結果を求められたところから、わたしもその結果をいただいてきたが、裏を返せば、今はこの託宣を真剣に聞こうという人がいないことを表している。この結果は印刷され、氏子はもちろん関係範囲の人々には知らされるというが、その場で結果を知ろうとする人がいないことの寂しさのようなものを感じた。そもそもこの神事に注目しているのは報道関係者のみ、というのが現代の姿なのである。
なお、午後7時半近くにあげられた筒が神前に運ばれ、全ての判定を受けるまでには30分近く要す。その後供物が下げられ、閉扉され一切が終わると午後9時近く。この判定をする時間を埋め合わせるように神官による神楽が舞われる。この日は湯立の舞、榊の舞、よう扇の舞、太刀の舞、豊栄の舞といった5種類の舞が行われた。
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