アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

福島大尉 八甲田山雪中行軍決行

2013年05月09日 | 近世歴史と映画

 

明治三十五年

新田次郎、創作の「八甲田山死の彷徨」を、ノンフィクション小説として読まれた方も多いと思いますが、

フィクションで。小説の青森第五連隊と弘前第三十一連隊が雪中行軍を計画、これも事実でない。

実際には双方の計画は個別に立案されたもので、実施期日が偶然一致したにすぎないなど多くが創作で、

私が生まれ育った近くの、現在の群馬県伊勢崎市境平塚にも、新田次郎は来た事実はなく、

主に青森第五連隊の資料を基に脚色し書かれたと思う。

事実と異なる点、多くあるがこれは小説家として「八甲田山死の彷徨」の評価を、

意図的に上げるため手法ではないかと、私自身は初版版より何度となく

読み返している感想である。

 

弘前連隊雪中行軍が青森第五連隊の福島大尉の拾った歩兵銃二丁は、

連隊内の古井戸に捨てたと小説にあるが、

四十八時間不眠不休で豪雪の中必至で田茂木野に辿り着いた福島大尉は、

直ちに、青森連隊の捜索隊指揮官の青森連隊第一大隊長・木村宣明少佐に、

呼出されて、福島隊の行軍計画を報告し、携えてきた歩兵銃二丁を提出している。

これらの記録は、都内防衛研究所、図書館保管の『歩兵第五連隊雪中行軍遭難に関する

委員復命書附録』の「田茂木野木村少報告・二十九日報告・」克明に記載され末尾に

「小銃二丁は当地に於いて受領致候」と明記されている。

以上のような経緯から、

 

私は確認できた事実のみを記載する。

31連隊は福島泰蔵大尉のもと

八甲田連峰縦断雪中行軍執行(明治三十五年一月二十日~一二月三十一日まで十二日間)

雪中行軍の実施は、一月下旬から二月下旬の間に実施する事で、福島大尉は、

連隊長の承認を取っていた事。叉、編成から出発の決定。その他、

福島大尉一任されていた。次に、実施目的は、勇猛果敢な単なる雪中行軍でなくて、

種々多様な調査研究と実験に狙いがあった事。

更に叉、福島大尉の事実上の督励官は立見師団長であり、

協力者は、師団司令部幹部であった事。 編成も含め初めは、四十二名の計画。

福島大尉は、全員に対し、予め、調査研究の分担を決めていた事。

従って、青森歩兵第五連隊の雪中行軍とは、全く異質なもの。

又、関連を取り合った演習ではなかった。

五連隊では、火打山から、吹雪で進行方向を誤り、不運にも遭難した。

八甲田山という山は、南山麓の増沢口から、田代温泉に至るまでの方が、

距離的にも、積雪の深さにおいて最も不利で、中間には、

蜀道の嶮「蜀道とは漢中から成都への桟道の事から崖を指す」とまで言われ

 青森県随一の難所があった。

歩兵第四旅団副官に就任(三月)

福島大尉は、魔性の山、八甲田連絡を雪中踏破した事で、その大胆さ、周到な実行計画など、

勇気ある指揮官として、天下の耳目を驚かせた。

この直後、参謀本部の新戦史委員室から招聘されるが、いち早く立見師団長が福島大尉を、

団長副官にし、青森歩兵第五連隊の処理に忙殺される日々となったが、

福島大尉は招聘され、本来の学問に進みたかったのでは、しかし之も宿命


「立見 尚文(たつみ なおふみ、弘化2719日(1845821日) - 明治40年(1907年)36日)は

桑名藩士、日本の裁判官・陸軍軍人。陸軍大将、男爵。

通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。父は桑名藩士柳生新陰流を修得し昌平坂学問所に学び、

文武両道の士として高く評価される。

その後、幕府陸軍に出向しフランス式の軍制を学び、桑名藩の軍制改革にも着手した。

日清戦争の後に、新設された第八師団師団長に任命され

、対ロシア戦を想定した準備に着手。八甲田山雪中遭難事件も、その一環として起こったアクシデントであった。」

1898年(明治31年)10 陸軍中将・第8師団長(初代) ・1906年(明治39年)5 陸軍大将



高倉健今を語る 4

2013年05月09日 | 近世歴史と映画

質問4

 高倉さんのお人柄について、「若い時から映画界で大活躍されて現在に至るが、今の若い俳優の前でも偉ぶらず、渋い演技が素晴らしい」(70代男性)という声がありました。人は立場が上になると態度も自然と大きくなるものですが、そうならないのは、何か心がけておられることがおありなのでしょうか。

 最新作『あなたへ』でも、多くの若い俳優さん、女優さんと共演なさっていますが、今の若い人たちをどのように見ておられますか。また、若い世代へ特に伝えたいメッセージなどはおありでしょうか。

 

心がけているわけではありません。

 若い世代を見ていると、安いギャラで威しいスケジュールで、

一生懸命闘っていた自分の若い頃と重なります。

若い時は、特に流れの威しい状態が続きます。その時、何を見失わないようにするか。

自分は、母だけは、恥をかかせたくないという思いで、辛抱したんだと思います。

 

中略

 

若い頃の自分を思い出すから、よけい弱い立場の人に、威張るのは、

恥ずかしい奴のすることだと思っています。

若い世代には『今の辛抱が大切なんだよ』と心の中で励ましたい。

 


福島大尉 岩木山脈通過雪中行軍執行実施

2013年05月08日 | 近世歴史と映画

 これは、明治三十四年二月八日、外国軍に青森湾を制せられ、鰺ヶ沢に既に敵兵が、

上陸の想定で行われて、下士候補生八十六名を二隊に分け、数々の実験を執行

したもので、軟雪の時期、岩木山脈を通過できるかどうか、戦況急速の場合の

行動力。冬季戦術の方法、などの目的であった。

この、雪中行軍が、八甲田山雪中行軍の分かれ目になるとはだれも思わなかったに、

違いないが、これも運命かもしれない。

 


高倉健今を語る 3

2013年05月07日 | 近世歴史と映画

質問3

 「老いとともに見合った存在感がある。昔の役柄は任侠ものなどが多かったが、最近の作品では、年齢にあった役柄で憧れる」(60代男性)という声も多くありました。

 映画では、その時々でご自身にふさわしいと思われる役柄を選んで出られていると思いますが、その役柄が自分にふさわしいと感じられるのは、どのような時でしょうか。

 また、高倉さんは常に新しい役柄や演技に挑戦し続けているように思います。歳を重ねてからファンのイメージを壊すことや、自分の殼を破ることに対する恐れのようなものはないのでしょうか。

 

映画会杜に所属している時とは異なり、独立してからは、イメージを壊す云々というより、

役を好きになれないものは、やりません。

 全編を通してというより、白分け、琴線に触れる。一行、一言の台詞があるかないか。

 結構単純なんです。

 でも、そんな役にはなかなか出会えない。

 だから、何年も休みが続くんです。

先人から、「人は獲る餌で顔が変わる」と。いわれました。

鋭い言葉だと思います。


高倉健今を語る 2

2013年05月06日 | 近世歴史と映画

 

質問2 アンケートでは、一姿努もいいし色気があるのて素敵と

思います」(70代女性)といった声が多く寄せられました。八十歳を越えても姿勢よく、美しいたたずまいができる秘訣を教えてください。

 

そうでしょうか。だとしたら子供の頃から、厳しく躾けてくれた亡くなった母に感謝します。

まだまだもてようと思っているから、自分に厳しくできるのかもしれません。

 

                                                            文藝春秋 2013 季刊春号より 高倉健 一問一答より

 


高倉健今を語る 1

2013年05月05日 | 近世歴史と映画

質問1

 歳を重ねるごとに輝きを増してゆく人、そんな素敵な人に出会いたいという思いから、今回のアンケートを企画しました。「老いて美しき人」という言葉には、若さ=美、老い=醜、という世間一般の考え方への異議の思いを込めたつもりです。若さを保っていることがシニアの美しさの必要条件ではない、と。

 その男性部門で、高倉さんは第一位に選ばれました。そこで、アンケートの回答を軸に、いろいろお間きしたいと思います。

最初はアンケートのテーマに沿ってお聞きします。若い頃と今とを比較して、いちばん変わったところ、特に、ご自身で、成長したと感じておられるところは、どこでしょうか。

 

 

老いて美しい人」という言葉に、まだそんなじじいじやねえよという

反抗心もあります。

 でも、お答えします。

人が一番傷つき易いのは、心だということに気が付いてから、

出来るだけ無駄な争いを避けるようになった。それが大人になったと

いうことでしょうか。

 若い頃、諸行無常を受け入れ難かったけれど、今は前よりは、

受け入れられるようになりました。

長い問使えば、トンネルでも傷みます。

最近は、心身ともに丁寧に使っていこうと心がけています。

                  文藝春秋 2013 季刊春号より 高倉健 一問一答より


高倉健のプロとしての生き方

2013年05月04日 | 近世歴史と映画

 

 東映名誉会長の岡田茂氏(享年87)の通夜、葬儀が行われた。菅原文太や佐久間良子ら

多くの往年の銀幕スターが参列する中、高倉健の姿はなかった。

「健さんは、冠婚葬祭など公の場には顔を出さない。唯一、〇六年に文化功労者として

両陛下主催のお茶会に出席した程度です。今回は“大恩人の葬儀だから、参列するのでは”

と見る向きもありましたが……」

健さんの代表作「網走番外地」の曲が会場に流れ、俳優の小林稔侍が健さんに

託された弔辞を代読した。

 独立後、「幸福の黄色いハンカチ」など他社で数々のヒットを飛ばした。しかし今回の欠席は、

そうしたシコリからではない、という見方も。

「古くは、元妻、江利チエミさんの葬儀にも来なかった。しかし、チエミの毎年の命日には、

桐の箱に入ったお線香が送られてきたそうです。

〇五年、恩師と慕う石井輝男監督の葬儀も欠席でしたが

翌年に網走に建てられた石井監督のお墓に、健さんが業者に頼んで、

『安らかに』と書き添えている。

幾度も共演し、仲が良かった大原麗子さんが三年前に急死した時も、翌年、一人で墓参している。

 


高倉健と小田剛一、そして人生

2013年05月03日 | 近世歴史と映画

 

 高倉健は最後の映画スターである。日本の観客、とりわけ男性ファンが、高倉健さんを

見るために映画館へと足を運ぶ、という意味において。俳優で映画を

見る習慣がほぼ消滅した現在、こうした映画の見られ方はとても貴重だと言える。

 ところで、ファンの多くは、高倉健さんの外見の格好良さを見に行っているのではない。

 彼が演じる男の生き様にほれて、映画館に通いつめるのだ。

高倉健は「かく生きるべし」という規範を常に体現してきた。

「昭和残侠伝」などのヤクザ映画では、理不尽な仕打ちに耐え抜き、

最後の最後に命を賭けて向かう。そのストイックな姿が公開当時、

右翼から左翼まで幅広い層の男たちの、生きる指針となった。

 軍人であっても技術者であっても、市井の人間でも、たとえテロリストでも、

健さんが演じる人間の生き様に、私たちは憧れてきた。

 もちろん、私たちは彼らのようにストイックに生きていない。

普段は小ずるくて、矛盾に満ちた行動を重ねてしまうわけだが、

時々健さんの映画を見て、我が身を省みる。肩で風を切って映画館を、

後にしながら、少しでも健さんに近づきたいと改めて決意するのだった。

「単騎、千里を走る。」以来6年ぶりの新作となる

「あなたへ」でも彼は変わりなく人生の規範を見せてくれる。しかも、

かつてのような働き盛りの人間のそれではなく、

そろそろ人生の黄昏を迎えようとしている人間のそれである。

 彼が演じる倉島英二は、定年を過ぎた刑務官。富山刑務所で、

嘱託として職業指導をしている。妻に病気で先立たれ、傷心の英二の下に、

亡妻から手紙が届く。

「故郷の海に散骨してほしい」との内容だった。

 英二はワゴン車をキャンピングカーに改造し、妻の故郷である長崎県の

平戸港へと向かう。生前に散骨の話など間いていなかった

英二は、妻の真意を測りかねていたが、行く先々で出会う人々との

ふれあいを通して、だんだん妻の思うところに気づいていく。

その過程が何のケレンもなく描かれている。

 長年連れ添った配偶者を失った時どのように送ればよいのか。

その後の人生をどのように生きていけばよいのか。

そして、わが人生の整理を始めればいいのか。

 

81歳の高倉健は、人生の黄昏時に差し掛かった多くの人が直面する

そんな普遍的な問題に、今回も言葉ではなく身をもって答えている。

テーマが普遍的であるがゆえ、英二という男は、

特別な資質や特殊な経験を持つ人間として描かれてはいない。

刑務官という堅い仕事を生真面目に勤め上げてきた人間である。

恋愛についても同様だ。妻のことを不器用だが一筋に愛し続けてきた。

一本道の平凡な人生を、横道にそれることなく歩んできた。

 考えてみれば、これほどストイックに、つまり非ドラマ的に生きるということは、

既に特別な資質であり、特殊な経験なのかもしれない。

特に、欲望に忠実であることが称揚される現代日本においては。

その意味で、英二は極めて高倉健的キャラククーだと言えると思う。

高倉健が小田剛一として、江利チエミや大原麗子に、いまも続けている。

好意が私は、オーバーラップしてしまうのです。 

 

   キネマ旬報 2012 №1619 「あなたへ」作品評 文=石飛徳樹より一部 引用


福島泰蔵の結婚

2013年05月02日 | 近世歴史と映画

 

  彼は、(明治三十五年十月十三日)弘前市、成田寅之肋の妹キヱ(二十一歳)と結婚した。

 媒酌人は、第八憲兵隊長、工藤祐之少佐夫妻。式場は、弘前偕行社で、

 至極ささやかにしかし厳粛に執行。祝宴は、成川家の大広四間で延々と続いた。

 彼は、これまで後願の憂いに繋がる妻帯はせんと、独身を続けてきた。

 然し、弘前には、詩友が大勢出来、勧められた。

 頑円一徹な彼も、遂に成川キヱの人柄に惚れ込み、世帯を持った。

 彼は、この祝宴で大酔。賑やかな津軽三味線に合わせて踊り出したまでは良かったが、

 後は高いびきで、 前後不覚の語り草を、ここでも残してしまった。

 この挙式には、群馬から彼の父親泰七と、妹の里、二人が出席した。

 


福島泰蔵の人柄

2013年04月30日 | 近世歴史と映画

 

同期生の鈴木孝雄はまた、士官候拙生時代の福島について、こうも言っている。

「彼は教官にへつらうようなことは全くしない男だった。時には教官に痛烈な質問を浴びせ、

回りの者を驚かせたりした。人気者だった。自分等も、彼の元気さ、気力には、大いに刺激されたものだ」

これまでみてきたところでは、刻苦勉励するきまじめな姿が浮かびあがってくるが、

意外な一面ももっていたようだ。やはり同期生で、のちに陸軍少将まで、

すんだ男爵黒田善治は、福島が十和田山八甲田山を越え雪中踏破に成功したのち、

次の書簡を寄せている。       ’

君は、同室時代、随分とズボラなりし。之を知る僕は、極めて愉快。

前代未聞の雪中行軍に成功を収めた事をひと一倍喜んでゐる。

この勢いで進めば、いづれ君は、将軍の鼻をへし折る日もあらんかと、

楽しみにしている。然し、大ぼらは吹くな。

 

『鈴木孝雄 すずき-たかお

1869-1964 明治-昭和時代前期の軍人。

 明治2年10月29日生まれ。鈴木貫太郎の弟。日清(にっしん)・日露戦争に従軍。陸軍省軍務局砲兵課長,

   陸軍士官学校校長,技術本部長などをつとめる。昭和2年陸軍大将。退役後靖国神社宮司(ぐうじ)       

          大日本青少年団団長となる。昭和39年1月29日死去。94歳。東京出身。陸軍士官学校卒。』