Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

丸彫りの「青面金剛」

2021-06-03 01:40:38 | 地域から学ぶ

 

 5月に銭を訪れたわけだが、銭不動下の辻に桑原の境地蔵が建っていることについて触れた。この辻について、『中川村の石造文化財』(平成12年 中川村教育委員会)では「銭不動下」と記しているが、かつて銭の近江沢さんに聞いた話では「サイノカミ」と称したという。とはいえここにサイノカミらしき神様は祀られていない。地籍名だけなのか、あるいはかつてそれらしい神様があったのか定かではない。辻に建つ境地蔵の向かいに、石仏群が草むらに埋まっている。前掲書によると、ここに祀られている石仏はいずれも古い。そもそも境地蔵も「延享丑」とあり1745年造立。けして古いというほどではないかもしれないが、このあたりでは1700年代の石仏は古い方になる。そしてこの石仏群は境地蔵よりも古く、高さ40センチ余の小さな地蔵菩薩は「寛文二」1662年、60センチほどの丸彫の地蔵菩薩は「享保四」1719年、念仏供養塔は「享保十一」1726年、丸彫の青面金剛は念仏供養塔と同じ1726年で同じ「十二月」の造立である。ほとんどが1700年代に造立されたもので、これほど同年代のものがかたまって祀られている例は少ない。

 とりわけ珍しいものは丸彫りの青面金剛だろう。これが庚申さんであるとした理由を竹入弘元氏は『伊那谷の石仏』の中で記している。「四手に剣・索・蛇」といった持ち物を決め手としている。そして銭での庚申講についても触れている。興味深いのは銭の年貢についてかかわる話。。「昔から年貢収めにしりょう様・ごりょう様の区別があって三戸だけはほんやりも別に焼いた、お三夜待ちも三軒だけで、他の九軒と別にやった。但し庚申講は一二戸一緒だった」とある。庚申講は銭すべて一緒だったようだが、年貢を収める場所が異なったようで、川の東西で別の社会生活が存在していたようだ。


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