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あなたとお花と猫とエコと健康

日々思ったこと、見たことなどを書いています。

>「自己犠牲」は尊い行いではありません。

2014-08-08 15:04:00 | 自己犠牲について
ちょっと検索したら、私のアホな頭を補強してくれそうな書き込みを見つけました
どうぞ、これで理解して下さいとでも、言いましょうか?

以下引用です

---------------------------------------------
私には、他者に対して「自己犠牲は尊い」と言うことは、
 「あんた、私のために自殺なさい(罪も犠牲も負いなさい)」
と言うのと同じで、「タダ乗り」を目論んだ卑しい行いに思えるのです。

ですから、私は自己犠牲を称揚するキリスト教を信仰しないのです。

ある日、私は以下の言葉に出会いました。

  「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな」など
  いかなる戒めがあろうとも、つまりは
  「汝が汝を愛するように汝の隣人を愛せよ」
  ということなのである。
 新約聖書 ローマ人への手紙13章9節

要するに、「愛」はあらゆる律法を果たす、ということです。

そして、「自己」と「他者」の尊さは等価だ、ということです。

もっと言えば、「他者」を犠牲にすることが、「罪」ならば、
「自己」を犠牲にすることも、やはり「罪」ということです。

「自己犠牲」は尊い行いではありません。

----------------------------------------------
きっと、私が感じた理不尽さは上記のような事ではないかと思うのです
私自身が論理的に物を考えることができない人間で、常に直感頼りなのですが、
自分では「こうだ」と思っても、それを人に説明する事ができないのです

そうです。上記の文は非常に分かりやすいです
私が言っている「命は同じ」つまり、平等のはずなのに
何故一方が犠牲にならなければならないのか、しかも崇高の名のもとに
自己犠牲の名のもとに、キリストの名のもとに、なのです

北原怜子さんには申し訳ないかと思いますが、思ったままを書かせていただきます
何故、人には命を落とすほどに動いたにも拘らず
どうして、自分には優しくなかったのですか?という事ですね
これは、等しい命の扱いではありません
そして、その為に命を落とし、ご両親、姉妹、その他知る人達を
どれほどの悲しみに陥らせたのか、そう思います
お父さんはその後本を出されたようですが、ご両親の心痛はいかばかりかと思います
自分の信念に基づいた行為、人を助ける、その為に
大変辛い思いをされたご家族がいるわけです
どうなんでしょうね
純粋だった、時代のせいだ、とも言えるでしょうが
ご家族を悲しませないという事も、大変大切な事です
どうなんでしょうね

キリストは、皆を救う為に十字架にかけられた
しかし、それと同じ行為を人に求めてはいない
人を愛するように、自分を愛せ
自分を愛するように、人を愛せ、と説いた
です

と、言うことで、他の人の言葉で明快な結論を出させていただきまして
何気にすっきり致しました。はい。
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曽野綾子と、天上の青と、自己犠牲 アリの町のマリア

2014-08-08 13:44:40 | 自己犠牲について
天上の青と、自己犠牲の話に特に関連はなかったみたいですね
共通点は、いずれもキリスト教ですが、
天上の青については、自己犠牲のコルベ神父のような
壮絶、悲惨な自己犠牲の話はないし、キリスト教というだけで、
これらを繋げようとする事には無理がありそうです

単に連想しただけかも
天上の青ーー曽野綾子ーーコルベ神父、と

で、コルベ神父について検索していったら、思い出された名前がありました
アリの町のマリア、とゼノ修道士
そして、マリアこと、北原怜子(さとこ)さん
今回初めてその画像をみました
イメージとはちょっと違う面長の顔の人でした

ウーン、という感じでしたね
天上の青の話が終わらないのに、又話が逸れてますが
天上の青の桃井かおりの酷さを書きたかったんです
つまり、脚本というか演出というか、本来の小説の本題を
正反対みたいにめちゃくちゃにしてくれたテレビドラマで、
もう、どうしてくれるんだい!レベルのドラマでした
こんなん作るなアホ!!!と思います
こんなクソドラマが、NHKが作った芸術祭参加作品というだけで
賞をもらうなんて、選考委員も相当のアホですね

で、アリの町のマリアですが、この人が曽野綾子真っ青のキリスト信者?
つまり、自己犠牲の権化と化しています
この人が裕福な家庭に育ち、バタヤ?の人達に施しものを与えて?
そうしたら「偽善」だと疎まれて?だったら、一緒に住もうじゃないのって?

私、最近偽善という言葉が嫌いになったのです
最近ではなく何年も前からかも知れません
偽善という言葉自体が傲慢な気がするわけです
そして、このアリの町のマリアさんを非難したその町の人
高見からの施しものだって?
フーン、そういう風に攻撃する人こそ、酷くないですか?
自分を責めて責めて責めまくり体質の彼女を責めて
彼女はボロボロになって、死んでしまいました
凄くないですか?
やる方もやられる方も

偽善だろうが何だろうが、人助けになればいい
私はそう思っています、今ではね
昔は、私もそれに近かったです
「偉人伝の世界の人」でしたから
でも、それって傲慢じゃないかとある頃から思い始めたのです
自己犠牲と同じです
自分だけは、・・・。ですよ。
「他の人がどうあろうと、自分だけは清廉潔白であらねばならない」、という「傲慢」です

自分でできる範囲でも、人助けをしたいと思えばやればいいじゃないですか?
何で死ぬまで命を削ってそこまでやる必要があるんですか?
助けられている方に、何で非難をする権利がありますか?
酷くないですか?
彼女が裕福な家に生まれたのは、彼女の選択ではありません
同時に貧しく生まれた人も同じです
そして、何故全く同じにならなければ、助けた事にならないんですか?
おかしいじゃないですか
酷いですよ、人の良さに付け込んでとことんいじるなんて
そうです、心を秤にかけて、その人を試し、体の弱い人を死に追いやった
そうじゃないですかね?

私は子供の頃、図書館で絵入りのアリの町のマリアを読んだんです
かすかな記憶ですが、児童向けでした
その時は、心の綺麗な人がいるもんだ、可哀想に、と素直に思いました
それにネーミングがきれいじゃないですか「アリの町のマリア」って
一種憧れにちかい感情を持ちました。心のきれいな優しいお姉さんだろうと。

今調べて読んだら、可哀想ですね
もう大学生位で肺結核を発症しているじゃないですか
貧民救済になる以前に、もう病んでいたんですね
その彼女をやるだけやらせた人達って、何だろうと思います

ここでもコルベ神父の時と同じような感情を持ちました
この人とこの人(助ける側と助けられる側)は、決して平等ではない、と
何故、助ける側はここまで自分を痛めつけ、
人のために命を落とすほど頑張らなければならないんですか?
それがその人の性(さが)だから、好きでやったんでしょう、とは言わないで下さい
おかしいです
「正直者が馬鹿を見る」みたいな言葉はこんな時に使うのでしょうか?
逆差別みたいなものではないですか?

昨日も検索していたら、画像があって、その人達(外国の人)
どうやらキリスト教の「聖人」らしいんですね
思うに、キリストはそういう自己犠牲を人にせよと言ったんですかね?
言ってないんじゃないですか?
後世の人がそういう風にキリスト教を変えていったんじゃないですかね?
人に聖人になれと、キリストが言ったとは思えないんですけど
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私の好きなキャラは、

2014-08-08 13:16:06 | 小説・好きな物など
狼少年ケンの片目のジャック
ひょっこりひょうたん島のダンディ
お母さんといっしょのジャジャ丸
ムーミン谷のスナフキン

共通点は
はぐれ者
一匹狼

みたいです

群れる奴は好かない、みたいです、どうやら
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曽野綾子と「天上の青」

2014-08-08 11:43:44 | 曽野綾子「天上の青」について
私は曽野綾子の小説をほとんど読んでない
(どの作家のも殆ど読んでないが)
で、テレビドラマで「天上の青」をやったので、原作を読みたくなり
文庫本を買って読んだ

話の粗筋はネットでも読めるけど、ごく簡単に
(もう頚椎が痛くなってきた)

実話に基づいた小説で、過去の殺人事件の話
大久保清という男が、若い女性8人を短期間の間に殺害し
逮捕され、死刑になったという話を基に書かれている

何故曽野綾子がこの題材を選んだかというと、
大久保清は死刑判決が下りた後「控訴をしなかった」と知り、
何故控訴をしなかったのか、
殺人鬼にも良心とでもいうものがあったのだろうか?と?
その辺りがこの小説を書こうとした動機だという

で、小説には、実在しない「雪子」というクリスチャンの独身女性を配し
その女性が、というか、その女性との関わりによって、
犯人は控訴しなかった、というストーリーになっている

雪子という女性は縫い物をしながら生計を立てて、ひっそりと生活している女性で
その雪子が庭に植えていた「ヘブンリーブルー」という空色朝顔に目を止めた
殺人犯との交流、愛が描かれている

最後捕まった男が獄中から手紙を出す
「愛していると言ってくれたら、控訴はしない」
つまり、男の生き死にを雪子が決定するかのような内容になっている
考え、苦しみぬいた雪子は「深く愛しました」と書き送り
男は控訴せず、死刑は執行される

愛と言っても、しかと愛し合ったという形ではない
淡々と会い、淡々と話し、そこには静かな時間だけが流れている
言ってみれば、魂の交流とでもいうようなものが二人の間には流れていた

妙に正義感?のある男
時に優しく、時に残酷な行動をする
そして、彼なりの勝手な正義は人の命を奪っていく

実際の大久保清は、性的異常者のような人間であったのかもしれない
しかし、小説ではそのような描写は少なく
あたかも、激情タイプの人間の犯した殺人であるかのように書かれている

読んでいるこちらは、知らず男に同情ではないが、多少の共感を持ち
捜査が身辺に及んでくると、捕まらないで欲しい?みたいな
思ってはいけない心境にならされる

雪子の取った行動は、自分の犯した罪に対し、苦しんで欲しい、というものだったように思う
そして、初めて男は少しでもましな人間になれるかもしれない、という事だろうか?

このドラマを見た視聴者の、何がこのドラマに惹かれるか、という事だが
ネットで検索すると、多くの人達がこのドラマを見て
忘れられないものとして記憶している事だ
何故か、どこが?
私にもわからない

ただ、淡々と静かに生きている山口果林扮する「波多雪子」という女性と
殺人犯である役の、白竜扮する「宇野富士男」の、
本音で語る、浮世と離れた世界に見える真摯な言葉のやり取り
この空間に惹きつけられるのに違いない、とか思うのだけど
ストイックな、自分のポリシーを持って、自分に誠実にあろうと生きる雪子
それに対して、残虐性を見せず、雪子との間に作られた愛とも、何とも言えない感情
時に親に対するかのような面を見せる男
愛には二種類あるという、エロスとアガペ
その後者のような愛情が流れているのではないかと思わせる描写である

そして、そこに現れる空色朝顔(日本名は空色朝顔というヘブンリーブルー)
最後に清められた男の魂が?
この空色朝顔と共に、天上に上っていくのだろうか?
そんな気さえするラストのシーンだけれど
雪子は、こう言ったそうな

>どんな悲しみも怖さもほんとうにしみ通らない人、

他の人のブログを読むと、フーンと思う
自分では全く気づかない事を他の人は感じている(←私はバカかも

>反省もしない富士男を変えようともせず、そのまま受け入れている

んだそうです

蜘蛛の糸なんだそうです、雪子さんは
糸を垂らすだけで、引っ張り上げようとはしない
そして、糸を切らなかったんだそうです
つまり、富士男は天上に上ったんでしょうか?
それを天国とは言いませんが
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