彼岸も近まり桜餅の香りが口いっぱいに広がり、ひと雨、ひと雨、桜前線が近まって
初々しい花芽が脹らんでいます。
見よ吾れ総てのものを新たにするなり
黙示録第二十一―五
新しい天と新しい地
見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない、最初のものは過ぎ去ったからである。
すると玉座に座っておられる方が『見よ、わたしは万物を新しくする』と云い、また『書き記せ。
これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。またわたしに言われた。
『事は成就した。わたしはアルファでありオメガである。初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の泉から値なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神となり、その者はわたしの子となる。』
黙示録第二十一―三~七
新たに霊的に生まれるための啓示
吾々は真実の存在を外見によって判断しようとします。
五官で感じる感覚は信念の影に過ぎないのです。
西田哲学では『観られる世界は観る人の心の産物だ』とい云い、仏教では三界は唯心の所現であると云います。
神は善であり、真実に於いて『一切は善である』と云う信仰を、見える世界の外の形によって捨ててはならないのです。
五官で感じる世界は心で思った通りの姿の現われですからあたかも『悪』が存在するように見せている五官の感覚の証明によって、
神は善であり、愛であると云う信仰を捨ててはなりません。
五官に観えると云うことと、真実が実在すると云うこととは別なのです。
人生はしばしば悪しきものが充満し、災禍や病気が充ち満ちているように思われます。
しかし神は完全であり、全能であり、善でありたまうと云う信仰によって、
有情非情生きとしいけるもの、有りとしあらゆるものの実相(ほんとうの姿)を観れば、
真実の人生は決して悪ではないと云うことが判るのです。
初々しい花芽が脹らんでいます。
見よ吾れ総てのものを新たにするなり
黙示録第二十一―五
新しい天と新しい地
見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない、最初のものは過ぎ去ったからである。
すると玉座に座っておられる方が『見よ、わたしは万物を新しくする』と云い、また『書き記せ。
これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。またわたしに言われた。
『事は成就した。わたしはアルファでありオメガである。初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の泉から値なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神となり、その者はわたしの子となる。』
黙示録第二十一―三~七
新たに霊的に生まれるための啓示
吾々は真実の存在を外見によって判断しようとします。
五官で感じる感覚は信念の影に過ぎないのです。
西田哲学では『観られる世界は観る人の心の産物だ』とい云い、仏教では三界は唯心の所現であると云います。
神は善であり、真実に於いて『一切は善である』と云う信仰を、見える世界の外の形によって捨ててはならないのです。
五官で感じる世界は心で思った通りの姿の現われですからあたかも『悪』が存在するように見せている五官の感覚の証明によって、
神は善であり、愛であると云う信仰を捨ててはなりません。
五官に観えると云うことと、真実が実在すると云うこととは別なのです。
人生はしばしば悪しきものが充満し、災禍や病気が充ち満ちているように思われます。
しかし神は完全であり、全能であり、善でありたまうと云う信仰によって、
有情非情生きとしいけるもの、有りとしあらゆるものの実相(ほんとうの姿)を観れば、
真実の人生は決して悪ではないと云うことが判るのです。