「こんな星はやく宇宙から消えろっつってんだよ!」
目を開くと、机や窓の輪郭が、うっすらと見える。まだ夜明け前。起きるには早い。参ったな。叫んじゃったんだろうか……。掛け布団を抱き込み、胎児のようにちぢこまって、僕はあの、カンカンと鳴る、軽い造りの廊下のことを思う。まだ時々、発作のように、あそこでの夢を見る。
暑い。ものうげに、仰向けになる。フゥとひとつ、溜め息が出る。天井はもう、元の天井にしてある。中庭に雨が降れば、連動して、天井にも雨が降る。天井が落ちた家で、ビニール・シートにくるまって見上げたのと同じ空。それを見てから、天井は天井のままにしてある。
そろそろと、布団から片手を出して、汗で湿った前髪をぬぐう。でも、思ってみれば、誰かの叫びを聞いたことはない。はや存在を忘れかけた、窓枠と一体型のスピーカーから聞こえる中庭の音のほかには、自分が出す生活の音以外、聞こえてこないな。なら大丈夫かと、気分は軽くなる。外れた枕を手繰り寄せて、首の下へ詰め込む。スッと息が深まる。
目覚めはよかった。ピピッと机が鳴る前に、起床完了のボタンをタップする。続けて日課が数行、表示されるが。しかしもう、見ずとも分かっている。昨日干した靴下を、浴室へと取りに行く。シーツ類と一緒に、衣類を全部、回収に出すひともいるけれど、僕は下着と靴下だけ、洗面所で洗っている。回収されたシーツ類が、どのように洗われ、仕分けされるのかは、当番で実際にやっているので、よく分かっている。下着や靴下を回収に出したとしても、衛生的に問題ないし、誰かの手間になることもない。あとは個人の好み。ここでは時間があるから。時間があるというだけで、部屋も綺麗になる。
机の引き出しから端末を出し、昨晩支給されて、扉の前の壁のフックにかけておいた、今日の分の作業着一式を着込む。レイン・コートのような、防水性の作業着。帽子を前後ろにかむり、フードをかむる。あの日支給された長靴をはく。今日は軍手ではなく、厚手のゴム手。あの日、ずぶ濡れになった靴は、ちゃんと乾かされて戻ってきて、今は、なかなか履く機会のないままに、扉の脇へ置かれてある。
キュッキュッと靴底を鳴らしながら、青白い光の回廊を歩き、緩やかに照度を上げる空間に立つ。ゲートの脇の細い換気口が開き、ゴロゴロとゲートが引き上げられる。端末の画面に出る矢印は、もう見なくていい。見学は頓挫してしまったが、あの日、斉藤さんに連れられて降りた螺旋階段を、まさにその地下二階まで降りていく。台風と洪水とを難なく過ぎて、廊下で酸素マスクを受け取り、汚水処理のプラントに入る。誰かポンと、僕の肩を叩く。
「今日も早いね」と、斉藤さん。マスクの中で、いつもの笑顔が少し汗ばんでいる。「前田さん今起きたところだから、来たら始めましょう。」
僕はうなずいて、細長い処理槽の奥で、段取りを始めている角さんの脇へつき、水のホースの接続を手伝う。
「あ、おはよー。」と、マスクの中の、いつもの眠たげな顔で角さんは言う。斉藤さんの次の船で来た、ひょろりと背の高いひと。挨拶した日に、首の傷を見せてもらった。
「おはようございます」と僕。「もう一機、使いますよね。」
「うん。じゃあ、任せたね。」と、角さんは、僕が横手に水ホースをつなげた、まるで酸素ボンベのような機械を、よいしょという具合に両手で抱え上げて、処理槽のさらに奥へと入っていく。機械の頭についている、太くて短い排水ホースが、前回の残りの水分を垂らしながら、ズルズルと、角さんのあとをついていく。
僕は残りの一機に水ホースをつなぎ終え、角さんのように抱え上げようとするが。しかし、ことのほか重いこと。おまけに排水ホースのせいで、あちらへ、こちらへと振り回されそうになる。
「コツがいるんだよ」と、僕の後ろで斉藤さんが言う。「後ろ、持ったげるから。」
角さんは、機械を床に置いて、慣れた手つきで、排水ホースを処理槽の下のすき間へ引き回し、脇の乾燥機の下側につないでいる。見よう見まねで、僕もやってはみるものの。処理槽の下のすき間はけっこうシビアで、思うように通ってくれない。そうこうするうちに、太い腕がヌッと、僕の前にあらわれた。排水ホースをつかむ。
「機械、も少し前に出してくれたら、俺つなぐから。」と、前田さん。宇宙船の中で、角刈り頭と、力こぶの見せ合いしていたひと。僕は排水ホースを手放して、機械を押しにかかろうとするけど、前田さんの力だけで、機械がグイグイと前へ出て行く。
「つなげたぁ?じゃあ、フタ、開けよっか。」眠そうな角さん。でもアクビは出ない。「これやらないとぉ、みーんな、生きていけなくなっちゃうから。」そう言って、ハハハと、力なく笑う。
斉藤さんと僕とで、片手ずつ、処理槽のフタの取っ手をつかむ。「ィヨッ!」と、気合を入れて持ち上げる。重っ!。持ち上がるそばから、黒い泥があふれ出す。空調がうなりをあげる。
「あー、カラカラ言ってる。」斉藤さんは、天井の吸い込み口のそれぞれに、耳を向けてみる。「次の班のひとたちに、お願いしなけりゃ。」
角さんはそつなく、前田さんは力技で機械を抱え上げて、泥のなかへ、その先を差し入れるが、しかしなかなか、ウレタンのような黒い泥の中へは、入っていかない。
「水ぅ。」と、角さんが、マスクの中から表情のない顔で、僕を見やる。この顔には、最初はドキリとさせられたものだ。
フタが倒れないのを確かめて、僕はさっき、機械に水ホースを組み付けたところまでとって返し、かがんで、壁から出ているコックに手を伸ばす。ブォォォという、プロペラの回る音が聞こえだす。
「ぶはっ!」という、前田さんの声。振り返れば、前田さんの側から、黒い水しぶきが上がっている。角さんが、前田さんの機械を、グイと引き寄せる。水しぶきは止んだが。しかし、二人とも、泥をかむって散々な姿。斉藤さんは、元よりフタの陰に隠れていて、無事の様子。
「もっと出せ!」前田さんの、マスクのせいでくぐもった、太い声が響く。出し過ぎると、かえって泥があふれてしまうから、単純に全開というわけにもいかない。斉藤さんが僕のほうを向いて、両手で大きく丸を作る。
乾燥機の底からは、ゴボゴボと泥があふれ、コンベアで、一段目の電熱器の下へと運ばれていく。生乾きになった泥は、ローラーで押されて薄い板状になり、二段目の電熱器で焼かれて、養分に富んだ、無菌の土になる。粉砕されたあと、コンベアで中庭におろされ、居住者の食卓にあがる菜園の、新たな土壌として利用される。
「もういいでしょう。水、止めてください。」斉藤さんが、僕に手を振る。泥が引いて、澄んだ水が流れ始めたころあい。角さんと前田さんは、泥の散った床へ機械を寝かせて、水ホースを外しにかかる。
「水ぅ。ちょっとね。」と、角さん。前田さんと、お互い、かむった泥を洗い流す。それからホースを床へ向けて、「いいぞ」と、前田さんは僕に言う。ここからは水全開。処理槽や天井に跳ねた泥を、丁寧に洗う。
角さんは、機械を洗ってから、床の泥を流しにかかる。常に空気が吸われるために、どれだけ濡らしたところで、じきに乾いてしまう。綺麗にしておかないと、虫や動物に侵食されかねず、次に自分らがやるとなれば、気が滅入ることにもなる。それは誰だって同じだろう。
斉藤さんと僕は、機械を引いてきて、コックの向こうの、二つあいた横穴に、それぞれ押し込む。頭までは入らないので、そこへ排水ホースを巻きつける。
「おーい」と、前田さんの声。コックを閉めて、斉藤さんと僕は、水ホースを引っ張りながら、手前のフックへと、巻き収めていく。
「ちょっと出して、私らも洗いましょう。」斉藤さんが、僕にホースの口を向ける。上はフードから、下は長靴の底まで、互いに水をかけあう。まあとにかく、みんなビショ濡れだ。年をとったら、こんな作業はできないだろうなと、僕は思った。
プラントの出口で、酸素マスクと防水服、厚手の手袋をあずけ、長靴は、消毒槽の中でジャブジャブやって。満足げな面持ちで、四人はプラントを出る。青白く縁取られた螺旋階段をのぼりだす。上からの光が眩しい。
「ごくろうさんです。午後は牛をやりますから。」と、斉藤さん。頭上の枝に、小鳥のさえずりが聞こえる。
「あの汚水は、あの先は、どうなるんです?」と、僕は斉藤さんに聞く。
「この中庭の土からの蒸発と、木々の蒸散とで、いわば濾過されて、あの上の換気扇とパイプで」斉藤さんは天井を指差す。「回収されて、生活用水になります。その一部がフィルターを経て、飲用水になる。」
「吸い出した臭いは、どうなります?」と僕。この際だから、聞きたいことは聞いてしまえ。
「場内の排気はすべて、ダクトの中を流れて、一度、月の表面に出るんです。」斉藤さんは、片手の指を上へ向かわせ、その手にもう片方の手の指を、上から降り注ぐ感じで当てて見せる。「そこでは、宇宙線から二次的に出る粒子を適当に減速して、脱臭の効果を持たせてあります。そして」
斉藤さんは、自分らの行く手にそびえる、中庭の周囲の壁と天井とを支えている太い柱の一本の、その一番上のほうを指差して見せる。「あそこら辺から横へ噴き出したのが、中庭を大きく、ゆっくりと巡るうちに、虫や木々や細菌、建材、ホコリなどで成分を調整されて、この地べたで、私らも呼吸する空気になります。」
「だからぁ、変なもの、使っちゃダメだよ。」角さんが、相変わらずの眠そうな顔で、僕らに微笑む。自分の部屋へと、やんわり、歩き出す。
「さあ、飯だ飯だ。」前田さんも、ズンズンと先へ歩いていく。
「私らも、ご飯にしましょう。食べてから、あの泥を見る気には、なれないなぁ。」斉藤さんは、背中越しに、手を振って見せる。みなさん、なんだか楽しそうな。前田さんは飯があるとしても、斉藤さんや角さんは?。僕も、だな。
「ニャア」と、脇の木陰で、猫氏の鳴き声がする。今日もオヤツにありついて、ご満悦の様子。ここにいる動物は、僕の見た限り、オスだけだ。午後から世話に入る牛も、オスしかいない。牛とは言うものの、子牛ばかりだし。
猫氏の隣に座って、僕は木にもたれる。はるか以前の記憶に、こんな景色があったかもしれない。猫氏は、頭をかいてやると、気持ちよさそうに顎を出して、目を細める。この中庭に何匹かはいて、それぞれが誰か彼かからオヤツをもらうので、少々太り気味。イヌやカラス、騒々しい輩は、ここにはいない。
ドヤドヤと談笑しつつ、他の班のひとたちも戻ってくる。僕がここにいることを、誰もとがめない。一人が立ち止まって、僕に声をかける。
「泥の掃除、大変だったでしょう。」港さんは、斉藤さんと同期。小柄ながら、作業服の似合うひと。あそこでは、無理をして、電気工事の下請けをしたのが、最後の仕事だそうな。
「みんなズブ濡れになりました。」と僕。港さんは、うんうんとうなずいて、片手を振って、自室へと戻っていく。科学の進歩。見た目では分からないが。しかし、感電して墜落して、左足を失ったことは、みんな知っている。僕は……。
そうだ。午後も力仕事。飯、食っとかなきゃ。猫氏とお別れして、僕は自分の部屋へと続く、高いゲートの前に立った。
部屋へ戻ると、麦の焦げた、いい香りがする。思い出したように、唾が湧いてくる。机の上に帽子を放りだし、ビジネス・チェアを押して、洗面台の横へ。いい感じに焼けた分厚いトーストが、四角く斜め半分に切られて、編みかごの布の中に、鎮座している。
「さすが」と、思わず声が出る。今日のうちに何もなければ、僕らは明日、これを作る。黄身のトロリとした茹で卵の脇には、ジャムと、バター風味のマーガリン。ジャーマン・ポテトも、いい塩加減。ここでは希少品のコショウも、惜しげなく入っている。牛肉なのを除けば、本場もビックリだろう。
半分くらい、一気に食べてしまったが。しかし、昼の時間は、十分にある。デザートのリンゴを一切れ。紅茶を飲み、気分を落ち着かせる。子供の頃、あそこでは、よく噛んで食べろと言われたなと。ここではおのずと、よく噛むようになる。よく噛むというか、味わうようになる。
机に戻って、完了のボタンをタップする。昼から散水の告知が出ている。うまく水が回ったようだ。午後の仕事は、それからだな。ビジネス・チェアの背にもたれて、あれも自動化すればいいのにと、僕は思う。思ってから、考えてみれば。忘れかけていた。ここは研修所なのだから。
ピピッと、机が鳴る。ここに来て以来、見たことのない長文の告知が、画面に表示されている。
「班長会より居住区のみなさまに。汚水処理プラントの、昨今の故障頻発の状況にかんがみ、本社へ修理改修を打診しておるところです。その返答が来ましたので、みなさまにお知らせいたします。まだ期日は決まっておりませんが、準備が整い次第、緊急の要件として、新たな装置持参で、作業班が派遣されます。おそらくは、次回の物資輸送に伴って、来場するものと思われます。その際、みなさまの日課には、一日から数日の間、汚水貯留の作業が追加されます。方法などについては、追ってお知らせいたします。以上。」
「故障かよ……」思わず声が出る。いやしかし、どんな故障にも、対処していかねばならないのだろう。サーッと、ホワイト・ノイズのようなかすかな音が、窓から聞こえてくる。散水が始まったようだ。僕はビジネス・チェアを立ち、窓辺へ寄る。雨というよりは、霧に近い。見上げれば、けぶった天井の所々から、水が噴きだしている。いずれ、あれも修理しなけりゃならなくなるのか。僕はいつしか、窓枠に添えた手を、握り締めていた。
牛舎と畑とは、地下へ降りる螺旋階段を過ぎて、中庭のもっと真ん中辺りに設営されている。僕は散水が終わってすぐ、中庭に出た。道端の、つややかに光る芝生を眺めながら、螺旋階段を過ぎて、稀に、どこかで水浴びしている小鳥の羽音を聞きなどしつつ、牛舎へと歩く。後ろから、ドシドシと迫ってくる、長靴の音。振り返らずとも、前田さんとは知れる。
「告知見た?」前田さんは、横へ並ぶなり、少し背をかがめて、僕の横顔を覗き込む。「俺、帰ろうと思うんだ。」
「帰る、って?」どこへ?、と聞きそうになって、僕は言葉を呑む。もうすっかり、ここの住人だな。
苦笑いを浮かべる僕の顔を、別の意味で見取って、前田さんは黙ってしまう。
二人並んで歩いている姿は、きっと、僕が子供のころ好きだった、獣人さんの漫画みたいだろう。何となく筋書きを思い出して、僕は微笑む。
「なんだよ。渋い顔したり笑ったり。」隣で前田さんがいぶかる。「まあいいや。ちかぢか来るっていう修理の船に、便乗させてもらうつもりだ。部品をおろしたら、そのくらい余裕はあるだろ。」
僕は、うんうんと、うなずいて見せる。実際、希望すれば無条件で戻れるんだし。希望しなくても、戻されるくらいなんだから。
「ここへ来る前、前田さんは、どんな仕事をしてたんですか。」と僕。宇宙船で乗り合わせた時から、聞いてみたかったこと。
「トレーラー運転してた。運び屋さ。半日かけて荷物を積み込んで、半日かけておろす。ティッシュの箱は辛かった。」ズボンのポケットに手を突っ込んで、前田さんは、中庭のはるかな天井を見遣る。クンクンと鼻を鳴らして、渋い顔になる。
「ンゴォォォ」という、子牛の鳴き声が聞こえてくる。作業、もう始まっているんだろう。
僕らは軍手をして、戸口に立てかけられたフォークを手に取る。とりあえずは、斉藤さんと角さんとで集めた古いワラを、一輪車に積んで、脇の堆肥場へと運ぶ。土をかけて、臭いをおさえる。
ちらりと、斉藤さんたちのほうを見れば、角さんが、僕らを手招きしている。
「これから牛舎へ戻すんですが」と、斉藤さん。角さんは、何かを取りに、牛舎の中へ入っていく。
背後の柵に立てかけてある、黒く塗ったベニヤ板を、斉藤さんはコンコンと、僕らにノックしてみせる。「どれか一頭、二人で、この板で追って、向こうの小屋へ閉じ込めてください。子牛とはいえ、力が強いです。甘く見ないように。」
見渡せば、十頭もいない。次の物資補給船が来るまで、もてばいいくらいの数字。運悪く、一番遠く、小屋の近くに、一頭、草をはんでいる子牛がいる。
角さんが、牛舎の中から戻ってくる。背中にポータブル電源を背負い、手には、磨かれた分厚い電極が先っぽについている、棒状の器具と、アース線のクランプとを持っている。太い一本の電線が、棒をつたって、角さんの肩越しに、背中の電源へ接続されている。
「肉の在庫が不足気味です。」と、斉藤さん。「さばくのは、別の班ですが。私らは、絶命させるところまでです。」
ここへ来て、初めて、嫌な仕事だなと、僕は思った。角さんは、そんなそぶりも見せないが……。
「僕もねぇ、悩んだ。」角さんは、例の表情のない顔で、電極を、僕らの前へ突き出す。「だいじょーぶ。スイッチ、入れてないから。」電極には、研がれて薄くなってはいるが、確かに、焦げた跡がある。
「僕の答えは、言わないョ。」角さんは、いろんな意味で当惑する僕らに、ニッコリと笑って見せ、小屋のほうへ歩いていく。
前田さんが、無言で板を取り、小屋の近くにいる子牛のほうへ、スタスタと近づいていく。僕も板を持って、そのあとを追う。僕らの狙いが定まると、斉藤さんは僕らに近い側から、子牛を牛舎に追っていく。
閉じ込められても、子牛は暴れる様子もなく。おそらくは怯えてしまっているのか、でなければ、何か新しい遊びでも始まるように思っているのか。角さんが、アース線のクランプを、小屋の床に敷かれた金属板につなぐ。
「スイッチ、入れてぇ。」背負ったポータブル電源を、角さんは、たまたま近くに突っ立っていた僕に向けてくる。「右の上の、丸ぁるいツマミ。右にひねって。」
カンッと、スイッチが入る。四角い赤いランプが灯る。ヒューと、電流回路の動作音が聞こえる。角さんは頭をかしげて、その音を確かめてから、小屋を覗き込み、子牛のおでこの位置を確認する。棒を差し入れる。ピーと、ポータブル電源が鳴った。
「そのままでいいです。」いつの間にか、斉藤さんが、僕らの後ろで見ている。「別の班のひとたちが、回収してくれます。スイッチ、切ってあげて。」
「自動で、切れるんだけどー。」角さんは、僕のほうへ、背中を向ける。四角い赤いランプは消えて、ヒューという音もない。スイッチを左へひねると、ただ、カチッという、小さな音だけがした。
「子牛なのは、輸送費の問題ですか。」と、前田さん。「大きいと、扱いも難しそうだ。」
「そうです。」と、斉藤さん。角さんは、道具を置きに、牛舎へと戻る。
「そうですが、それだけではないです。」斉藤さんは、腕を組んで、ちょっと、首をかしげる。話したものかどうか。話して何かになるのか、思案している様子。やおら、斉藤さんは言葉を継いだ。「その生物の文化や秩序を受け継ぐことができるのは、大人だけです。子供に、何の価値があるのでしょうね。」
「子供がいなければ、その生物は絶えてしまいますよ。」と、前田さん。僕は何も言えないまま、二人の問答を聞いている。
「その通りです。だから、沢山生まれてくるんです。時間をかけて、大人を残していくために。」と、斉藤さん。僕らに寂しく微笑んで、牛舎へと歩きだす。
前田さんは、渋い顔をして、何か決意したとでもいうように、うんと、無言でうなずく。僕のことは忘れたふうで、スタスタと、牛舎へ歩いていく。
僕はそこに突っ立ったまま、胸の鼓動を感じていた。僕は気がついた。いや、改めて、確認したと言うべきかもしれない。僕がここへ来た理由。ここが好きな理由。もう何があっても、あそこへ戻ることは、けっしてない。戻っちゃダメなんだ。僕には今、そのことがハッキリと分かった。
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