明治三十五年
新田次郎、創作の「八甲田山死の彷徨」を、ノンフィクション小説として読まれた方も多いと思いますが、
フィクションで。小説の青森第五連隊と弘前第三十一連隊が雪中行軍を計画、これも事実でない。
実際には双方の計画は個別に立案されたもので、実施期日が偶然一致したにすぎないなど多くが創作で、
私が生まれ育った近くの、現在の群馬県伊勢崎市境平塚にも、新田次郎は来た事実はなく、
主に青森第五連隊の資料を基に脚色し書かれたと思う。
事実と異なる点、多くあるがこれは小説家として「八甲田山死の彷徨」の評価を、
意図的に上げるため手法ではないかと、私自身は初版版より何度となく
読み返している感想である。
弘前連隊雪中行軍が青森第五連隊の福島大尉の拾った歩兵銃二丁は、
連隊内の古井戸に捨てたと小説にあるが、
四十八時間不眠不休で豪雪の中必至で田茂木野に辿り着いた福島大尉は、
直ちに、青森連隊の捜索隊指揮官の青森連隊第一大隊長・木村宣明少佐に、
呼出されて、福島隊の行軍計画を報告し、携えてきた歩兵銃二丁を提出している。
これらの記録は、都内防衛研究所、図書館保管の『歩兵第五連隊雪中行軍遭難に関する
委員復命書附録』の「田茂木野木村少報告・二十九日報告・」克明に記載され末尾に
「小銃二丁は当地に於いて受領致候」と明記されている。
以上のような経緯から、
私は確認できた事実のみを記載する。
第31連隊は福島泰蔵大尉のもと
八甲田連峰縦断雪中行軍執行(明治三十五年一月二十日~一二月三十一日まで十二日間)
雪中行軍の実施は、一月下旬から二月下旬の間に実施する事で、福島大尉は、
連隊長の承認を取っていた事。叉、編成から出発の決定。その他、
福島大尉一任されていた。次に、実施目的は、勇猛果敢な単なる雪中行軍でなくて、
種々多様な調査研究と実験に狙いがあった事。
更に叉、福島大尉の事実上の督励官は立見師団長であり、
協力者は、師団司令部幹部であった事。 編成も含め初めは、四十二名の計画。
福島大尉は、全員に対し、予め、調査研究の分担を決めていた事。
従って、青森歩兵第五連隊の雪中行軍とは、全く異質なもの。
又、関連を取り合った演習ではなかった。
五連隊では、火打山から、吹雪で進行方向を誤り、不運にも遭難した。
八甲田山という山は、南山麓の増沢口から、田代温泉に至るまでの方が、
距離的にも、積雪の深さにおいて最も不利で、中間には、
蜀道の嶮「蜀道とは漢中から成都への桟道の事から崖を指す」とまで言われ
青森県随一の難所があった。
歩兵第四旅団副官に就任(三月)
福島大尉は、魔性の山、八甲田連絡を雪中踏破した事で、その大胆さ、周到な実行計画など、
勇気ある指揮官として、天下の耳目を驚かせた。
この直後、参謀本部の新戦史委員室から招聘されるが、いち早く立見師団長が福島大尉を、
団長副官にし、青森歩兵第五連隊の処理に忙殺される日々となったが、
福島大尉は招聘され、本来の学問に進みたかったのでは、しかし之も宿命
「立見 尚文(たつみ なおふみ、弘化2年7月19日(1845年8月21日) - 明治40年(1907年)3月6日)は
桑名藩士、日本の裁判官・陸軍軍人。陸軍大将、男爵。
通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。父は桑名藩士柳生新陰流を修得し昌平坂学問所に学び、
文武両道の士として高く評価される。
その後、幕府陸軍に出向しフランス式の軍制を学び、桑名藩の軍制改革にも着手した。
日清戦争の後に、新設された第八師団師団長に任命され
、対ロシア戦を想定した準備に着手。八甲田山雪中遭難事件も、その一環として起こったアクシデントであった。」
・1898年(明治31年)10月 陸軍中将・第8師団長(初代) ・1906年(明治39年)5月 陸軍大将