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人の寿命は120歳?~創世記6章からの考察~

2016年05月20日 | 人間について
今日は創世記6章について述べたいと思う。聖書は、何度読んでも、その度に違う発見があり、この様な書物は聖書以外では見当たらないのだが、それはやはり、聖書は神様の言葉だからであろう。

昨年、日本の有名なジャーナリストである池上彰氏が、あるテレビ番組で聖書は世界のベストセラーである、と紹介されていた。彼が実際、クリスチャンであるのかどうかは分からないが、聖書とは何なのかを分かりやすく説明している。先日、こちらのブログで述べたアダムとイブについても述べられているので、ご興味のある方は下記を是非御覧頂きたい。

池上彰の「聖書とはなにか。その歴史と現在」

この中で、池上氏は、聖書は欧米諸国の常識となっている、また、後半では世界情勢が聖書によって渦巻いており、現代社会においても影響を及ぼしていることを説明している。しかし、聖書は欧米諸国だけでなく、実はこの日本にも様々な影響を及ぼしている。これは日本人の間であまり知られていないが、親鸞によって始められた浄土真宗は、実はキリスト教をベースとしている。親鸞は、キリスト教を学んでいたことが分かっており、聖書を読んで、これは良い!と思った親鸞は、聖書をベースに別の宗教を作ったのである。

また、世界にある憲法も、聖書をベースにしたものが多い。また、世界情勢が聖書を中心に、現代社会まで影響を及ぼしていることを考えると、やはり聖書が本物だからであろうと思わざるを得ない。聖書が何故、何千年も、ここまで騒がれ、それによって多くの戦争や争い、虐殺までが起こるのだろうか?それは、やはり本物だからであろう。人間、本物であるかどうか分からない、「なまぬるい」ものについては、ここまで騒がないし、騒いだとしても、一過性のもので終わってしまう。

さて、前置きが長くなってしまったが、今日、創世記6章3節を読んで、ふと疑問に思った。神様は、地上に人による悪がはびこるのを見て、次のように述べている個所である。

「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう

これは、かの有名なノアの箱舟が作られる前の話であるが、しかし、ノアが箱舟を完成して、洪水が終わった後の人の寿命が即、120年になったわけではない。そこで、調べてみたら、2つの解釈があることが分かった。

①文字通り、人の寿命を表しており、寿命を120年とした
②神様が、洪水によってノアの家族以外の全人類を滅ぼすと宣言してから、実際に洪水が起こるまでの年

海外の文献も含め、インターネットで色々検索すると、①が正しい、いやそうではなくて①は間違っていて②が正しい、と記載されているのが多かったが、これは神様に聞かないと分からないので、どちらが正しいのか、決めつけるのは非常に危険であると思う。私は、どちらの解釈があっても良いと思う。

何故なら、①の場合は、洪水の後、確かに人の寿命はすぐに120歳に縮まったわけではない。しかし、創世記11章10節以降を見るを、ノアの息子の一人、セム以降の子孫の寿命がだんだん短くなっているのが分かる。その後に出てくるモーセは、120歳で亡くなっている。

②の場合、ノアに3人の息子が生まれてから箱舟を作り始めたと考えられるので、これが正しいと仮定すると、5章32節に記載されているように、箱舟を作り始めたのは彼が500歳の時、そして洪水が来たのが600歳だと記載されているので、箱舟の制作期間が100年になり、120年には満たない。これを考えると、②の可能性が低いと考える聖書学者がいるが、しかし、人の年齢も皆、きっちり120歳になっているわけではない。実際、モーセの兄、アロンの寿命は123歳で120歳を超えている。


しかし、いずれにせよ、神様は宣言してから事をすぐに起こされる方ではない。この世の終わりは、既にイエス・キリストによって宣言されているが、旧約聖書の時代でも、預言者ダニエルによっても宣言されており、あれから随分時が経っているように見えるが、実際に、今の世の中は既に終末の時代に入っており、この世の滅亡がいつ何時に来てもおかしくないのである。

ノアは箱舟を作るのに100年かかったが、神様だったら、ノアにもっと知恵を与えて箱舟を3年で作ることだって可能だったはずである。しかし、100年もかかったということは、ある意味、ノアの家族以外の人類が悔い改め、神に立ち返ることを期待していたからではなかろうか?しかし、その神様の恩恵を無視して、人々は100年経っても神に立ち返ろうとはしなかった。

ここに、人間の頑なさを見ることができるが、神様を知らない人間は皆、こうなのだということを聖書が示しているように思う。神様を信じる前の私もそうであったが、しかし、神様を信じているからといって、自分の頑なさが全部消えたわけではない。聖書から正しいことを学んでも、古い自分がまだ残っており、その古い考えがなかなか捨てられず、現実と神様の言葉の狭間で苦しむこともある。人間は肉として生きている以上、全ての人が罪を背負っているのであり、それはクリスチャンも同じなのである。

この世の終わりが預言されてからすぐに事が起こらないのは、それは一人でも多くの人達が神に立ち返るように、悔い改める為に神様が与えている期間であり、これが当たり前の様に、しかもずっと続くと考えてはいけない。また、この世の終わりが来る前に、私たちの命が突然、奪われることもある。その日が来る前に、死というもの、また、自分は一体何に向かって生きているのかを真剣に考えないと、その時が来た時に後悔することになるのではなかろうか?



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