あなたとお花と猫とエコと健康

日々思ったこと、見たことなどを書いています。

コルベ神父へのマリア様の啓示

2014-08-15 12:48:06 | 自己犠牲について
こんな不思議な話が書いてありました
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1894年、ポーランドの貧しい織物職人の家に、コルベ神父は生まれました。神父は殉教する自分の運命を、幼少の頃から悟っていたようです。活発でわんぱくだったコルベ少年が、ある日、お母さんにしかられて教会で祈っていると、聖母マリアの幻が現れたのです。

聖母は手に赤と白のふたつの冠を持っていました。そして少年を優しく見つめ、「白は清い心、赤は信仰のために殉教することを意味しています。あなたはどちらの冠が欲しいですか?」と尋ねるのでした。
   
「両方欲しいです」と少年が答えると、聖母は優しく微笑んで姿を消しました。

多感なコルベ少年の魂に、この体験は鮮烈な影を落としたことでしょう。それ以来、コルベ少年のわんぱくぶりは、影をひそめてしまいます。そして聖母の選びにあずかった者としての運命を、歩み始めるのです。
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選ばれた人だったのでしょうか?
そう言えば、ジャンヌダルクとかルルドの泉とか、他にも多くキリスト教には
神の啓示を受けた人がいますね

何故、仏教にはそれがないのでしょうか?
仏様から何々をせよ、とかいう啓示はあまり聞いた事がない
あの、病人の膿を吸い出した皇后の話

>仏教の庇護者としてさまざまな伝説も伝えられており、光明皇后が、重症の癩病(らいびょう。ハンセン病)患者の膿をみずから吸ったところ、その病人が阿閦如来であったという話はよく知られている。

には、仏が病人の姿に変えて出てきた、というのはありますね
ですが、仏教には仏様が出てきて仏教の為に殉教せよ云々とかいう話は少ない
どちらかというと、慈悲深い仏様は衆生を助けてくれる、とかいうのですね

親鸞が聖徳太子の姿を見たというのは、有名な話だそうですが、
そう言えば「蕎麦食い地蔵」も親鸞の話でした
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キリスト教と自己犠牲について 最終編

2014-08-15 12:33:19 | 自己犠牲について
大体の事がわかってきたし、だんだん疲れてきたし
問題は亡くなった方、殉教した方の事を鑑みるに、
だから、どうなのか、と言えない感じがします
一般論として、の考察なら、何とか締め括りとしてできますか、、

まず、その大前提として、キリストは、その信者達に

「究極の愛として、自己犠牲を行いなさい」

と言ったのか否か。
私が調べた結果 キリストは、その信者たちに

「自己犠牲を行いなさい」とは言っていなかった

では、殉教とは何なのか?

>宗教的迫害において命を奪われた場合や、棄教を強制され、それに応じないで死を選ぶ場合など、様々な形の殉教がある。

コルベ神父も殉教ですが、違う意味合いの殉教なんでしょう
何せ難しくて、又色々調べなくてはならないのには疲れました
「列福」という文字もありますし。
今北原怜子さんは「列福」の申請がなされているそうです
それには「奇跡を起こした事実」が必要なんだそうですが、
超能力がないと聖人にはなれないようです

又話が逸れましたが、つまり、この「殉教」された方々は
「普通の信者」ではなく、向こう側(聖人)の人達なんでしょうか?

キリストの言う言葉や行いから推察するに、
キリストは皆を救う為に命を落とされた
だから、キリスト(救世主)ではない他の人達は
キリストと同じにならなくてもいいのではありませんか?

ここで又他の事を思い出し
「聖フランチェスコ」です
映画「ブラザーサン・シスタームーン」のあの人です
貧しく貧しく生きながら、自然を愛し、動物を愛し、宣教し
そして、亡くなっていった「聖人」です

もう、私のようなやわな人間は書いているだけで疲れてきています
一体何でキリスト教の人達は、究極の自己犠牲をするんでしょうかね

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他の人のブログを見て、

2014-08-15 11:02:38 | 自己犠牲について
8月9日に「人気ブログランキング」というのに、
無茶苦茶にいじりながら登録できたけど、
(そのせいで一行開けでしか書けなくなってとても困ってますが、
今日はどういうわけか、一行開けから解放されてますね・・)

ランキングを見ながら他の人のブログを少し読んでみました。
私のブログは、6年ぶりの再開なんですが、
放置状態のブログも結構あって、それがランキング上位にあったり
全く、このランキングなるものの位置がわかりません。
私のブログの昨日の訪問者数は9人ですが、それで574人中141位とかになっていて
何でこんなに訪問者数が少なくて、ランクが上位なのよ???と
皆目理解できません。
まして訪問者数の中に自分が見たのもカウントされるそうで、
だとすると、訪問者って一体何人?という感じですよ
機械の巡回を入れたら、2人か3人だったりして。。
それで、574人中141位だったら、ブログって何人他の人のは読まれている?
一体更新率はどれくらい?って話になります

少し他の人のを読んでみたのですが、色々で、中断しているのも多いけど
独身の男の人がお母さんの介護を必死でやっていたり
猫との二人暮らしで、私と同じ位の年齢で身体があちこち心配で、とか
私も幾つか病名(持病)を持っていますが、
何だか・・・感想も、色んな人が一生(所)懸命生きているんだなあ・・、とか

で、昨夜北原怜子さん関連のユーチューブにたまたま行き当たりました
「いつも笑顔を絶やさず、怒った所を見た事がない」人だそうです
アリの町の主要人物の顔も名前も性格も出てきました
その中で、北原怜子さんは、やはり聖女のような方でした
自分に厳しく、他人に優しく、信念を頑なに曲げず、己の自省を常にし
って、今の人達とは正反対みたいですが

最近の「自己弁護」「自己保身」「反省の皆無」
又妙な「自己責任論」がはびこり、全てを他人になすりつける
つまり、悪くない人に向かって「自己責任論」を称える
卑怯な世の中になってきている
人間が弱くなってきている

「正直者が馬鹿を見る」
昔の言葉ですから、昔からそうだったんでしょうかね?
その割合が変化しただけ?
さぁ、
子供に偉人伝の伝記物語を読ませるか
偉人のあからさまな問題人格をそのまま伝記にして読ませるか

前から思っていたのですが、子供には夢を与えるべきか
それとも、人の醜さ・弱さを最初に教え込んでしまった方がいいのか
これ、どうなんでしょう?

無駄な期間をなくすという意味で「人間はこんなもんだ」って
子供のうちから知らせた方がいいのか、どうなのか
大多数の人間は、こうであって、その中にとんでもなくいい人間もいる、と言うべきなのか?
最初に本当の事を教えるべきなのか、否か

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