洞窟の中に鎮座される仏さん
旧島原街道の端に洞窟の中に鎮座される仏さんは、
茂みの中より顔を覗かせ、幾時代の激しく移り変わり行く模様を眺めて来られたのでしょう。
この旧街道を半島の奥へと突き進むと、松平家の『島原城』さらに半島の奥へと進むと
天草四郎の『原城』に着きます。
変わらないのはこの『仏さん』をこれまで大事にお祀りをなされて来た人々の篤い信仰心ではないかと思えます。
全てのものを感謝して受ければ、苦痛が苦痛で無くなり、困難が困難で無くなるのです。
神の子は、金剛不壊の実相身、無碍自在の無罣礙身であるから、およそ恐怖すべき何ものもないのである。
恐怖を教えるのは迷いを教えるものである。恐怖をそそるものは、迷いをそそるものである。
病気や天変地変や色々の災厄で恐怖を教えるものは人間の幸福が物質の増減で左右せられ、
或は火に焼かれ、或は水に溺れるものだとの迷信に堕するものである。
火にも焼けず水にも溺れず、天地思維上下左右いづれに置かれるも自由自在な人間の本性を信ずる信仰こそ本当の信仰である。
宗教とは己が真性を自覚せしめ、上下左右天地思維いずれに動いても、いずれに置かれても、縛られない、恐れない、
自由自在の『神の子』たる本性を自覚せしめるものを云うのである・・・・・
旧島原街道の端に洞窟の中に鎮座される仏さんは、
茂みの中より顔を覗かせ、幾時代の激しく移り変わり行く模様を眺めて来られたのでしょう。
この旧街道を半島の奥へと突き進むと、松平家の『島原城』さらに半島の奥へと進むと
天草四郎の『原城』に着きます。
変わらないのはこの『仏さん』をこれまで大事にお祀りをなされて来た人々の篤い信仰心ではないかと思えます。
全てのものを感謝して受ければ、苦痛が苦痛で無くなり、困難が困難で無くなるのです。
神の子は、金剛不壊の実相身、無碍自在の無罣礙身であるから、およそ恐怖すべき何ものもないのである。
恐怖を教えるのは迷いを教えるものである。恐怖をそそるものは、迷いをそそるものである。
病気や天変地変や色々の災厄で恐怖を教えるものは人間の幸福が物質の増減で左右せられ、
或は火に焼かれ、或は水に溺れるものだとの迷信に堕するものである。
火にも焼けず水にも溺れず、天地思維上下左右いづれに置かれるも自由自在な人間の本性を信ずる信仰こそ本当の信仰である。
宗教とは己が真性を自覚せしめ、上下左右天地思維いずれに動いても、いずれに置かれても、縛られない、恐れない、
自由自在の『神の子』たる本性を自覚せしめるものを云うのである・・・・・