〈“わがこと”として〉
ある時、人々が不品行をしたひとりの女性を、イエス様のところに引きずってきて
「この女は石で打ち殺されても仕方のないことをしたのです。」とわめきました。その時イエス様は
「罪のない者がいたら、石をなげてごらん。」
と言われました。だれひとり石を投げる者はいませんでした。罪は「ひとごと」ではないと分かったからです。
創造主である真の神様は、罪に陥って苦しむ人間をひとごととして見ていられない愛の神様なのです。聖書に「彼らが苦しむときには、いつも主(神)も苦しみ」(イザヤ63章9節)とありますが、この愛なる神様は、人間の悩みに関してだけでなく、その悩みの根源である罪についても〈わがこと〉として引き受けてくださり、御子を世に遣わして、私たちの罪を十字架にかからせてくださったのです。
この愛にふれ、この愛に溶かされる時に、私たちはひとごとという無関心の罪、鈍感さから救われるのです。そして、愛に生きる生活を生きていく者にとっては、老いや死がわがこととなった時にも、あわてふためくことがなくなると思うのです。
「ふれあい」ラジオメッセージ第7集 村上 宣道著 太平洋放送協会より引用・要約しました。
A.O
ある時、人々が不品行をしたひとりの女性を、イエス様のところに引きずってきて
「この女は石で打ち殺されても仕方のないことをしたのです。」とわめきました。その時イエス様は
「罪のない者がいたら、石をなげてごらん。」
と言われました。だれひとり石を投げる者はいませんでした。罪は「ひとごと」ではないと分かったからです。
創造主である真の神様は、罪に陥って苦しむ人間をひとごととして見ていられない愛の神様なのです。聖書に「彼らが苦しむときには、いつも主(神)も苦しみ」(イザヤ63章9節)とありますが、この愛なる神様は、人間の悩みに関してだけでなく、その悩みの根源である罪についても〈わがこと〉として引き受けてくださり、御子を世に遣わして、私たちの罪を十字架にかからせてくださったのです。
この愛にふれ、この愛に溶かされる時に、私たちはひとごとという無関心の罪、鈍感さから救われるのです。そして、愛に生きる生活を生きていく者にとっては、老いや死がわがこととなった時にも、あわてふためくことがなくなると思うのです。
「ふれあい」ラジオメッセージ第7集 村上 宣道著 太平洋放送協会より引用・要約しました。
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