雲天の平日火曜日。二十三時を過ぎる頃だろうか。大きく左にカーブした、街灯のない田舎の坂道を、遠方から、二台のマイクロバスがのぼってくる。最初はわずかにエンジンの音が聞こえ、音は次第に大きくなり、路面を照らすヘッドライトの明かりが見えたかと思うと、突然のように目の前にバスが姿をあらわし、大きく右へハンドルを切って、かつてのベンチャー企業、今は大企業の一部門となったユニバス社の敷地内へと乗り入れていく。
真っ暗な倉庫内。グオン、グオンと、電動シャッターが開きだす。マイクロバスのエンジン音はまだ遠く、シャッターがあがるにつれてそれは大きくなり、開ききる辺りで、その二台のマイクロバスが走り込んでくる。バスは並列に停車して、電動シャッターが閉まるのも待たずに、おのおの十名ずつの男女が、時折、ゴム長の作業靴の音をキュッ、キュッとさせつつ、バスから次々に下車していく。
電動シャッターが閉まりきり、パチンというスイッチの音とともに、まばらに灯りだす蛍光灯の冷たい明かりが、倉庫の内部をほの暗く照明する。手前に置かれた四つの大きな銀色の箱の並びにならって、シャッター側に向かい、男女それぞれが五名ずつの隊列を作り、団長らの登場を待つ。キィッ、バタンと、金属製のドアの開閉する音がして、手前から角刈り頭の団長と、スラリとした短髪の女性副団長とが、威厳というよりも事務的な姿勢で、コツコツと軍靴の音をさせながら、隊列の前へとやってくる。
見渡す限り、団員は、男女ともに薄緑色の作業服を着て、同色の帽子をかむり、ズボンの縫い目に中指をあて、ビシッと姿勢を正している。
「マニュアルは理解したか」と、角刈り頭の団長。手を後ろへ組んで、胸を張る。言えば分かる奴らを前にしては、声を荒げる必要もない。
「はい!」と、団員は一斉に返事をする。
「シッ。」団長は白い手袋をした人差し指を、口に当てて見せる。「声がでかい。」
まばらな笑い声が、団員の中で起こる。副団長も、顔を伏せてちょっと笑っている。
「指令書は厳格だが、我々はリラックスして行こう。」団長は片手をあげて、笑いを制する。「作業もたいして難しくない。ただ本当に、今回ばかりは、この地上ではなく、あの月の腹の中で、一度きりのチャンスしかない。ここならば、ヘリでかけつけることもできるが。あそこで応援を呼ぶことはできない。男女の居住スペースは、五キロと離れていないが、どういうわけか、居住者は、互いの存在を知らされていない。たとえ五キロの距離であっても、女が男湯へ、男が女湯へかけつけるわけには、いかないのだ。事を荒立てて成し遂げるのであれば、わざわざ我々が出向く必要はない。」角刈り頭は、振り返って、副団長に話題を譲る。副団長は一歩前へ出る。
「我々はこれから、あくまでも修理屋として、月に乗り込む。」副団長の厳しい口調が、場を締める。「我々が活動中、居住者は部屋に退避させるが、万一、居住者と出会った場合は、挨拶以上の話はするな。ただし、地球への送還を希望する者がいれば、すみやかに、宇宙船へ行くよう指示せよ。荷物はカバンひとつまで。プラグの入手方法、挿入箇所への経路と挿入方法は、マニュアルに従え。完了次第、速やかに離脱する。以上。」一歩下がって、副団長は顔を伏せる。あとを角刈り頭が引き受ける。
「諸君も知っての通り、夕刊真実が伝えたように、ちかぢか、あそこは運用を終わって、主催者の手で、破壊されることになっている。それは表向きではないのかと、世界中が心配している。あれは、我々人類にとって、非常に危険な実験なのだ。といって、事を表沙汰にすれば、とにかく反対したい輩が、きっと出てくる。そうならんように、我々が出向く。今、この世に平安をもたらすことができるのは、我々しかいない。我々がやらなければ、ほかにやれる者などいない。もし、我々のうちの誰かが、あそこに残されたとしても、我々はかえりみない。計画を遂行するまでだ。計画の完了は、最終的に、この建物内の司令室にある、起爆装置の作動によって確認される。地盤を破壊して、構造物をすべて、月の内側へ落とす仕組みだ。観測可能な変化が、月の表面に及ぶことはない。それは、ちかぢか、月への進出を計画している、我が国の首脳部が望む結果でもある。お前らは、俺だけじゃない、全世界百億の人類から、期待されているんだ。それを忘れるな。」
「出発!」副団長の号令に従い、団員は回れ右をする。男女各十名のなかから、おのおの四名ずつが、手前の銀色の箱を二つあて取りに来る。残りの団員が男女それぞれ、別々に左右のドアを出るのにならい、箱のロープ製の取っ手を持った二人一組の団員も、男女おのおの、別々のドアから出て行く。最後に副団長が、キビキビとした身のこなしで、女性陣のあとへと続く。
「吉報を待っている。」角刈り頭が、副団長の背中に敬礼する。副団長は立ち止まり、回れ右をして、答礼を返した。
夕食を済ませた僕は、机の完了ボタンをタップして、表示される明日の日課に、軽く目を走らせる。ピピッと、机が鳴って、これもまた、あの時と同じくらいの、長文の告知が表示される。
「班長会より居住者のみなさまに。かねてお知らせした、汚水処理プラントの機器交換修理が、今晩、行われます。その件で、来場の作業班から、居住者のみなさんに、当夜、守っていただきたい事柄などをお伝えするよう、指示がありましたので、告知いたします。有毒ガスが発生する可能性があるため、居住者は今晩、部屋から出ぬように。殊に中庭への出入りは、ゲートの電源を切りますので、機械的に不可となります。各部屋からの排水については、今晩、極力、排出を控えてほしいとのこと。ただ、新しい機械を取り付けるまで、古い機械にバイパスを作るので、部屋に溜める必要まではないとのことです。最後に、帰還を希望されるかたは、作業班の到着次第、すみやかにハッチへ来るように。手荷物はカバンひとつまでとのことです。以上。」
「ちょうどいいや」と、僕。前田さんとは、もう、会えないのだろう。斉藤さんは、同期の半数が帰還したと言っていた。僕も、前田さん以外、同じ船で来たひとを知らない。まあ、角刈り頭は……。
歯をみがいて、ベッドに身を投げる。自分は、そんなにも、少数派なのかと。それとも、斉藤さんや角さんの時で、出尽くしたということなのか。絶滅という言葉が、僕の頭をよぎる。それもまあ、いいかな。
「ひでぇ星だ……」どこかで聞いたセリフを、僕も呟く。本当に、ひどい星だと思う。横になり、掛け布団を抱き込む。モヤモヤとした気分で、とりとめもないことを思ううち、いつしか眠っていた。
ハッチに着陸した船の中から、防水服を着て、酸素マスクをかむった六人が、一列に連なって、静かにタラップを降りてくる。続く四人の団員が、二つの銀色の大きな箱を携えて、そのあとに続く。
ハッチから伸びる広い通路を、各部屋へと続く脇の廊下へは入らずに、そのまま進んで行く。誰一人、話す者もない。突き当たりの階段を、全員が下へ降り、汚水処理区画よりもさらに下へと降りて、最深部の扉の前に出る。各自、端末を取り出して、扉の前の脇の壁の、四角く囲われた部分へ、おのおの、端末をかざして中へと進む。
天井からの、間のあいたスポット照明の下で、隊列はサイレント・フィルムのひとコマずつのようでもある。時折、中庭の側の壁の中から、ピシッ、ピシッという、何かが押し砕かれるような音が聞こえる。この最深部のフロアは、引力によって生じる、月の内部のわずかな歪みを利用して、発電の研究をしていた場所。歪みを電気に変える結晶が突然に砕けて、飛んできた破片で研究者が死亡したため、現在は放置されている。
廊下は直角に曲がって、さらに先へと伸びている。隊列はしずしずと、道なりに歩いていく。やがて突き当たりとなり、先頭を務める団員が、目の高さにある囲われた部分に端末をかざすと、その突き当たりの壁が内側へと沈み込み、横へ隠れて、各部屋へと続く廊下のような、青白く縁取られた、短い廊下があらわれる。
左右の壁、ちょうど両手が触れる辺りに、すべて違う形で縁取られ、ナンバリングされた部分が並んでいる。先頭の者が、そこを手でなぞりつつ、廊下の奥へと歩くと、その縁取られた部分が壁から剥離し、その部分の裏に固定された、六本の細くて長い、筒状の端子の一部分をのぞかせる。
続く団員らが、それらを壁から、慎重に両手で抜き取り、持参した銀色の大きな箱の中の、それぞれのプラグの形に工作せられた穴の中へ、上から差し込んで収納する。全部で十個のプラグ・セットが、すべて回収せられた。
団員らは隊列を整えて、今度は階段をのぼりにかかる。この階段で、最上階まで、行かねばならない。そこは中庭の天井裏であり、中庭の壁と天井とを支える十本の太い柱が、唯一、コンクリート打ちはなしの、生の表面を晒す場所でもある。
到着した一行は、めいめい、箱の中から指定された番号のプラグを取り出し、その同じ番号がふられている、太い柱のひとつひとつへと向かう。隊列のさきがけをつとめる団員は、しんがりをつとめる団員とともに、おのおの五番と六番のプラグをたずさえ、はるか彼方の柱を目指して、黙々と歩き出す。銀色の箱はその場に放棄せられ、プラグの挿入を終えた団員らは、三々五々、階段を降り、宇宙船へと帰還する。計画上、一番最後に挿入されるこれらのプラグについて、警告するような仕組みは、元よりない。
さきがけをつとめる団員は、今、ようやくにして、五番の柱に到着し、青白く柔らかな照明のなかにそびえたつ、その威厳ある物体の前にひざまずけば、ちょうど肩の高さに、プラグと同じ形状の穴が工作されてある。持参したエア・スプレーのスイッチを入れ、降り積もったチリや、穴の中の接点を吹き清める。おもむろに、持参したプラグを両手でかかげて、まずは番号と上下の間違いとがないことを確認してから、慎重にその穴へと差し入れる。
最後にスッと吸い込まれるように入った感覚があり、プラグに書かれた数字の背景が、ほの青く光る。さきがけをつとめる団員は、そのほの青い光に、うむ、とうなずいて立ち上がり、六番の柱へ向けて歩きだす。
途中、六番のプラグを担当した、しんがりをつとめる団員とすれ違い、軽く片手をあげて、プラグの挿入完了を伝え合う。半周分、五箇所のプラグのほの青い光を確かめて、さきがけをつとめる団員は、階段へと戻る。ややあって、しんがりをつとめる団員が到着し、二人で、足のつくようなものが残されていないか、周囲をくまなく確認する。互いにうなずき、チラリと辺りを見渡してから、二人は階段を降りていった。
深夜、ユニバス社の、月のミッション専用の司令室に、背広を着た角刈り頭が、ひとり座っている。見下ろす端末の画面が明滅して、副団長からの、両船ともに離脱完了の通知が、音もなく届く。背広の胸ポケットに端末をしまい、角刈り頭は、グイと、背広の襟を引き締める。ユニバス者の襟章が、モニターの光に鈍く輝く。
上着のポケットに手を入れると、かねてから準備しておいた、二個の小さな鍵が、指先に触れる。その存在を確かめて、椅子から立ち、角刈り頭は、最前列の責任者の席へと、ゆっくりと降りていく。
指令席のコンソールの、その一角だけ、更新のたびに切り取られて、はめ込まれてきた、古めかしい、傷だらけの、五インチほどの液晶タッチパネルがある。左右の鍵穴にこの鍵を差し、回してやれば、電源が入る。ドラマのように、同時に回す必要はない。月のほうで、プラグが完全に差し込まれていれば、パスワードを要求する画面と、ソフト・キーボードとが表示されるはず。
角刈り頭は、上着のポケットから、小さな鍵を取り出し、ひとつずつ、鍵穴にさす。ギュッと拳を握り締めて、力を解き、ひとつ、またひとつ、鍵を回す。確かに、画面には“PASSWORD?”の文字と、自分の指には小さい、アルファベットのみが順番に升目に並んだソフト・キーボードとが、表示されている。
こんなもんだろうと、角刈り頭は苦笑する。内の胸ポケットに手を入れ、タッチペンを取り出す。ソフト・キーボードの上をさまよいながら“DAWN”と入力し、一番下の、横に細長く表示されたエンター・キーを押す。内の胸ポケットに、タッチペンを戻して、角刈り頭は結果を待つ。ややあって、画面が暗転し、数行の文章が表示されたが。しかし、文字が小さくて、角刈り頭は、両手をコンソールに置き、それを支えにして、画面にグッと頭を近づける。
“THE SELF-DESTRUCT CIRCUIT
WAS SAFELY LOCKED DOWN.
NOW, ERASING SOFTWARE."
その下の表示が、五分の一、五分の二と、秒単位で分子の数字を上げてくる。角刈り頭は、両手の拳で、ガンガンと、コンソールを叩きつけるが、しかしそれも虚しく“COMPLETE”の表示。司令室のモニターが、その古風な液晶タッチパネルのみを残して、一斉に暗転する。角刈り頭の、赤く握り締められた両手の拳のなかで、画面が暗転し、新たな表示があらわれる。
“YOU CAN TYPE THIS LETTER
INTO YOUR OWN CONSOLE
"DONE" THAT IS OUR SELF-
DESTRUCT PASSWORD.
WHO KNOWS IT WAS
SUCCESSFUL OR NOT?”
握り締められた拳が、次第に開いていく。
仕事明け、喫茶「夜明け」で、内藤はひとり、ホット・コーヒーを楽しんでいる。佐々木さんは初孫の誕生日。福ちゃんはトルコ辺りで、何か買い付けをしているらしい。今日のコーヒーは格別に美味いと、内藤の顔が言っている。
「ありがとうございます」と、店主に見送られ、内藤は地下一階の踊り場から、階段をのぼり、地上へと出る。ビルの高さすれすれに、ポッと、明るい月が出ている。ズボンのポケットに手を突っ込んで、内藤は道行くひとびとの流れに呑まれ、タクシー乗り場まで歩く。ビル街を抜けると、タクシーの窓からも、月が見えだす。
「済んだよ親父。」内藤は呟く。もしも人が、この先も続いていくのだとすれば、彼彼女らは、いずれは、お互いの存在に気がつくだろう。月を見上げて、内藤は微笑む。あの人たちは、何と呼ばれるんだろうな。宇宙人?、月の人?。
馴染みの、近所の商店の看板が見えてくる。今日の道は、割とスムーズだったなと、内藤は来た道を振り返る。座席に身をゆだね、両手を腹の前に組んで、目をつむる。たのむぞ、と、内藤は心の中で呟いた。