アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

再考、八甲田山雪中行軍 5

2013年05月24日 | 近世歴史と映画

 

八甲田あらし

 

 同所よりは、いわゆる田代平といい、放牧地として知られる。

 

ぼうぼうたる高原平野、左方眼前にそばたてるは八甲田連峰、

 

遠く右手に見えるは八幡岳・折紙山の連山が高原に連り陸奥湾に迫っている。

 

北西は眼界展け目をさえぎるものとて無く遠く北海道の島影を望むことができる

 

眺望絶佳の地であるが、此処に達して間もなく前述の如く猛吹雪と急変し、

 

気温急に下り強烈を極める吹雪に身をさらすうちに瞬くまに積雪三尺余に、

 

腰部を越えている。

 

 加えるに風雪顔面に拭きつけ骨髄に達するような痛さ、

 

顔は少しも上げることができず、前方の人の所在さえ判らない。

 


「咫尺を弁ぜず」とは真にこの事か!

 


 八甲田嵐の恐ろしさをこうむった。
この事から如何に吹雪の強烈であったかを計り知る事が出来る。

 

吾等七名は道案内だからと云うので終始先頭に立たされたが、

 

雪をこぎ進む事は一町と続かず、交互に先頭に立ち顔を伏せながらひたすら、

 

吹雪の方向えと進み少 しも休めず、また難を避ける蔭とてもなく、

 

暴威を逞しくする吹雪に向かいつつ進み進みて夜十一時頃、

 

漸く箒場より凡そ一里の地点に達した時、突然大尉は行 軍中止を命じた。

 

休憩する意であろうか?
すぐ兵士等に命じて雪を掘り穴をあけ、雪の防風堤を作らせ焚火をしようとした。

 

 吾等七名もその恩恵に俗せるものと喜んだのも束の間、

 

意外にも隊長が命じていうには「是より新湯に行き家主・小山内文次郎を連れて来い。」と新湯までは 僅か十町余で達する事が出来るのだが、

 

増沢出発以来17時間にもなり僅か双股にて小憩しただけ、

 

唯の一食も摂らず疲労と空腹のためまさに餓死寸前の身であ り、

 

一歩も踏み出す勇気もなく唖然として立ちすくんでしまった。

 

風雪は依然として猛威を振い、積雪は既に肩を没する現状であれば、

 

誰れ一人として動く気配はない。

 

しかし隊長の命であればこのまま過すことは出来ない。

 

勇気を出して一同出発しようとしたら大尉は何んと思ったであろうか、

 

「携帯品は全部置け、但し七名の中二名は此処におり五名で使いを果たすように」

 

との命令になお驚いたが止むを得ず出発した。

 

(小原寅助、福村勝太郎の両名動かず残る)

 


咫尺(しせき)を弁せずの意味

  ごく近い所の事もわからないことで、すぐ近いところでも視界がきかない意味。

「咫」中国、周の長さの単位で八寸(約十八センチメートル)。「尺」一尺(約二十二・五センチメートル)。


再考、八甲田山雪中行軍 4

2013年05月23日 | 近世歴史と映画

 

案内者


 今を、去る60年前(昭和37年記載)、すなわち明治35年1月23日、

歩兵第三十一連隊の福島大尉は一小隊を率い秋田県より

十和田湖経由法奥澤村方量を経て大深内村大字深 持字増沢に至り一泊し、

途中田代平新湯に宿し八甲田の峡を越え、青森にでるように未だ全く

試みたことのない大冒険的雪中行軍を決行しようとした。


時ちょうど厳寒中なので積雪多く路がわからず、

本村役場(旧大深内村役場)に問合わせがあり、

道案内者若干名を依頼された。


そこで役場から村長及び助役が同に出張し地元村会議員・

小原金治氏の斡旋により冬季八甲田の地理に精通し、

且つ身体強健の者七名を選びその重任に付いてくれる様に依頼した。


 それで前夜より準備を急ぎ、ワッパ入り御飯の

外ソバ餅(炉蒸焼ナンバン味噌入り)いり豆若干等持参し

日帰りの予定で案内に応じた。


 明けて24日午前6時、増沢を勇躍出発、

おり良く暁の好天に恵まれこの分ならば新湯まで何等心配する所がないと

大尉一行は自信満々行軍を続けても聊かも疲労が見えないのは当然である。

(一行中に現役兵として板之沢出身沢目亀蔵が参加して居る)


彼の云う処によると新湯には食料品その他の準備があることは調査して置いた。


同地にて温泉に浴し行軍の疲労を除き新湯から案内者を

引き返させる予定であったと云う。


 途中八甲田連峰を前方に眺めながら進み、愈々目的の田代を目指し、

威風堂々熊之沢川上流をさかのぼり凡そ二里程で俗称双股に達した。


大尉は笑を浮べ「行軍は急いではいけない」と此処で小憩し地図を

眺めると半ば行軍の目的を達したようなものである。


やがて9時半頃、同所出発双股の急坂を登ること十四,五町で中平に着くとき、

驚いたことに物凄い爆音が樹上を過ぎたと思うと天候が急変し、

風雪を伴い瞬く間に降雪で膝を没する現状になった。


さすがの強健な七名も互に顔を見合わせ、大尉等一行は・・・と

見れば何のこれしきの雪にと激励勇を鼓舞し雪を蹴りながら進む事

二里余で漸く箒場(俗称)に辿り着いた。



再考、八甲田山雪中行軍 3

2013年05月22日 | 近世歴史と映画

 

これは弘前隊を案内した熊ノ沢集落の『七勇士』の一人・沢内吉助氏の口述を文章化したもので、
感嘆符は原文のままである。
尚、原文を若干読み易くする為、
聯隊名以外は算用数字に変換し、改行を施し、句読点を追加してある。

 

蔭の人

 

昭和37年は雪中行軍の60周年に当たり、去る6月9日その記念式典が青森市郊外にある

幸畑陸軍墓地において盛大に挙行された事は周知の通りでございます。
 それは明治35年1月23日早朝青森歩兵第五連隊・山口大隊(山口少佐以下212名)が

青森の原隊を出発して八甲田山中を超えて三本木に出る計画のもと に雪中行軍を

決行し途中馬立場の難所を越え鳴澤付近で猛吹雪に遭い、生存者僅か十数名を

残すだけであとは全員凍死すると云う、当時世界を大いに驚かせた遭 難事件であります。
 この行事を強行した理由は日露の情勢が緊迫し、一反戦争に突入すれば

厳寒の地満州が戦場となると予想され、当然八師団は満州に派遣される。
そのためには日常の耐寒訓練が必要だと云ったためでありました。
 一方、弘前歩兵三十一連隊福島隊は五連隊の逆コースである三本木方面より

八甲田山を超えて青森へ出る計画で、1月23日十和田湖・法量系由熊之沢川をさ か上り、

増沢に至り、地元より七名の案内者を頼み、悪天候と闘い無事に八甲田山超えに成功したのであります。
しかし、この七名の案内者は無事にその大任を果たした蔭の功労者でありますが、

五連隊の遭難者に対する哀悼と共に特に福島隊長より「絶対口外すべからず」の

一言を固く守り他言する者が一名もなかったためこの事実を誰も知る事が出来なかったのであります。

 時代は明治から大正、昭和の御世となり昭和5年1月に案内者の一人・沢内吉助氏が

所用のため七戸町に出張し知人の福田政吉方で雑談を支している中、

たま たま東奥日報紙上に歩兵五連隊雪中行軍遭難記念行事が発表されている事が

話題になり「雪中行軍ならば私も関係がある」と沢内氏が発言し、

以下記載の通り当 時の委細を語ったことによって初めて秘事が世の明かるみに出されました。


 後日その功績が認められ財団法人昭和謝恩会から「蔭れたる七勇士」として顕彰され、

又同地青年団は光華の軍人にも劣らぬ至誠の美徳と功績が陽の目も見ず に

消える事を憂いて奮起し民各位の絶大なる御賛同とご協力に依り、

この美徳を後世に伝えんとして昭和6年9月、熊之沢校(現在柏小・中学校)付近に

小 碑を建立したのでございます。




再考、八甲田山雪中行軍 2

2013年05月22日 | 近世歴史と映画

雪中行軍を陰で支えた方々の本当の姿そして、その後

 

七勇士
弘前隊を案内した三本木の7名


沢内鉄太郎氏、沢内吉助氏、福沢留吉氏、福村勝太郎氏、小原寅助氏、

川村(氏家)宮蔵氏、中沢由松氏。

弘前三十一聯隊雪中行軍隊の最難関・八甲田山系を増沢から大峠まで二日間、

不眠不休で命懸けで案内した。
しかし福島隊長以下弘前隊は、別れ際に誰一人「有難う」「ご苦労さん」という労いの言葉もかけず、

彼らを豪雪の山中に見捨てて行った・・・(沢内鉄太郎氏の孫・鉄男氏:談)

彼等は弘前隊が去った後、自力で大深内村(現:十和田市柏地区)に戻った。
しかし中には凍傷にかかり、廃人同様にして、若くして亡くなった方もいた。
彼等7名は、29年経った昭和5年まで福島大尉の「コノ二日間ノ事ハ絶対口外スベカラズ」

という言いつけを守っていたが、沢内吉助氏がふとした事でこの二日間の事(弘前隊を案内した事、

青森隊の遺体発見の事等)を知人に話した。

翌年の昭和6年、「その律儀な行動は南部人の鑑だ!」という事で、

彼等『七勇士』の偉業を称えた石碑が地元に建てられた。

その石碑は移転を重ね、現在は柏小学校向かいにある。

又、同小学校(残念乍ら平成16年春閉校)では『七勇士』の功績を校舎の廊下に掲げ、

子々孫々に語り継ぐべく、閉校時まで授業に取り入れられていた。
東奥日報の記事を読む

亦、『雪の八甲田で何が起ったのか』を執筆した川口泰英氏は、

柏小学校閉校記念誌の中で
「地元十和田市役所が七勇士の顕彰事業に非常に消極的かつ無関心であるのは残念。

閉校に伴い資料の散逸が心配、敢えてこの点を記す。郷土の先人が示した献身的奉仕が誇りを

持って後世に語り継がれることを切望する。それこそが真の社会教育、

後人としての務めである」と述べている。
強く賛同する!
実際我々(へなちょこ行軍隊)も七勇士の御子孫に取材を敢行すべく、

十和田市教育委員会に問い合せしたところ、奥歯に物を挟んだような言い方だった。

更にその七勇士の御遺族にお逢いしたところ「市の方は一切関与したくないらしい」

との言葉も・・・!(驚愕)

この偉業を後世に伝えていくのは、御子孫をはじめとする関係者と一部の有志だけかもしれない。


再考、八甲田山雪中行軍 1

2013年05月21日 | 近世歴史と映画

 実際、八甲田山という名の山はありません。


大岳(標高1584㍍)、前岳、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、硫黄岳、石倉岳、

高田大岳の事を言い、


これらが八つの甲に見える事から通常八甲田と呼ばれています。


正式には「北八甲田連峰」と言います。


映画「八甲田山」との疑問点

 小説(映画)からの疑問点

「八甲田山系のどこかですれ違う」という聯隊間の約束があった?


 史実

実際は両聯隊の独自計画で、弘前聯隊では3年掛かりで計画が練られていた。


聯隊間の約束は、たまたま同時期であった事と、新田次郎氏が参考にしたとされる

『吹雪の惨劇』

の構成(両聯隊の行動が同時進行)をヒントにしたと思われる。

従って神成大尉と福島大尉の交流は全く無い。


弘前隊の斉藤伍長の弟は青森隊にいた?


史実

実際はいない。あくまでも創作。


因みに神成大尉の従卒は18日に行なわれた予備演習には参加したが本行軍には、

参加していない。

 

田茂木野で案内を断ったのは大隊長?

史実

大隊長・山口少佐は温厚な方だったようで、『吹雪の惨劇』によると大隊本部の見習士官・

下士官が追い返したとなっている。


小説では山田少佐を悪役に仕立てる事により、

神田大尉を悲劇のヒーローにしている(?)


それに実際の神成大尉は小説の描写と違って自らを卑下していなかったと思われる。

 

青森隊は指揮系統の乱れが原因(人災)で大惨事に至った?

 史実

各史料に目を通す限りでは指揮系統にさほどの問題は無く、

大惨事に至ったのはあくまでも天災であったと思われる。
実際、猛烈な暴風雪と異常寒気の襲来で、この年の125日(青森隊出発3日目)には

旭川で零下40.1℃を記録した。

 

弘前隊は案内人に敬礼して見送った?

史実

あくまでも映画の演出。


小説では案内料を手渡された滝口さわが「もう用は無ぇってわけかね」と言う。


七勇士
に対しての態度、あれが全てである。

 

弘前隊は八甲田を越えて帰弘途中、堂々と『雪の進軍』を声高らかに歌っていった?


史実

これもあくまでも映画の演出。


「実際は半死半生の状態で帰営した。今にも倒れそうだった」と、弘前隊を出迎えた女性(間山伍長の奥様)を

介して御子孫が証言している。

 

徳島大尉、神田大尉、2人とも雪中行軍に関してはなかなかの権威者のようだな」(友田旅団長の台詞)

 史実

福島大尉は冬の岩木山で雪中露営(2泊)と夏の八甲田(5泊)を歩いている。


今回の三本木経由の八甲田雪中行軍は三年がかりで計画され、

福島大尉にとって総決算とも言える内容だった。

一方、神成大尉は原田大尉から急遽交替させられ、雪中行軍の記録は残っていない。

 


八甲田連峰 吹雪の惨劇
小笠原狐酒・著)

雪中行軍隊員中、最長寿を全うした小原伍長の証言を基に小笠原氏の人生を賭けて書かれた書物。
五聯隊と三十一聯隊の行動を並行して描かれている面白い編集。
本来第五部まで執筆される予定であったが、筆者御逝去のため第二部までしか存在していない。
自費出版の為、一般書店では扱っておらず、馬立場の『銅像茶屋』まで足を運ぶしかない。
小笠原氏の尽力が無ければ、この悲話は風化していたと言っても過言ではない。



故陸軍歩兵少佐・福島泰蔵の葬儀

2013年05月19日 | 近世歴史と映画

 

二月二日、福島戦死の内報が妻キヱのもとにもたらされた。キヱは弘前の実家のもとに身を寄せていた。

キヱは直ちに、群馬の父泰七に、この事を報らせた。戦地にある

立見師団長にも、福島の戦死の模様をたずねる便りをしたためた。

 

明治三十八年三月二十八日、福島泰蔵の葬儀 斎場は、弘前市新寺町の

名刹、報恩寺。

津軽薄主の 菩提寺である。寺の周囲には、堀をめぐらし、下乗橋が架けられてあった。

 葬儀は、第八師団の留守師団長が、総指揮官。

 弘前各部隊から葬委員が選任され、師団葬の扱い。

 これらに、関係官公署の官吏、一般の会葬者が合流した。

群馬からも、弟甚八と、姉達が参列。出棺は、成田良之前宅から。

 この日、午後一時、喇叭兵が吹奏する哀しみの音を合図に、

先頭前列に騎兵が三騎。続いて儀礼兵の一団が先行。

次に霊柩車を兵士の一団が曳き出した。この霊柩車の両側には、

師団の葬儀委員、佐藤弥六等の会葬者総代が、これを守り進んだ。

続して、喪主長女(一歳一ヵ月)みさおが、親族に背おわれ、未亡人キヱは、

白無垢の喪服で、愁然と従った。白張提灯をかざした葬儀行列は延々と続いた。

行列の後尾にも、儀礼兵の一団が配置され、最後尾には、

後列騎兵二騎が従った。斎場、報恩寺の本堂では、報恩寺の住職が

導師となり、しめやかにお経が、あげられた。又、特別に、導師により、

故陸軍歩兵少佐・福島泰蔵の

 「追悼文」が朗読された。この間、儀礼兵が境内で弔銃を三発。続いて、

大本営陸軍幕僚将校一同からの弔文が読みあげられた。(恒吉参謀長代読)

ついで、青森県知事、弘前市長、天台座主大僧正山岡親澄、

大本山永平寺貫主森田悟由、総持寺貫主所西有穆桧山、

眞宗本願寺派本山の僧等の破格の弔辞が朗読された。

特に、盟友、佐藤弥六か弔文を読みあげた時は、鳴咽、絶句。参列者の涙を

さそったという。これは、関係者の語り草。この日の会葬者は、五百余名。

沿道の市民は、厳粛で物々しい葬儀行列に、在りし日の故人をしのび、

彼の勇気を称え合い、冥福を祈った。

因みに記す この日は、月こそ変われども、彼が戦死した日、

突撃時間に合わせて執行された。彼が戦死時の所属原隊は、

山形歩兵第三十二連隊。その福島の葬儀は、彼が第二の故郷として

心血をそそいだ弘前城下でしかも、師団葬の扱い、その名も、

名刹報恩寺で執行された。

 余栄これに過ぎるものはなかろう。

 この師団葬の扱いは、明治天皇と、大本営の陸軍幕僚

(参謀部と副宮部を合わせていう)と立見師団長の意向配慮、指令なくしては、

執行出来ないものであった。

 

 



福島大尉の戦死

2013年05月17日 | 近世歴史と映画

 

明治三十七年)第八師団に転任し立見将軍のもとで日露戦争に出陣し

黒溝台(こっこうだい)奪還作戦「世界に類の見ない激戦」で、

福島大尉は軍刀を振りかざして先頭を切ったが、敵の砲弾を受け戦死

明治三十八年一月二十八日、福良案蔵大尉は、四十歳という若さであった。

同日づけで陸軍少佐に昇進し、正六位勲四等功五級、今治勲章旭日小綬章がおくられた。

 振りかざした軍刀は、父泰七が、贈った、「幡随院長兵衛」(ばんずいいんちょうべえ、元和8年(1622年) - 明暦3718日(1657827日)の名工堀川国安作の脇差を軍刀に仕立たとされているが、「現在、国安作は200万以上の価格」

 

「立見尚文師将軍「1845-1907

桑名藩士出身、第八師団司令官。日本が壊滅寸前まで追い込まれた黒溝台会戦における活躍で知られる。黒溝台での覚悟 黒溝台会戦中、立見の司令部周辺でも砲弾が飛び交っていたため幕僚が司令部内に安全な避弾所を作った。しかし立見はそこには入らず、煙草を燻らせ「ずいぶんと砲弾がやってくるな」と言いながら屋外で指揮をとり続けていた。また、司令部で使っていた家屋の土間には大きな深い穴を掘らせ、「もし敵が来たら、俺は割腹して軍旗と共にこの穴に埋まる」と言いながらその前でウィスキーを飲んでいたという。」孫は、立見辰雄(鉱床学者、東京大学教授)

 

黒溝台戦神驚

朝に一城を抜き暮に一城

天才向かう所鬼神驚く

首将援くるの元何処か知らん

夢は虜陣に馳す千百の兵

 

この詩は、福島が戦死する何日か前、古誠子にあったとぎに詠み、

従軍記者として古城子にいた東奥日報記者斎藤武男に贈ったものである。

斎藤は、「黒溝台戦闘一日前試一絶而発陣営、臨発賜金」と

添え書さしている。「戦闘一日前に一絶を試し陣営を発す。

発に臨み金に贈る」とあるから、戦死の前日、一月二十七日に詠じたものなのかもしれない。

福島の絶筆である。

 

 

 


高倉健が出会った人々 B

2013年05月14日 | 近世歴史と映画

 

『鉄道員』ぽっぽやたち


映画における僕の故郷は、やはり東映の東京撮影所といえる。

『動乱』以来、十八年ぶりにその故郷に戻り『鉄道員』の撮影をした。

この映画の仕掛け人は石川通生プロデューサー。

彼が原作を読み「健さんで、映画化できませんか」と、

坂上順・東映常務に持ちかけたと聞く。最初のうち僕は

あまり乗り気になれなかった。だが、かつて一緒に苦楽を共にした

東映のスタッフたちが定年間近になり最後の記念写真を、    

健さんと一緒に撮りたいと、彼らが言っています」という手紙を、

坂上・東映常務からもらった。記念写真とは、

映画がクランクアップしたとき、

関係者全員が集まって一緒に振る写真のことだ。

この手紙を読んで僕の心は動いた。

この映画の台詞に、(親父の言葉を信じて、鉄道員になった。

エスエルとかシロクニが、戦争に負けた日本を立ち上がらせていく。

だから、自分は機関車乗りになったんだ。後悔はしていないというのがあった。

だが、時代は常に移り変わっていく。それはどうしようもできない。

年齢とともに時代とズレていく哀感。同じような想いは、

僕と一緒に仕事をしてきた、活動屋といわれる

映画人にも多いのではないか。彼らと一緒にまた映画をを振たいと強く思った。

よし、一緒にやろう。これをやらないと、きっと後悔するだろうと。

東映を出てから僕は自分で仕事を決めてきた。

興行的に当たるなら何でもいい、という気持ちはまったくなかった。

監督とかスタッフとか脚本家とか、

何かを人に感じると動くことができた。その結果、

思うような作品ができなかったとしても、自分か選んで決断したのだから、

悔いは残らない。何とか耐えてえていける。

マネージャーをつけず、一人でやってきたのは多分そういうことかな。

 

 『鉄道員』の撮影中、北海道の雪の中でも、東京に

戻ってのロケでも、石川プロデーサュサーはずっと

僕の側にいてくれた。雨の目は黙って僕に傘を差し    

掛けてくれた。ほとんど言葉を発しない人柄なのに、

彼がいてくれるだけでなぜか安心できる。

 生きることは哀しいことだ。そんな切なさを分かった上で、

自分の仕事を黙々とこなす。切ないほど一生懸命に生きている。

そういう活動屋たちが現場にはたくさんいた。

(見についた能の高い低いはしょうがねえ。けれども、

低かろうと高かろうと精いっぱい力いっぱい

ごまかしのない嘘いつわりのない仕事をする。

おらあ、それだけを守り本尊にしてやってきた)

(山本周五郎『かあちゃん』より)


『鉄道員』の完成パーティーイの席で、僕はこの言葉を紹介した。     

だが、大勢の人が集まる席では、口下手で

上がり性になるため、なぜこの言葉を朗読したの

か上手く説明できなかった。あのときの僕の気持

ちは、石川プロデューサーに代表される活動屋と

呼ばれるスタッフに感謝し、この言葉を贈りたかっ

たのだ。この文章を最初に読んだとき、彼ら活動屋

たちの顔が浮かんだ。活動屋たちの誠の気をいただき、

僕は五十年問、走り続けてこられた。

 

               高倉健俳優生活五十年 想SOUより引用

    


高倉健が出会った人々 A

2013年05月13日 | 近世歴史と映画


ヘンリー・フォンダの眼差し

 


最初に出演したアメリカ映画は『TooLateTheHero』

(邦題『燃える戦場』)だった。憧れていたヘンリー・フォンダが

出演すると聞き、迷うことなく引き受けた。ハリウッドの撮影所で

彼を見かけ、思わず駆け寄った。

「あなたのファンです。『荒野の決闘』も『怒りの葡萄』も

『ミスター・ロバーツ』も好きです。サインをください」

なぜかスラスラ英語で話せた。

ヘンリー・フォンダは「君は山口少佐役の日本人俳優だね。

デイリー(ラッシュ)を見たよ」と言いながら、快くサインに応じてくれた。

さらに「君は『十二人の怒れる男』を見たか」と、話しかけてくれた。

僕が「いいえ」と答えると、

「とてもいい映画だから、ぜひ観てばしい」と、僕の目を見ながら言った。

優しいまなざしの笑顔だった。

 帰国した僕は『十二人の怒れる男』を観た。

大掛かりなセットも派手なアクションもない、

陪審員室に巣まった十二人の男たちの心理を追う室内劇だ。

殺人容疑の黒人の少年が、有罪なのか無罪なのか。

最初の評決でヘンリー・フォンダが演じる男だけが無罪と書く。

有罪にしろ無罪にしろ、全員一致が陪審員制の原則だ。

たった一票の反対意見のため彼らはクーラーのない狭い室内に閉じこめられ、

汗をかきながら延々とディスカッションを続けていく。

罵倒し合い、嫌味や憎悪をぶつけ合う白熱の議論から、

少しずつ明らかになっていくのは、多くの人々が無意識の

うちに抱いている偏見や差別意識だ。彼らは最後に全員一致という

評決を出す。

 観終わった後、爽やかな感動に包まれた。

この映画を僕に推薦してくれた

ヘンリー・フォンダが、アメリカの良心を代表する俳優の

一人とされるのも納得できた。

 

この文章も高倉健自身が書いたもので、実に簡潔かつ明瞭な表現でいつも感心

する私ですが、高倉健は、じつはエッセイの名手。

エッセイ集『あなたに褒められたくて』(集英社文庫)では、日本文芸大賞エッセイ賞を

受賞し当然ですが、

英語力はDVDなどで、彼が出演した。アメリカ映画を観て頂ければ、

1931年生まれの俳優としては、抜群である。   

                    高倉健俳優生活五十年 想SOUより引用

 

 

 


福島大尉に、長女誕生

2013年05月12日 | 近世歴史と映画

 

明治三十七年二月十七日

 いつ、何時でも、敵陣にと突入護国の鬼になる信念の彼だったが、

心の整えはとにもかくとしても、

可愛いわが子に残す為、みさを誕生の記を書き綴った。

因みに日露戦争宣戦の詔勅が、下ったのは、二月十日であった。

したがって、

新田次郎、創作の「八甲田山死の彷徨」原作、映画「八甲田山」で、

高倉健(弘前第31連隊・徳島大尉(モデルは福島泰蔵大尉))、

北大路欣也(青森歩兵第5連隊・神田大尉(モデルは神成文吉大尉))が、

徳島大尉宅を訪問し徳島大尉がわが子を

膝の上に置いて対話することはなかったはずである。