イブの翌日だというのに、私は朝っぱらから、港にある刑務所まで、車を走らせていた。海岸通りの標識はみな、海側の半分は凍っている。空は大抵が白。そこへかすかな桃色が流れて、海をより一層、暗く見せている。こんな景色じゃ、道を間違ったって仕方がないが。しかし、その暗さのなかで、不定期にキラリと、彼方の標識が朝日に反射して、私の意識を掴む。お前の行く先はほかにない、と。
接見が許されたのは、2時間前のことだ。当局にはこれまで、何度も接見を申し込んだ。死刑囚と対面するのは、そう簡単なことじゃない。いよいよ執行の当日になって、私はようやく、126号とだけ呼ばれる1頭の人狼と、対面する機会を得た。それがために、今こうして、車を走らせている。彼は別に、誰かをあやめたというのではないが。しかし、死刑に処せられることは、疑問の余地の無いことであった。
建物のはるか手前のゲートで、FAXされた1枚の許可書を見せ、そこから一直線に円柱の建物本体へと続く、草むらも何も無い、ただ広く開けただけの吹きっさらしの道を、ひたすらに走る。時計に目をやる。あと1時間と35分しかない。刑の執行までに間に合うのか?。不安が胸をよぎる。
円柱の建物本体はドーナッツ状で、穴の部分に、申しわけ程度の駐車スペースがある。指定されたスペースへ、円の半径に沿って車をきっちり止めるのは、思いのほか難しい作業だ。車を降りる先から、動物園のような獣臭がする。この人間工学に反した駐車スペースからしても、普通の刑務所ではないのだ。どこか上のほうで、力任せに鉄格子をギシギシ揺する音がする。見上げてはみるが、壁には同じ色、同じ形の凹みしか見えない。
よそ見をしているうちに、音も無く分厚いドアが開いており、反応が遅れた私は、慌てて中へと駆け込むような格好になった。そのすぐ後ろで、分厚いドアが滑るように、音も無く閉まる。出られるのだろうか?。私はふと、不安になった。もしかしてこれは、私を捕らえるための…
床に描かれる矢印に導かれて、私は地階をぐるりと歩いて、恐らくは、先のドアの反対側辺りにやってきた。あと1時間20分。気は焦るが、頭がついてこない。行く手の右側で、厚いドアがスッと開く。ここへ入れということか。私が踏み込むと、部屋の明かりがパッとついて、目の前のガラスの向こうに、126号がいた。
「20分間の接見を許可します。会話内容はビデオとして保存されることを、あらかじめお知らせします。」天井のスピーカーから、ほとんど棒読みなメッセージが流れる。
20分だと!。私はスピーカーに向かって拳をあげた。「約束が違う。執行直前まで話せるはずじゃないか。」
「俺がそうした。」と、126号は言った。呟いたのだが、マイクの音量は十分だった。「もう話すことなど無い。」126号はそう言って、私を黙って見ている。
私はガラスの前の席についた。見上げるような人狼の体は、泥にまみれたように汚れている。これが126号、市谷光男だった男の姿なのだ。
「あと15分です。」抑揚の無い声が、天井のスピーカーから流れる。私は顔をあげてスピーカーを睨む。フフッと、市谷が鼻で笑う。下あごの尖った歯が見える。それは茶けて、輝きは無かった。
もう時間が無い。私は口を開いた。が、言葉は出なかった。質問なれば、ノート1冊書き溜めている。その欠片すらも出なかった。この死刑になるほかない男に、いまさら、何を聞けばいいのだろう。ひとをあやめたというのでもない。私の調べた限り、法に触れることは何もしていないのだが、死刑になるほかないこの男。私はこの男に向かって質問すべきだろうか。質問する相手が違うのではないか。
「あと10分です。」抑揚の無い声が告げる。気づけば、市谷はニタッと笑って、その獰猛な目で、私を睨んでいる。鋭い眼差しではあるが、その眼差しのなかに、私は黄疸の症状を見て取った。この男は、どのみち死ぬのだと、私は思った。このバネのようにしなやかな肉体の持ち主、生きることしか頭にない人狼が、ことのほか身の健康を思う人狼が、その目に黄疸をきたすという。いったい、どれほどの苦悩を経験したのか。
「あと5分です。」抑揚の無い声が流れる。突然、126号は立ち上がり、私の頭上のガラスを、両手でバシンと叩きつける。私はもんどりうって、床へ転がった。縦一筋に、ガラスにヒビが走る。
「うっせぇぞ!いちいち言うな!」荒い息をして、市谷は人差し指の汚れた鍵爪を、天井のスピーカーに差し向けた。
「なぜ逃げない?」私は口走った。逃げない、だと?。口走ってから、私は、書き溜めた質問ノートの中身を、思い巡らした。そんな質問、書いた覚えはない。
市谷だった獣は、今あげた手をぶらりと下げ、無防備な姿で、何か珍しいものでも見るような顔をして、私を見下ろしている。不意に目線を下げ、まるで何かを諦めたかのように、力なく床へと座ってしまう。投げ出された右の足には、ふくらはぎから股間にかけて、捕獲のときに負っただろう、深い傷跡があった。
私は、その獣の、あまりの変わりように驚いて、縦一筋にヒビの入ったガラスに、かまわず両手をついて、その大きな体を見上げた。おそらくは聞き取れないほどの、小さな呟きだっただろうが。しかし、マイクが、十分にその呟きを増幅して、私の耳にまで届けた。
「主は、来なかった。」私は確かに、そう聞いた。そしてそれが、人間だったこの生物の、記録では最期の言葉となった。