おじんの放課後

仕事帰りの僕の遊び。創成川の近所をウロウロ。変わり行く故郷、札幌を懐かしみつつ。ホテルのメモは、また行くときの参考に。

月の庭(2)

2025年02月03日 | 小金井充の

 喫茶「夜明け」の、小さなテーブルを挟んで、ビジネス・ウェアをさりげなく着こなした男女が、声を落として談笑している。短いお昼休み。
 「何年になるかしら。」目じりのシワは増えても、えくぼの可愛らしさは、なお、変わらない。企画課を経て、この十年来、人事課で人材リサーチをやっている。肩まで伸ばしたつややかな黒髪は、今もう、後ろで簡単にくくられて、年齢相応の落ち着いた雰囲気に、軽快感を添えている。
 「八年?十年?」男性は茶化すように言う。手にした白いコーヒー・カップを引っ込め、残る手を女性にむけて、ちょっと前のめりになる感じ。センターで分けた、白髪の混じった短めの髪が揺れる。その白と、白いコーヒー・カップとが、茶色のスーツに映える。
 「会長さんがお亡くなりになってから……」女性は顔を恥かしげにティー・カップへ向け、両手でその温もりを包む。「もう八年かしら。」色とりどりの控えめな花柄に縁取られたティー・カップが、深い青のドレスに映える。
 「そんなになるかぁ……」男性は椅子の背にもたれて微笑む。「親父の遺言みたいなものだから。」ひと口コーヒーをすすり、カップを置く。老いて節の目立ち始めた両手を、腹の前へ組んで、フゥと軽く溜め息をする。
 「でも、ひどい言われようね。」女性は微笑み返し、カップを持って軽く揺らす。立ちのぼる紅茶の香りを楽しみ、ひと口飲む。お肌のケアは欠かしていないが、男性同様、節の目立ち始めた華奢な両手のなかへ、カップを戻す。男性の胸の辺りに、かすかな光のまたたきを感じて、女性は顔をあげる。「社長、お電話ですわ。」
 え?、という顔をして、椅子の背から起き上がり、男性は胸ポケットを探る。探り当てたとみえて、かすかなバイブレーションの音が、女性の耳に届く。手のひらに十分収まるサイズのスマホを、もう片方の手に持ち替えて、男性は画面の明滅の眩しさに切れ長の目を細めつつ、通話ボタンを押し上げる。
 「どした?うん。今、佐々木さんとお茶してるとこ。あー、例の件ね。はい。十分くらいで戻るから。よろしく。」通話ボタンを軽やかにタップして、男性は慣れた仕草で、スマホを胸ポケットへ返す。「あんまり関心持たんで欲しいなぁ。」やれやれという具合で、男性は椅子の背にうなだれ、ダラリと両手をたらす。口をとがらせて、女性の手の中のカップを見遣る。
 「送還のことで?」女性はやや体を曲げて、顔を少し斜めに、男性の顔を確かめるような仕草で、ん?というふうに目を見張って見せる。
 男性は口をとがらせて、渋い顔だ。「新聞が取材に来てるって。約束の時間くらい守れよなぁ。せっかく佐々木さんとお茶しに来たのに。」背を起こして、まだ中身が十分に残っているカップを取り、顔の前で揺らす。コーヒーの香りを楽しんで、飲まずに、そのままカップを戻す。「ねぇ、佐々木さん、急で済まないけど、一緒に取材受けてくれない?。世間の評判とか、うちも把握してますって、ちょっと披露しておきたいから。」
 「でも、あんまりいい評判ではないですけど。」女性はティー・カップを持ち、ひと口飲む。飲むときに無意識に目をつむってしまう。
 その様子を微笑ましく見守りながら、男性は頭の中で、言うべき内容を整理し始める。「佐々木さんの所へは、どんな噂が聞こえているの?」
 「路頭に迷うよりまだひどい。面白いことは何もない。刑務所よりひどい。監禁。強制労働。社長の独裁。趣味の悪い道楽。」手帳を見ながらのほうがいいと、女性は脇の小さな黒いバッグへ手をやるが、しかし男性の、もう十分という仕草を見てやめる。「いい噂は、ありませんね。」
 「それはむしろ歓迎さ。」男性は、あらためてカップを取り、ひと口飲む。カップを戻し、両手を両のひざへかける。女性に微笑んで見せ、椅子の背に戻る。「そういう噂が広まれば、かえって集まるひとたちがいる。カネは無いが、むしろこの世を謳歌しているそういうひとたちが嫌うほど、やって来るひとがいる。そこは、取材には言わないけど。」男性は、テーブルの上にちょっと見えるくらいの位置で、片手の人差し指を立てて、チッチッと振って見せる。
 「世間様は、悪いほうに取りますわ。」ティー・カップに顔を向けてしまい、女性は紅茶の水面に映る、船倉のように梁の多い天井の影を見遣る。「ゴシップで有名な新聞社ですもの。八年前のように、一流の新聞からの取材ではありませんわ。」そして男性の顔を見て、「なぜお受けになりましたの?」と言い、何か出すぎたことを言ってしまったというような、後悔の表情を浮かべて、女性はまた、紅茶の水面に目を戻す。
 男性は、顔を女性のほうへ近づけて、さらに声を落として言った。「これはまだ秘密だけど。役員会の満場の一致で、計画の終了を決めたからさ。」
 「ええ?」女性は、面白そうに微笑みを浮かべて自分を見ている男性の、まるで事も無げな姿に、困惑してしまう。
 そんな女性の姿を前にして、男性は、事の経緯を説明しておかねばと思った。「すべては、この喫茶店から始まったんだ。」椅子の背にもたれ、カップを口へと運ぶ。コーヒーの香りを楽しみ、今度はしっかりと飲む。「佐々木さんがまだ企画やってたころ、親父と親父の知り合いと、ここへ初めて来てね。僕はまだあの時分、レトロな趣味はなかったけど。世の中がどんどん変わり始めるなかで、目覚めたさ。」男性は女性に紅茶をすすめる。「その時、親父が声をひそめて、変なことを言い出した。この世でカネを残すのはよくない。俺もそろそろお迎えだから、パッと使ってしまいたいって。そりゃあ、親父が稼いだカネなんだから、異存はないさ。けど額が額だから。何に使うのって聞いたら、秘密基地を作るって言うんだ。ガキかよって笑った。それが、ただの秘密基地じゃなかったのは、世間も佐々木さんも知ってる。」
 楽しげに微笑む男性の顔に、女性は真顔で頷く。「宇宙基地ですものね。」そして男性の話を促すように少し微笑んで見せ、もう冷めかけた紅茶を、ひと口飲む。
 その女性の仕草に、さすが、人材リサーチの室長だけあるわと、男性は改めて思った。その微笑みに甘えて、話を続けるとしよう。「僕らはここで、週に一度か二度、その話をすることにした。親父は言うのさ。社会人としては、確かに成功したようだが、生物としては落第だって。その時の残念そうな顔、昨日のように覚えている。」両手を小さく振り、おでこに触りなどして、手振りを交えつつ、男性は思い出話を続ける。「もう、どこへ行っても遅いが、希望はあるってね。親父と一緒に来てた知り合いが、宇宙進出を目論むベンチャーの社長でさ。スポンサーと事業主ってわけ。その次にはもう、お前には今の会社と、これだけ残すからって、弁護士も連れてきて、ここで生前贈与のハンコ押したさ。お前は成り行きを見ててくれればいい。直接には関わるなって言われた。ただ、予算が尽きたら、事業を閉めてくれ。その手続きは頼むって。金持ちの秘密の道楽に、つきあわされたってわけ。」
 困ったなというふうに、男性はおでこに手をやって、自分でも苦笑いしながら、ひと呼吸置くべく、冷めたコーヒーを飲む。「登記上は、うちのハッチャケた、奇想天外な事業の扱いで、世間様の興味関心をひきつつ、正味八年やったわけ。その予算が尽きつつあったから、いい機会だと思ってさ。月の腹の中に、生きものだった頃の僕らの生活を再現するなんて、僕には意味不明だったけど。親父の道楽だから仕方ないくらいに思ったけど。今は親父と同じ思いだわ。僕ももう、あそこへは行けないが。希望はある、と思いたい。結局、十二回かな、男女別に、可能性のありそうなひとたちを、」
 ブブーと、男性の胸ポケットがふるえる。ペカペカ光る画面を、眩しそうに見ながら、通話ボタンを押し上げる。「はい、今から向かいます。待たせといて。よろしく。」小さなスマホを、スルリと胸のポケットに滑り込ませて、それがちゃんとあることを確かめるように、背広の胸をポンポンと触って安心する。「さあ、行きますか。佐々木さんに話して欲しいところは、僕がふるから。さっきの噂のとこね。」
 「ありがとうございました。」と、店主に送り出されて、二人は喫茶「夜明け」を、あとにする。ガラス戸の自動ドアを出れば、そこは踊り場。地下二階にある地下鉄駅から、地上へと続く階段の、地下一階の踊り場。下からのぼってくるひとの波は、二人を飲み込んで、地上にあふれだす。タクシーをひろって、走ること数分。かつて名うての新聞社だった建物が、内藤商事のオフィス。輪転機のあった広い空間が、空調を効かせた倉庫に、もってこいだった。
 「お待たせして申しわけない。」ふて腐れて椅子に雪崩れている記者の姿を認めて、内藤社長は自分から声をかける。
 「いえ……」と、小柄ながら、なかなかのおなか回りな記者は、めんどくさそうに立ち上がり、背広の脇の膨れたポケットに手を突っ込んで、擦れた名刺入れを取り出す。「夕刊真実の鈴木といいます。今日の版に間に合わせたいので、さっそく伺いますが、」
 「今日?それはまた急だな。いや、光栄です。」内藤は鈴木記者に先の椅子をすすめ、自分は佐々木室長を連れて、向かいの席に座る。
 「光栄?」と、鈴木記者は無表情に呟いて、メモ帳を広げたテーブルすれすれの位置から、内藤の顔をマジマジとのぞきこむ。短髪の丸顔に、黒眼鏡が光る。眼鏡の奥に宿る眼光は、本物のようだ。
 「ええ。」と、その眼光を避けるように、ちょっと背をそらしつつ、内藤は応じる。テーブルの上に両手を軽く組んで、記者に真向かう。大きく息を吸う。「この事業はもう、世間から飽きられていますから。わざわざ取材に来てくださる新聞社さんは、ありがたいです。」
 内藤の自然な微笑みを見取って、鈴木記者はしばしメモ帳を見下ろす。しかし、何かが足りないらしく、テーブルの上や下をキョロキョロと見てから、今気がついたというふうに、自分の黒カバンに手を入れ、短くなった鉛筆を拾い出す。黒眼鏡の相当に近くまで鉛筆を持ってきて、芯が出ていることを確かめてから、ノートに「栄光。世俗から忘られつつある事業に、今も親しみを忘れ得ぬ内藤社長。」としたためた。相手に見られても、一向、構わないらしい。
 「それでは伺いますが」と鈴木記者。「月へひとを送るというこの事業は、亡くなった会長さんの御遺志だそうですが。会長さんがこの事業を始められたのは、どういういきさつですか。」相変わらず、テーブルすれすれの位置から、内藤の顔をのぞきこむ鈴木記者。
 「その前に、佐々木室長を紹介します。」と内藤。隣で佐々木室長が礼をする。鈴木記者は答礼をするだけはして、もう内藤のほうへ意識を向けてしまう。佐々木室長は微笑んで、鈴木記者のその姿勢を受け入れた。渋い顔の内藤。
 内藤のご機嫌を察してか、鈴木記者は再び佐々木室長のほうへ顔を向けて、「すみません佐々木さん。次回、お話を伺う機会もあるでしょう。なにぶん、今日の版に間に合わせたいので。勘弁願います。」と言って微笑んだ。
 この男、微笑むことができるのかと、内藤は思った。まあいい。今は質問に答えよう。「父は生前、儲けることに忙しくて、夢を持てなかったと、嘆いておりました。それで何か、ハッチャケたことをしてやろうと、思ったようです。」
 ところが鈴木記者、先ほどとは打って変わって、今度はスラスラと、メモ帳に記号のようなものを引き出す。ははぁ、速記かと、内藤は思った。なるほどこれならば、相手に見られても構うまい。
 「事業規模は、金額にして、どのくらいですか。」と、鈴木記者。椅子にしゃんと座り直し、もう、ノートから目を離さない。
 「およそ、五八〇億ほどです。」と、内藤。これを聞いて、ほぉ!という雰囲気を漂わせる鈴木記者。顔が見えないから、察するほかない。
 「当時は、世間に夢を与えた事業でしたね。反響は大きかった。」と、鈴木記者。
 まあ、今のところ好意的だなと、内藤は思った。「そうです。みなさんに夢を持ってもらえて、父もあの世で喜んでいると思います。」
 内藤の言葉を聞いて、鈴木記者の鉛筆が止まる。「すると、会長さんの夢は、叶ったということですね。」念を押すように、しかしやはり、ノートからは目を離さずに、鈴木記者は言う。
 「そう思います。父も満足でしょう。」内藤は、鈴木記者の頭の、大きなつむじを相手にして言った。
 「会長さんも、ということは、社長さんも満足されているということですね。」と、鈴木記者は念を押す。おしまいの「ね」は、問いかけというよりも、そのように理解したという通告だなと、内藤は感じた。
 ヤバイな。質問に押されそうだ。内藤は少し不安になる。ゴシップ新聞とはいえ、いや、ゴシップ新聞であればこそ、気軽に取材を受けるべきでなかったかな。
 「ううむ」と、鈴木記者が突然に唸る。鉛筆は止まったままだ。今、たぶん、すごい勢いで、鈴木記者の頭の中に、何かが駆け巡ったのだろう。
 内藤の横で、黙って見ていた佐々木室長も、鈴木記者に何があったのかと、テーブルに身を乗り出している。
 「社長さん」と、突然、ぶっきらぼうに鈴木記者が言う。
 「はい?」少々驚かされて、内藤の言葉の語尾が上がる。
 語尾があがったのを、鈴木記者は、内藤の不服の意志のあらわれだと、とらえたのかもしれない。フッと、ノートから顔をあげて、鈴木記者は、内藤の顔を、今度はテーブルすれすれからではなく、姿勢を正した真っ直ぐなままに、のぞきこむ。
 「社長さん、今日の版は、諦めました。」と、鈴木記者は、ぼそっと言った。
 「え?、どうして?」内藤は、横の佐々木室長と、不思議そうに顔を見合わせる。
 ためらいがちに、もしかしたら、少し恥らうようにも見える様子で、鈴木記者は、身振りも、手振りも交えずに言う。「ご存じのように、うちは、ゴシップで売っている新聞です。でもその前は、そうなる前までは、無名の平凡なタブロイド新聞でした。大手とは住み分けて、地元のちょっとした喜怒哀楽を、取材してました。私的な話で恐縮ですが、私はそれが好きで、入社したんです。」微笑む鈴木記者。寂しい微笑みだと、佐々木室長は感じた。内藤も黙って、鈴木記者の言葉を待つ。
 「これは、久々に、そのころの新聞として書ける記事です。ぜひ、書かせていただきたい。」そう言うや、メモ帳に鉛筆を挟み込み、黒カバンをひったくって、あっけにとられている二人を前に、スックと、鈴木記者は立った。「戻って、デスクとかけあいます。近々、改めてお話をうかがいたい。お電話します。では。」
 「分かりました。電話お待ちしてます。」内藤は、テーブルの上に両手を組みつつ、鈴木記者の背中に、そう言葉をかけた。
 「張り切ってますわね。」佐々木室長が、胸の前に、両手を握って微笑む。
 うん、と、内藤はうなずく。あのひとも、月へ行くべきだったと、内藤は思った。
 仕事を終えて、内藤はひとり、喫茶「夜明け」に向かう。ここで一杯コーヒーを飲んで、仕事とプライベートとを切り替えてから、家路に就くのが常だ。
 「あれ?、内藤ちゃん。」ガラスの自動ドアをくぐるや、聞き覚えのある声が、内藤を見舞う。見れば、奥の四人がけの席に、ひとりで陣取って、誰か手招きをしている。シワシワの白いコートを着た、やや大柄な体の、短髪面長のふくよかな顔の男。名前も覚えやすい。
 「よぉ。福ちゃん。元気してた?」軽く片手をあげて、内藤は手招きに応える。「あ、コーヒー。ブラックで。」
 好物のハンバーグ定食にありついて、福ちゃんはご機嫌な様子。「午後に空港へ着いたんだ。ここの雰囲気が懐かしくてさ。時間ギリギリで、食えるか分かんなかったけど。」
 「ハンバーグなんて、海外のほうが普通に食べられるだろ。洋食なんだから。」コーヒーが来る。カップを手に取り、内藤はコーヒーの香りにひたる。
 「んー、いい香りだな。」福ちゃんが鼻を鳴らす。「すいません、食後のコーヒー、今もらえます?」
 「ハンバーグ美味そうだな。僕ももらおうかな。」福ちゃんの食べかけを覗き込んで、内藤は喉を鳴らす。
 「残念。オーダーストップです。ちょっとつまむか?」福ちゃんは、内藤のコーヒーに添えられたスプーンで、ハンバーグを切り出しにかかる。「ほら。」
 「悪いね、折角の好物を。あー、美味い。明日の昼飯だな。」内藤はスプーンをねぶって、カップの脇へ戻す。
 「そうさ。何か楽しみがあったほうがいいよ。会社のほふは?」テーブルに覆いかぶさるようにして、サラダを頬張る福ちゃん。シャリシャリといい音がする。
 「本業は相変わらず。」椅子の背にもたれて、内藤はそっけなく言う。
 「本業?本業以外にあるのか?」と言ってから、「ああ、月な。」と、思い出す福ちゃん。カップを取り、コーヒーの香りを吸う。ひと口飲んで、満足そうな顔をする。
 「福ちゃんほんと、美味しそうに食べるよね。」内藤の顔から、微笑みが薄れる。「あれ、終了するわ。」
 「終了?月をか?」手にしたフォークで、福ちゃんは内藤を指差す。「まあ、いろいろ噂は聞いてるけどな。」
 「噂じゃない。費用が予定の額に達したんだ。ここまで続くとは、僕も思ってなかった。」手を腹の前に組んで、内藤はひとつ、深呼吸をする。「けっこう、成し遂げた感があるわ。」
 「月かぁ。まあ俺は、地上を飛び回ってるだけで十分だ。美味いものも食えるしな。」ハンバーグの最後のかけらを食べてしまって、福ちゃんはご満悦。「んー。故郷の味が一番だ。」皿を脇へあずけて、コーヒーを、自分の前へ引いてくる。
 「あと、月へ行ったひとたちの帰還と、基地の処分と。けっこうギリギリの額しか残ってない。」手にカップを持ち、椅子の背にもたれたまま、内藤は目を閉じる。改めて思い返せば、けっこう長い八年だった。
 「へぇ。壊しちまうんだ。」言いながら、福ちゃんは皿の隅に見つけた野菜のかけらを、フォークで追っている。
 「ああ。建物を維持するお金は無いし、次の開発の邪魔になるかもしれないし、生物汚染の可能性もあるから、当初の契約でそうなんだ。特集番組でもアニメーションでやってたから、覚えてるひとも、いるかもしれない。焼却して、最後は爆薬でドカン。地盤を落下させて、完全に埋める。建設当初に、装置は組み込んであるから、その費用はかからない。」内藤は、手まねでドカンとやって見せて、微笑む。「五八〇億の、一夜の夢もおしまい。」
 「ひとがいるうちに、ドカンなんてことは無いのか?」野菜のかけらをやっつけて、福ちゃんはコーヒーで祝杯をあげる。
 「ない。一部、現地で組み立てる構造になってる。」内藤は、福ちゃんの前に両手を出して、ゆっくりと組んでみせる。「壁にあいた一塊の穴に、一塊になったソケットを差し込むだけさ。数は多いが、簡単にできるから、最後に離れるひとたちで組みつけて、こっちから信号を送って発火、起爆させる。それで完全に終わり。」
 「SFみたいだな。暗号とか送信してさ。」福ちゃんのほがらかな笑いを、半年振りに見る内藤。
 「僕ね、あの特集番組に、ちょっとだけ出てたんだ。」福ちゃんのほうへ顔を寄せて、内藤は声をひそめて、はずかしげに言う。「暗号、僕が決めたから。」
 「へぇ。そんな場面、あったか?」福ちゃんも、内藤のほうへ顔を寄せる。
 「思い出の場所。そうでもなきゃ、八年も覚えてる自信ないよ。」椅子の背に戻って、内藤は微笑む。コーヒーを飲み干して、満足げにカップを戻す。「久しぶりに、福ちゃんに会えてよかった。いい気分転換になった。しばらくは、こっちにいるのかい?」
 「そうしたいんだがなぁ。」福ちゃんもコーヒーを飲み終えて、ホッと、椅子の背に身をあずける。「週末にはもう、機上のひとさ。ま、今時、忙しいのは、ありがたいことだ。稼げる時に、稼ぐに限るわ。」
 会計を済ませ、地下一階の踊り場へ出る。「じゃあ。」と、お互い片手をあげて、福ちゃんは階段をおり、内藤は階段をあがる。陽はとうに暮れて、空一面を雲が覆い、風が出ている。この時間では、流しのタクシーはつかまるまい。階段の途中で、内藤は振り返る。父との思い出の場所、喫茶「夜明け」の、小ぢんまりとしたレトロな店構えに、内藤は思わず知らず、懐かしさを覚えた。
 地下二階の踊り場に、この時間でも客足の途絶えない、立ち食いそば屋がある。角刈り頭の、外套とジーパンの上からでも体格のよさが知れるオッサンが、二人分のスペースを占領して、天玉うどんを豪快にすすっている。その後ろでは、女子たちと観光客らが、声をひそめてキャアキャア言いながら、立ち食いそば屋とムキムキのオッサンという、稀に見る光景を写真におさめている。誰か、外国のドラマ俳優と、勘違いしているらしい。
 シワだらけの白いコートを着た、短髪面長の冴えないオッサンが、階段をおりてくる。角刈り頭を、ものめずらしそうに眺めながら、コートのポケットから釣り銭を出して、天玉うどんを注文する。角刈り頭が気をきかせて、一歩脇へ退き、スペースを作ってやると、後ろでは女子たちのブーイング。
 汁を一気に飲み干し、優しくトンと、どんぶりを置く角刈り頭の横で、短髪面長のオッサンが、「夜明け」と囁く。
 しかし、角刈り頭には何も聞こえなかった様子で、ただ「ごっそさん」と言い残して、角刈り頭は地下鉄へと向かうひとびとの流れに混じり、改札の中へと消えた。


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