こんにちは、コロッケ・ハンバーグのグルメストアフクシマです。
築港100年 vol2前回の続きです。
topにあげた写真は男鹿線から海側のまだ文化会館も立つ前の船川です。
文化会館入り口にある興味深い建設図とは
かなり大きいので直接ご覧になることをおすすめ致します。
歴史に関しては堅苦しいので(でもとても面白いです)文字は少なく
写真をメインに簡単にアップしていきます。
明治終りの何もない船川港から大正初期、当時の人達はどういった事を考えていたのでしょうか。
▲築港から約20年で(この写真はだいぶ後です。)
外国との貿易をするまでに至り国の備蓄基地が建設されるまで急スピードで整備され続けます。
背景には最初の男鹿市長 中川重春氏の活躍があります。
様々な面からお話を耳にした事がありましたが 秋田稲門会 からの文面は裏事情も読めるなかなか面白い記事です。
『男鹿が生んだ英傑「中川重春伝」(渡部誠一郎著)を読んでいたら、「早稲田大学同窓会秋田支部」の名前を見つけた。
対岸貿易の夢に燃えていた中川重春は当時、23歳。事業欲溢れる中川青年は、火力発電を選び、船川電気の設立を思い立った。ところがなかなか思うようにいかず、窮状を大隈総理に訴え、頂上作戦で問題解決を図ろうとした。
早稲田に学んだ重春は、天下も大隈、秋田も坂本知事となり、我が世の春の思いだった。早速、坂本知事の了解を得て、早大出身の井上広居代議士(後秋田市長)に相談した。 そこで、大隈首相に面会を求める口実として、重春を「早稲田大学同窓会秋田支部」の代表に仕立てて、カバ張りのステッキを贈呈するという方法をとることにした。
これによると、秋田稲門会は大正3年、86年前に設立されていたということになる。
ともかく、早大出身の重春青年は先輩諸氏から金を出してもらい、ステッキを作ってもらった。ところが無一文の重春は東京までの旅費がない。そこへ新婚間もない妻光代さんが、嫁入りの際に持参した晴れ着を全部タンスから出し、「これを売って旅費を工面してほしい」
山内一豊の妻ならぬ女房の援助のお陰で、重春は京都の八木別荘で大隈総理と面会できた。重春が恭しくステッキを贈呈した。すると大隈さんは、ステッキをクルクル回しながら「井上広居君は元気かね」と東北旅行の追憶談に及び、尽きることなき雄弁に(とうとう船川電気の件を)陳情する糸口がないまま、引き下がざるを得なかった、とある。』
『夢とロマンの早稲田人、中川重春は、昭和38年73歳で逝かれた。
中川重春の葬儀には、早大名誉教授、横手市出身の平田富太郎先生からメッセージが届いている。
「先生は男鹿が生んだ一代の英傑。とりわけ船川築港、対岸貿易の開拓振興は圧巻であり、秋田の歴史に不滅の足跡をとどめられた。その行動と実践の礎となっているのは大隈重信の三訓、すなわち理想なきものは滅ぶ、進まざれば退く、あたわざるにあらず、勇なきなりーである。早大の一後輩として先生を深く追慕する」』
というもの。初めてそういったやりとりがあって現在の男鹿があることを知りました。早稲田とのつながりもある、というのは何も考えずに卒業した私でもますますやらなければ、と勝手に変な使命感に溢れ燃えるのでした。それぞれの母校を愛する精神で先人から学び地域を愛し地域を創る、とありましたが理屈では分かってもこれまた現実に感じとって学ぶ事は今の数百倍は勉強と行動が必要です、それゆえもっともっともっともっと真摯に学び真摯に経営に向き合わなければと思うわけです。
…脱線失礼しました。
さて、
裏の中川公園はこの中川重春氏の「中川」ですがいまだに中川邸跡があるのも面白いです、父や祖父からも聞いていた中川邸の話はとても興味深く個人的にはこの市役所の裏の中川公園と山と旧邸宅が観光資源になったら良いな、とも思います。
▲約30年前の船川。
▲拡大したものです。整備される計画段階からあったこの当店の前の三角形地帯。
そして元気な福島肉店の姿も航空写真におさめられております。
▲昭和30年代 の当店前、三角広場 砂地で広く、船川の祭りはここで規模も大きく開かれていたようです。盆踊りや仮装もすごかったみたいです。
▲同じところから現在。上の写真から約50年。
▲祖父 肉屋でありながら交通指導隊に選ばれ夢中だったようでこのような姿です。
三角広場の三角のさきっちょらへん。
▲現在の三角形のさきっちょらへんから元浜町をとらえる。2011年8月10日
▲別の角から 2011年8月10日
▲もひとつ別の角から 2011年 8月10日
▲昭和30年代の当店前から伊藤時計店さん
▲当時のアルバム。昔の写真はたくさんあって、船川の写真も面白いのが結構あります。
▲50年前の現在の男鹿市役所に位置していた船川第一小学校。
鉄道の記録もたくさんあります。祖父は鉄道好きで国鉄関係者としても様々な記念イベントで招待されていたようです。
以下 男鹿のものをメインに。
▲SL運転席から見る男鹿駅到着シーン 昭和30年代。
▲男鹿駅停留中のSL。立派ですね。
▲築港が進んでいる様子も少し見えます。
▲ 今の子供達が生まれた頃には既に存在していたローソンも 花火会場も みなと病院も 文化会館も プライウッドも まだ何も無い頃の船川港、すがた青果さんの手前あたりからの撮影です。
▲ TOP 男鹿駅からすぐでた泉台付近より。
▲展望台が立つ前の寒風山も見える 羽立踏切より。
▲八郎潟干拓前の貴重なSL船越~天王の橋をわたる。
男鹿線、SL、特急電車、新幹線の写真もたっぷりあります(笑)
鉄道や乗り物好きな血があるのを感じます。
「わたしたちの男鹿」という小学生中学年で配られた教科書からも
船川の歴史を学べます。
築港以前のルーツを探ると脇本城、安東氏、菅江真澄の道へ入ります。
非常に面白いです。
三角形地帯はどうしてできたのか、故意に作ったのか、はみ出しものなのか、
この謎も解いていきたいです。
現在の状況(客観的数字のデータ、例えば高齢化率30%以上の超少子高齢化+過疎化+様々な好ましくない事例)をもとにどうのこうの、と考える事も多々あるのですがこれはまた後ほどアップしたいと思います。
いずれにしても 「笑い」 があれば良いと思います。
笑う港には福きたる!
築港100年 vol2前回の続きです。
topにあげた写真は男鹿線から海側のまだ文化会館も立つ前の船川です。
文化会館入り口にある興味深い建設図とは
かなり大きいので直接ご覧になることをおすすめ致します。
歴史に関しては堅苦しいので(でもとても面白いです)文字は少なく
写真をメインに簡単にアップしていきます。
明治終りの何もない船川港から大正初期、当時の人達はどういった事を考えていたのでしょうか。
▲築港から約20年で(この写真はだいぶ後です。)
外国との貿易をするまでに至り国の備蓄基地が建設されるまで急スピードで整備され続けます。
背景には最初の男鹿市長 中川重春氏の活躍があります。
様々な面からお話を耳にした事がありましたが 秋田稲門会 からの文面は裏事情も読めるなかなか面白い記事です。
『男鹿が生んだ英傑「中川重春伝」(渡部誠一郎著)を読んでいたら、「早稲田大学同窓会秋田支部」の名前を見つけた。
対岸貿易の夢に燃えていた中川重春は当時、23歳。事業欲溢れる中川青年は、火力発電を選び、船川電気の設立を思い立った。ところがなかなか思うようにいかず、窮状を大隈総理に訴え、頂上作戦で問題解決を図ろうとした。
早稲田に学んだ重春は、天下も大隈、秋田も坂本知事となり、我が世の春の思いだった。早速、坂本知事の了解を得て、早大出身の井上広居代議士(後秋田市長)に相談した。 そこで、大隈首相に面会を求める口実として、重春を「早稲田大学同窓会秋田支部」の代表に仕立てて、カバ張りのステッキを贈呈するという方法をとることにした。
これによると、秋田稲門会は大正3年、86年前に設立されていたということになる。
ともかく、早大出身の重春青年は先輩諸氏から金を出してもらい、ステッキを作ってもらった。ところが無一文の重春は東京までの旅費がない。そこへ新婚間もない妻光代さんが、嫁入りの際に持参した晴れ着を全部タンスから出し、「これを売って旅費を工面してほしい」
山内一豊の妻ならぬ女房の援助のお陰で、重春は京都の八木別荘で大隈総理と面会できた。重春が恭しくステッキを贈呈した。すると大隈さんは、ステッキをクルクル回しながら「井上広居君は元気かね」と東北旅行の追憶談に及び、尽きることなき雄弁に(とうとう船川電気の件を)陳情する糸口がないまま、引き下がざるを得なかった、とある。』
『夢とロマンの早稲田人、中川重春は、昭和38年73歳で逝かれた。
中川重春の葬儀には、早大名誉教授、横手市出身の平田富太郎先生からメッセージが届いている。
「先生は男鹿が生んだ一代の英傑。とりわけ船川築港、対岸貿易の開拓振興は圧巻であり、秋田の歴史に不滅の足跡をとどめられた。その行動と実践の礎となっているのは大隈重信の三訓、すなわち理想なきものは滅ぶ、進まざれば退く、あたわざるにあらず、勇なきなりーである。早大の一後輩として先生を深く追慕する」』
というもの。初めてそういったやりとりがあって現在の男鹿があることを知りました。早稲田とのつながりもある、というのは何も考えずに卒業した私でもますますやらなければ、と勝手に変な使命感に溢れ燃えるのでした。それぞれの母校を愛する精神で先人から学び地域を愛し地域を創る、とありましたが理屈では分かってもこれまた現実に感じとって学ぶ事は今の数百倍は勉強と行動が必要です、それゆえもっともっともっともっと真摯に学び真摯に経営に向き合わなければと思うわけです。
…脱線失礼しました。
さて、
裏の中川公園はこの中川重春氏の「中川」ですがいまだに中川邸跡があるのも面白いです、父や祖父からも聞いていた中川邸の話はとても興味深く個人的にはこの市役所の裏の中川公園と山と旧邸宅が観光資源になったら良いな、とも思います。
▲約30年前の船川。
▲拡大したものです。整備される計画段階からあったこの当店の前の三角形地帯。
そして元気な福島肉店の姿も航空写真におさめられております。
▲昭和30年代 の当店前、三角広場 砂地で広く、船川の祭りはここで規模も大きく開かれていたようです。盆踊りや仮装もすごかったみたいです。
▲同じところから現在。上の写真から約50年。
▲祖父 肉屋でありながら交通指導隊に選ばれ夢中だったようでこのような姿です。
三角広場の三角のさきっちょらへん。
▲現在の三角形のさきっちょらへんから元浜町をとらえる。2011年8月10日
▲別の角から 2011年8月10日
▲もひとつ別の角から 2011年 8月10日
▲昭和30年代の当店前から伊藤時計店さん
▲当時のアルバム。昔の写真はたくさんあって、船川の写真も面白いのが結構あります。
▲50年前の現在の男鹿市役所に位置していた船川第一小学校。
鉄道の記録もたくさんあります。祖父は鉄道好きで国鉄関係者としても様々な記念イベントで招待されていたようです。
以下 男鹿のものをメインに。
▲SL運転席から見る男鹿駅到着シーン 昭和30年代。
▲男鹿駅停留中のSL。立派ですね。
▲築港が進んでいる様子も少し見えます。
▲ 今の子供達が生まれた頃には既に存在していたローソンも 花火会場も みなと病院も 文化会館も プライウッドも まだ何も無い頃の船川港、すがた青果さんの手前あたりからの撮影です。
▲ TOP 男鹿駅からすぐでた泉台付近より。
▲展望台が立つ前の寒風山も見える 羽立踏切より。
▲八郎潟干拓前の貴重なSL船越~天王の橋をわたる。
男鹿線、SL、特急電車、新幹線の写真もたっぷりあります(笑)
鉄道や乗り物好きな血があるのを感じます。
「わたしたちの男鹿」という小学生中学年で配られた教科書からも
船川の歴史を学べます。
築港以前のルーツを探ると脇本城、安東氏、菅江真澄の道へ入ります。
非常に面白いです。
三角形地帯はどうしてできたのか、故意に作ったのか、はみ出しものなのか、
この謎も解いていきたいです。
現在の状況(客観的数字のデータ、例えば高齢化率30%以上の超少子高齢化+過疎化+様々な好ましくない事例)をもとにどうのこうの、と考える事も多々あるのですがこれはまた後ほどアップしたいと思います。
いずれにしても 「笑い」 があれば良いと思います。
笑う港には福きたる!
たまーにブログ拝見しております♪
加茂青砂のお花見音楽会の時のお弁当、最高でした~!
祖父が国鉄職員で、ずっと男鹿駅で働いていたので思わずコメントしちゃいました。
戦前から退職までいたと思います。
もしかしたら福島君のお祖父さんの写真に写ってたりして(笑)
祖父母の家は西坂町にあったので、伊藤時計店の辺りは超超なつかしいです。
お風呂はもちろんあけぼの湯。
これだけ写真が残ってるのはスバラシイですね☆
三角地帯のナゾ、是非解明して下さい!
加茂青砂でもお世話になりましたー!!
なんと、お祖父さんが国鉄職員の方だったのですね。何かしらつながっていたかと思います。
男鹿駅では 私が高校生の頃 祖父福島基良のSL写真の展示などがされたのを覚えております。昔の写真にも映ってるんでは!!
うんうん、あけぼの湯ですね!船川の名湯。
三角地帯 またブログにアップします。