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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
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十字架の奥義

2015年01月23日 05時28分59秒 | メッセージ
【イエスの血】
「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
(ヨハネの手紙第一1章7節)

主イエス・キリストがカルバリーの丘の上で十字架につけられた時、終始その傍らにいたのは、主イエスの弟子ヨハネでした。その両手より、その御足より流れる血を見ていました。主がやがて息を引き取られた時、ローマの兵卒がやりで、主の御脇腹を刺し貫いたのも見ていたのです。その時、その御脇より血と水とが流れ出たのも見ました。(ヨハネ19:34)
おそらくヨハネのこの時、まだ主の十字架の意義、そして流された血潮の意義を十分に知ることができなかったのでしょう。しかし、ペンテコステの日、聖霊が下った時、彼の心の目は開かれ、キリストが十字架で流された血潮の意義を知ることができたのです。
そして、キリストこそ、世の罪を取り除く神の小羊であり、流された血潮こそ、贖罪の血であることを知ったのです。また、その能力を信じることができたのです。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)と。このキリストの血潮こそ、私たちの信仰のよりどころなのです。
キリストの十字架の血潮は
第一に、私たちを光の中に入れるのです。
罪は、私たちの心を暗くし、生活を乱してしまいます。しかし、イエス・キリストの十字架の血潮の贖罪を信じる時、私たちの罪はゆるされ、きよめられて、心は光の中に入ることができるのです。それは偽りのない、真実な心と変えられるのです。
第二に、私たちは互いに交わることができるのです。
罪は神より引き離してしまいます。しかし、イエス・キリストの血によって罪がゆるされる時、神との交わり、主イエス・キリストとの交わりにはいることができるのです。
神は光です。私たちが、十字架の血潮を信じる時、そこには神との幸いな霊の交わりが始まるのです。
第三に、私たちは罪に勝つことができるのです。それは「あなたが罪を犯さないようになるためです。」(Ⅰヨハネ2:1)
主イエス・キリストの血には、私たちを罪より離れさせ、罪より守り、罪に勝たせる力があるのです。ここに、神とともにいるきよい生活が始まるのです。

本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O