アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

泰蔵に影響を与えた人々

2013年04月30日 | 近世歴史と映画

高崎連隊(歩兵第十五連隊)の

このころ、郷土の先輩、安川繁成を、東京青山の邸宅に訪問している。

遠縁にあたる安川は当時、会計検査院第一部長たった。

それまで一度も会ったことはなかった。玄関で名刺を渡すと、

門番は名刺を持って家に入り、再び出て来て、福島を一室に案内した。

 案内された部屋で、しばらく待ったが、家の主人はいっこうに現われようとしない。部屋は、

庭に面していた。庭では一人の老人が、草むしりをしている。

一時間近く経った。老人はまだ草むしりをつづけていた。

福島はだんだん腹立たしくなってきた。

「予ヲ一ノ武学生ナリト軽蔑スルカ。将タ、他ニ用事アリテ出デ来ラザルカ。実ニ、失敬ノ事ナリ。」

ぶつぶついっていた。

 ところが、庭で草むしりをしていた老人がとつぜん、つかつか福島の

いる部屋にあがってきたのである。なんと、安川繁成その人だった。

福島があわてたのはいうまでもない。

 言葉は上州弁の、いわゆるべーべー言葉で、路上で会えば唯の田舎者の

老人としか見えないだろう、と記している。

老人といっても、福島の眼にそう映っただけのこと、

せいぜい五十歳かそこらであった。福島はこの安川繁成の知遇を受け、

生涯の師にする多くの人たちを紹介されていう。

 

『「安川繁成 やすかわ-しげなり』

1839-1906 明治時代の政治家,実業家。

 天保(てんぽう)10年3月生まれ。もと陸奥(むつ)白河藩(福島県)藩士。戊辰(ぼしん)戦争で岩倉具視(ともみ)にみとめられる。工部大書記官や会計検査院部長をへて日本鉄道監査役や愛国生命保険社長をつとめた。明治31年衆議院議員(憲政本党)。明治39年8月29日死去。68歳。上野(こうずけ)(群馬県)出身。本姓は岩崎。

 

 

 


高倉健の人間性は何処から 3

2013年04月29日 | 近世歴史と映画

 

少年時代(小田剛一)の僕は、

幸せとゆうのは海の向こうにある、

漠然とそう夢みていた。

自分の生まれ育った炭鉱の近くじゃない。

遠くへ行けば行くほど、何かそうゆう所があるに違いないと。

俳優という生業(なりわい)

魂が龍もってしまう、密度の濃い時問を過ごした撮影ほど、

クランクアップが近づくにつれて、心のバランスが崩れる。

自分でも何だかわからないうちに、どんどん不機嫌になっていく。

どうしようもなく、寂しくなる。

肉体的にはきついのに、まだまだ撮影を続けていたい。

もっともっと旅を続けていたいと思う。

 

だが、俳優の旅には、必ず終わりがくる.

 

残酷な生業だ.

 

終わりがわかっているのだから.

 

人と出会って好きになればなるほど、離れ難い

 

別れがあるのがわかっていて、

 

また新たな旅に出なければならないのが俳優と言えるから、

 

業の深い生業だと思う。

 

生業の深い意味は知らないが、生きるため……何だか哀しい響きに聴こえる。

 

二度と泣いたりするもんか。

 

今度は、鼻歌で終わってやるぞと、そんな仕事をしたいと思う

 

早く、こんな生業を投げ捨てて、穏やかな自然の中で安らかに静かに暮らしたいと。

 

ああ―、夢だよね。

 

だけど、一生懸命、命を燃やしていると   、

 

人と人との優しさ、〝幸せ〟が味わえるのかもしれないね。滅多にないけど。

 

                                                                    集英社発行 想SOU より引用

 

 


高倉健の人間性は何処から 2

2013年04月28日 | 近世歴史と映画

 

毎年の秋祭り、神社では相撲入会が催された.

 

四人抜きの.一等賞の賞品は自転車だった

僕は毎年、必死に踏ん張ったが、ころっと引っ繰り返されて「はい、おしまい」だった

 

腿を擦りむいて家に帰った僕に、いつも母が言った

 「辛抱せんといかんとよ」

 

この母の言葉は、幼かった僕の心に刻まれたのだと思う。

 映画俳優という仕事に就いた僕は、一生懸命やった

 

『ジャコ萬と鉄』の撮影では、零下十六度の中、

ふんどし一本で北海道積丹の十二月の海に飛び込んだ

地元の漁師たちは「そんなことしたら死ぬぞ」とあまりの無謀さに呆れていた。

だが僕は、烈我夢中でロープを背負って荒れ狂う海に突っ込んでいった。

うなぎと格闘した、あの他の水の冷たさなんて比較にならないほど大変たった。

 

『八甲田山』の撮影では、冬の八甲田で三冬もかかった。

条件の過酷さに撮影は終わらないかもしれない、とスタッフも俳優も、誰もが思った。

 

『南極物語』では、撮影のため北極へも南極へも行った.

 

南極でブリザードに遭い、テントごと吹き飛ばされた.

 

〝これで死ぬのかな〟という思いが頭をよぎった。

 

『海へ~SecYou』では、サハラ砂漠の砂嵐も体験した。

 

六十六年間、一生懸命にやってきた。

ここまで走り続けてこられたのは、

 

『辛抱ばい』という母の言葉があったからだ。

            集英社発行 想SOU より引用


高倉健の人間性は何処から 1

2013年04月27日 | 近世歴史と映画

83年から4年にかけて、FM東京で『アウトドア・スタジオ』という番組を毎週やっていた。

沢木耕太郎が合いたいと思う人と好きな場所で好きな話をする、

というなかなか楽しい番組で。思い返すと、それには実に多くの方が

ゲストとして登場していた。吉永小百合、美空ひばり、阿佐田哲也、

中島みゆき、それに高倉健も出てた事があった

 

 高倉健とは、北海道の牧場に泊まり込んで、二日がかりで録音した。ラジオの番組としては

異例の贅沢さだが、夜遅くまで話しつづけたと、聞いている。

 このときの高倉健については粋な後日談かある。東京に帰った数日後に、

ディレクターが出演料の取り決めをしていなかったことに気づき、高倉事務所

におそるおそる電話をした。ディレクターがいくらギャラを払えばいいのか尋ねると

事務所の女性がこう言ったそうである。

ラジオの予算では到底お払いになることはできない額だと思います」。

ディレクターは、青くなりかけたが、事務所の女性の言葉には、

さらにその先があった。

だから、一銭もいただかなくてよいと申しております」。

なを、その放送をもとに文字化されたこの対談は、84年1月2・9日号の「平凡パンチ」

に掲載されている。

 その中で、高倉健は 僕も沢本さんと同じように、北九州の小さな炭鉱町の、

三つある映画館は父の顔でフリーパスだったんで、よく見ました。

映画俳優に自分がなるなんていうのは思ってもなかったですけど、

ちょうど英語会話なんてのがブームになっていましてね、

対訳テキストなんていうのがあった。『哀愁』ですか、ロバート・テーラーとビビアン・リーの

『ウォータールー・ブリッジ』という、その訳本なんかを買って覚えました。

もちろん英語の勉強のためだけでなく、映画のすばらしさと両方だったでずけど、

英語の台詞をみんな覚えてましたれ、この次はこう言うはずだ

なんて……。

 

高倉健本人は本家だと言っているが、生家である濠を巡らし格式ある屋敷である。          

 

生後間もない、学校の先生だった母との写真

 

軍人だった父、若い頃相撲で鍛え、威圧感が有り「亀ヶ嶋」の四股名を持っていた。

東筑高等学校一年生当時の写真、腕時計にバスケットシューズやはり裕福だったのだ

 約80年前の写真が残されている事は、写真館が家に訪れ撮影したと考えられる

一般家庭では、できないことだ。

≪福岡県立東筑高等学校(ふくおかけんりつ とうちくこうとうがっこう)は、福岡県北九州市八幡西区にある

  共学の 県立高等学校で、100年以上の歴史を持つ県内有数の進学校であり、

       特に同じ北九州市内にある福岡県立小倉高等学校とは比較されることも多い≫

 

 


高倉健と福島泰蔵の生き方、其の6

2013年04月26日 | 近世歴史と映画

 

母の死

 

陸軍士官学校を卒業した翌日、福島泰蔵は高崎連隊(歩兵第十五連隊)に

帰任した。見習士官である。階級は問もなく、陸軍曹長に昇進した。

 同連隊将校団の会議で、福島が満場一致で少尉に推挙されることが決定し、

直ちに上申の手続きがとられたのは、翌明治二十五年二月である。

そして同年三月、福島は随車歩兵少尉に任官した。第四中隊の所属だった。

 彼は二月六日の将校団会議での、少尉推挙可決の翌日、

父にあてて、近々陸軍少尉を拝命すること、その後に故郷を訪れたいと

手紙を出した。やがて父、泰七からの返事が届いた。

それを読んで彼は茫然自失した。

 

『児ョ多年病痔ニアリシ母ハ二月七日に没ス病体ノ事ュヱ眠ルガ如ク逝ク。

没スルノ前遺言スラク、皇威ハ今、志ヲ得ルト得ザルノ場合、且ツ国ノ為二使フ、

若シ老母ノ身上ヲ顧慮シテ睡践セバ吾が子ニアラズ、仮令此身死ストモ皇威が

志ヲ得ザル間ハ之ヲ報知スルコト勿レ。ト児夫レ老母ノ遺言ヲ守レ。

敢テ或ハ愁傷シ、敢テ戌ハ驚愕スル勿レ。勇ナカジセバ天下何事モナラズ。』

 

葬儀はすでにすませた、いまはおまえにとって大事なときなので、

少尉に任官するまで帰郷してはならない、という内容だった。

 陸軍歩兵少尉に任官するとすぐ、福島はふるさと平塚村に帰郷した。

高崎駅から汽車に乗り、深谷駅で降りた。深谷駅では、

馬一頭が待ち受けていた。

父泰三が村内から借り受け、深谷駅まで曳かせてきてあったのである。

利根川べりでは、親戚のもの何人かが出迎えにきていた。

七年ぶりの帰郷だった。まずは墓前にぬかずいたのはいうまでもない。

 七年前、平塚村を出立してからは、母との約束通り士官に任官するまでは

帰郷することなく、刻苦勉励して今日、晴れて難関をくぐり得たが、

その母はもう亡い。さすがの福島も数日泣きあかしたという。

泰蔵はこのとき、二十七歳であった。

 七年も経てば、故郷の様子もかなり変っている。都会ならばともかく、

士族でもなく少尉にまでなった人物は、さすがにこの新田郡にも珍しく、

弟甚八に案内してもらい、福島は世話になった人たちの家を挨拶してまわった。

恩師渋沢高岸問のところでは、懐旧談に花を咲かせた。頭に白羽帽を冠り、

金装の軍礼服に身を固めた彼の姿をみて、近隣の女性たちは亡き母、

あさを想って涙したと伝えられている。

 

正に書きなぐり感情を露にして書いた、檄文であり泰蔵の心が、動揺している。

いくら五歳から漢学を学んだ、陸軍少尉とて人間である、しかし其れだからこそ

こんな時でもあっても、この様な表現が可能なのだ、

 

 

 

心情を露し

幾度となく読んでも、涙する私である。

 


高倉健と福島泰蔵の生き方、其の5

2013年04月25日 | 近世歴史と映画

 

陸軍士官学校に入学

 

福島が入学したときの陸軍士官学院は、将校生徒の養成副使が改正されたばかりであった。

これが明治二十年六月の大改正で、改正の主な点は、それまで士官生徒と呼んでいたのを

士官候補生と改めたこと、幼年生徒を陸軍士官学校から分離し、

独立の陸軍幼年学校を設けたことである。

また、士官生徒制度のおりの修業年限は、歩哨兵科二年(のち三年)、

砲工兵科三年(のち四年、さらに五年)だったが、士官候拙生制度では、

まず各隊に入隊させ、下士官としての体験を勤めさせた。

其上で、入学させ、修業年限は一年八か月と改められた。

 福島はこの改正が行われてすぐ、教導団で士宮沢拙生試験を受験したことになる。

 この士官候福生制度の第一期生は、明治二十一年十一月

(幼年学校出身者は翌年一月)に入学している。福島はこの制度の第二期生で、

明治二十二年十一月(幼年学校出身者は翌二十三年一月)に入学した。

同期生は十一月組一一四名、一月組五一名、計百六十五名であった。

 同期生で、のちの陸軍大将鈴木孝雄は、当時を回顧して次のように語っている。

「自分も、兄の鈴本員太郎も、千葉の関宿の士族であったが、士族であれば誰でも

陸士に入学できたわけではない。自分も、一度は、もっと身体を丈夫にしてから来いと、

いわれて、落とされたものだ。学問のほうでも、なまけ者では、合格できなかった。

 石鳥谷は秀才型の青年だったが、あの細っこい身体で、

よく体格ではねられなかったものだと、不思議に思ったものである。

とにかく負けん気の強い勉強家で、根気の強さでも定評があった。

成績は学科実科とも上位だったから、われわれも一応、福島君を目標にして頑張り合ったものだった」

 陸軍士官学校は東京市ケ谷の高台にあった。もとは尾州藩の屋敷だったところである。

同期生の回顧談でもわかるように、福島は士官候補生時代、

負けず嫌いの頑固者で通っていたようだ。

 負けず嫌い、頑固は福島の生来のもので、反骨精神も人一倍であった。

教導団に入団するため、

故郷をあとにするとき、母から、お前の負けず嫌い、頑囚者は治らないだろうが、

大言だけは吐かないように。全国からよりすぐりの秀才が集まるところだろうから、

なにごともまず実行し、実績をあげることだと、たしなめられた。そのとき福島は、

どのような秀才にも決して負けないと、胸を張って答え、

また大口をたたくと、母から重ねてたしなめられている。

 士官学校では旧士族の名門や名家、華族の子弟が、俊英を競い合っており、

その中で福島は百姓の出で教導団あがりにすぎなかった。入学したとき、

福島は二十四歳。

同級生のなかでも年長者で、学問の方でも、同期生より一歩も二歩も、

先んじていたようだ。彼はどのようなことにも、負けてなるものかと、

人一倍、努力を続けた。支給された生徒手帳に福昌彦象などと自署したも

のもある。

 

福島は陸軍士盲学校在学中の明治二十三年一月、陸軍歩兵一等軍特に進級し、

二十四年七月二十日、同士官学校を卒業した。入学したとき同期生は一六五名だったが、

卒業したときは、一四九名になっていた。 成績は同期生中、学科実科とも上位に

ランクされていたことは、同期生の話で、たしかなようだ。

特に戦術学では独特のひらめきをみせ、教官をしばしば驚かせたという。

しかし卒業式で総代の指名を受けなかったところをみると、

優等生はまだまだ大勢いたことになる。

 

 卒業式は、天皇陛下の臨御のもとに、厳粛に行われた。

 

卒業証書ヲ拝受スルニ今カ今カト待チュ待チタジ。既于ソテ楽隊ハ盛ンニ楽ヲ奏シ」

生徒ハ順序直シク天皇陛下ノ前二鞠躬シ、多年満身ノ苦学勤勉ノ結果トシテ此ノ栄誉

ナル卒業証書ヲ賜ハレジ。人ハ感泣セジ。君恩ノ同大ナルニ感泣セジ。人ハ泣拝合掌

セジ。龍顔閲尺、其ノ恐レ多キニ泣拝合掌セジ。(『小事実録』)

 

時の、正に帝国軍人として羽ばたこうとする者にとっては、

当然の心情だったといっていいだろう。ことに福島は、ひときわの激情家であった。

 この式典に、福島は父泰七と叔父田部井与惣治、そして東京在住の友人を招いた。

父や叔父と対面するのは、教導団に入団のため故郷をあとにして以来だから、

足かけ六年ぶりであった。

 


高倉健と福島泰蔵の生き方、其の4

2013年04月24日 | 近世歴史と映画

下士官から将校への道 

 

福島は酒保への出人りもひかえて、手当の大半を積立て、士官学校の人学にそなえてきた。

その積立金で招待したいと、手紙で宇田川に申し出たのである。

休暇をとり、東京を案内するとも申し添えてあった。

 ところが宇田川教官は、丁重な挨拶につづけて、そのようなことを考えるよりも、

親に送金するようにと返信をしてきた。福島はこの宇田川の手紙を、

筆写本にはさみ、その後長く永く保存している。

 

福島は明治二十一年九月、教育団を卒業、陸軍工兵二等軍曹に任官し、

仙台の工兵第二大隊付を命ぜられた。

 しかし彼は士官学校では、歩兵士官へのみちを希望し、歩兵科への転科を申し出た。

希望は適えられてその年の十一月、本官の工兵二等軍曹を免ぜられ、

士官候補生だけとなった。そして兵科だったものが、歩兵科に自分から望んで転科したため、

歩兵科を二等卒から体得しなおさせられることになり、高崎連隊(歩兵第十五連隊)の

第三中隊に転属した。陸軍軍人として戦闘第一線での活躍をのぞみ、

それには工兵科よりも歩兵科でなくては、と判断したためだろう。

 工兵科のままのほうが陸軍士官学校では苫労も少かっただろうに、

あえてまわり迫をしたところに、福島の面白さがある。こうと決めたからにはと、

ひたすら兵卒部屋で兵卒勤務に励む彼の姿が眼に映るようだ。

寄り道をしたような工兵科の経験も後年、大いに役立つことになる。

 高崎連隊で、福島が元の階級、陸軍歩兵二等軍曹に昇進したのは、翌年の夏、

明治二十二年八月である。そしてその年の秋十一月、晴れて陸軍士官学校に入学した。

 こうして、一平民の出にすぎない福島泰蔵は、

士族出身のものとようやく肩を並べることができた。

しかし肩を並べたようにみえながら、現実には薩長閥という巨大な壁に

大きくはばまれることになるのを、後年、いやというほど思い知らされるのである

 


高倉健と福島泰蔵の生き方、其の3

2013年04月22日 | 近世歴史と映画

 

下士官への道

 

 「福甚」から利根川の土手を東に進むと、徳川家康の先祖の発祥地といわれる徳川村がある。

徳川村を通り越したところに、対岸の埼玉県に渡ることのできる刀水橋があった。川の中洲までしか掛っていない、

木造の粗末な橋であった。中洲からは、小石を踏み踏み進み、更に一本橋をいくつか渡らないと、

向う岸に着くことはできなかった。

 福島は刀水橋の袂で、見送りの人たちに別れを告げた。

十二月一日、装いを新たにした千葉県国府台の教導団に入団した。こうして福島泰蔵は

、陸軍軍人の道を歩みはじめたのである。二十一歳であった。

 

教導団生徒としての生活で、福島は、生来の頑固一徹、負けず嫌い、

凝り性、徹底性、周到性、計画性といったものを、周辺の人々に強く印象づけている。

 ばしめから陸士受験の足がかりを得ることを目指していた福島は、学術、実科とも、大いに励んだ。

また、そのときにそなえて、毎月支給される手当の大半は積立て、不要な出費はいっさい避けた。

食事も官給品だけにし、酒保への出入りもひかえた。そして閑さえあれば、兵学の勉強に取組んだ。

 成果は、入団わずか八か月であらわれている。

明治二十年夏、教官会議の評定で、成績優秀の判定が下り、士官候補生願いの提出許可が出たのである。

 願書は八月一日づけで、身上書その他を添付のうえ、東京鎮台司令官子爵三好重臣あてに提出し、

受理された。一年生ながら、異例の士官候補生特別受験を許可されたのだった。

 士官候拙生試験は東京鎮台で、九月に入ってから行われた。

教導団からの内申書を基にした面接による人物テストと、学科試験があった。学科試験は、漢学一本槍だった。

出題は二問で、毛筆により、漢文片カナ混りでなんでも書くようにいわれた。泰蔵は

「弔古墳期」と「駿馬説」という題で、カナ混りなしの全文漢文の答案を提出した。

帰隊後、忘れぬように全文をあらためて記録したものが残っている。

    

 

 

福島は、抜群の成績をおさめ、難関を一気に突破した。このこと以来、

の漢学に対する造詣は注目をあつめた。

 福島はしかし、ただちに士官候補生に任命されたわけではない。

士官候補生試験には合格したが、士官候補生に任命されるのは、

教導団で規定どおり二年間学び、卒業して工兵軍曹に任官してから、と申し渡されたのである。

 せっかく入団してすぐ試験に合格していながら、翌年受験のものとかわりないことになる。

形式張った決定に、泰蔵は内心、悲憤皆慨をおぼえた。しかしそのような気持ちを表に現わさず、

勉学に徹するように努めた。士官学校入学にそなえ、兵学に対する造詣を、

いっそう深めておこうと考えたのである。こうした泰蔵の姿勢が、まわりのものには、

磊落(度量が広く、小事にこだわらないこと)な男と映ったようだ。泰蔵もまた、

いつか、己を磊落男子と意識するようになり、漢詩の中で、

「上毛之磊落男児福島泰蔵」などと称している。

 この年の大晦日、教導団に大量の酒肴の支給があった。

陸軍省が直轄学校に特別配給したもので、それまではなかったことだった。

日本酒の大樽に鱈、鰻、するめ、豚肉などがふるまわれた。

 各兵舎とも、その夜は消灯時問が延長され、忘年会で娠わった。

 教導団のある国府台に辿なる小高い山の上に弘法寺という寺があった。

大晦日の鯨飲馬食の忘年会のあと、福島は弘法寺に初詣でをし大声放吟したと漢詩に詠じている。

これまた、明治二十年という時代に生きた、当時の陸軍に籍をおく若者の、

今も変わらぬ、若者の姿であ った。

 


高倉健と福島泰蔵の生き方、其の2

2013年04月22日 | 近世歴史と映画

泰蔵 平民から軍人へ

 平塚村に、福島とは同じ年代の、田部井某という、「福甚」の親類筋に

あたる男がいた。

田部井は明治十七年、陸軍の教導団に入団し、軍人への道を

あゆみはじめていた。

 教導団は修業年限二年の、当時の陸軍の下士官養成機関である。

明治六年、兵学寮より独立し、陸軍省の直轄となった。兵舎は東京日比谷の

練兵場内にあった。そして明治十八年十二月、千葉県の国府台

(現在の市川市)に兵舎を新築し、移転した。

(なお教聊団は、明治三十三年に廃止されている)。

 田部井は帰郷のたびに教導団の話をして、福島に入団をすすめた。

当時、陸軍将校になろうとしても、陸軍士官学校の受験そのものが、

まず華族か士族でないとむずかしかった。しかし、教導団は、

平民でも応募することができた。そして成績優秀な者には士官候補生への

道も拓かれており、更に陸軍士官学校を受験することもできると、

田部井はいった。

 福島の心は動いた。福島は平民で、農家の長男である。陸軍士官学校を

直接受験することはむずかしいが、教導団に入団しさえすれば、

成績次第で陸軍士官学校を受験することもできるというところが魅力だった。

 福島は教導団に応募の手続きをとった。願書の提出にあたっては、

世良田村の戸長北爪権平に添状を書いてもらった。当時、

農家の長男だと、兵役免除で願書は受理されない制度だったからである。

兵科は工兵科を希望した。

 採用試験は、日比谷練兵場内の兵舎で行われた。漢文の試験と、面接、

そして身体検査があった。

 もちろん、合格である。

 入団のため福島は、明治十九年十一月末の夜半に、

平塚村の生家をあとにした。

赤城おろしが吹き、すでに寒かったが、木綿の単衣の筒袖に、

桐生製の兵児帯、

素足に突掛け草履という粗末な身仕度だった。俗にいう冷や飯草履である。

下着も、上下とも木綿ものだった。入団すれば官給の衣類があるからといって、

福島は身仕度のことなどには頓着しなかった。しかし母のあさは、

風邪をひかぬようにと、

シャツだけは二枚重ねて着させた。

そして母のあさは、士官になるまでは家の敷居を跨いではならぬと諭した。

母のいましめをまもり、福島は以来、七年も、家に帰っていない。

 


高倉健と福島泰蔵の生き方、其の1

2013年04月21日 | 近世歴史と映画

泰蔵の苦学期

 

 宇田川淮一という、地理学を担当する教官がいた。この宇田川教官の教えを

受けるようになったことが、福島泰蔵の人生に大きな転機をもたらすことになった。

 地理学には、海陸や山川、気候、生物などを研究する自然地理学と、

人口、都市、産業、交通、政治、文化などを研究対象とする人文地理学とがある。

後年の福島の自然科学者、探険家、冒険家としての一面から考えると、

もともとその素質のあったものが、宇田川教官の講義を受けることによって、

はじめて目覚めたとみていいのでなかろうか。

 しかし地理学の講義も、週にI回きりである。福島は満足できなかった。

一事に凝りはじめると徹底的にやりとおさずにはいられない気性が、あらわれ始めた。

 地理学の教授本六冊を全部、貸してもらいたいと、福島は宇田川教官に申し出た。

暗誦できるようになりたいというのだ。子どものころから、本は十遍読むより、一遍、

写すこと。そのほうが覚えられると教えられてきた。筆写して覚え、暗誦できるようにするつもりだと、

福島は正直に訴えた。宇田川教官は快く応じてくれた。こうして福島は、群馬県師範学校生徒、

交信会会員であるとともに、宇田川教官個人の門弟でもあるという立場で、

地理学に取組むことになったのである。

 就学期間は、一年間だった。あと三か月しか残っていない。

その間に、望みを果たさなければならなかった。週に一度、前橋に通っているようでは、

望みはかなえられそうにない。福島は前橋に下宿することにした。そして毎日、師範学校に登校し、

空いている教室を転々としながら、筆写をつづけ、暗誦につとめた。

 三か月は、またたく問にたった。地理学教授本六冊の筆写は、見事に完遂することができたが、

暗誦のほうは、三か月ではとても無理であった。

 福島は明治十九年三月、群馬県師範学校の卒業試験に合格し、

新田郡太田の第一高等小学校(のちの太田小学校)に赴任した。正教員ではない。

勤務は正教員とかわりがなかったが、前同様に授業生たった。

 月給は四円である。生まれてはじめてもらう月給で、うち二円は毎月、家に送金した。

乏しい家計を助けなくては、と考えたからである。残りの二円で生活しなければならなかった。

当時、安い木賃宿でも、一か月、一円五十銭や二円では泊めてくれない。

もし泊めてくれるところがあったとしても、高等小学校の教員ともあろうものが、

木賃宿に寝起きするわけにはいかなかった。

ときの校長は成田剛蔵だった。

 福島は校長官舎の二階に、なかば食客のかたちで、住み込むことになった。

官舎といっても、二階には障子もないような家だった。畳を敷いてあるだけである。

 まだ寒く、風が吹くと、雨戸を閉めなければならなかった。雨戸を閉めておいて、

戸板の隙間からはいってくる光で、読書をする。鼠のようだと、校長の家の下女に冷笑された。

 夜も、火の気すらなかった。寒気は骨身に徹せる寒さだった。我慢できなくなり、

読書をやめて寝ようとするが、冬用の夜具など持っていない。校長に借りるのも無念だった。

薄い寝衣で横になると、軽く、ぞくぞくと寒い。寝つかれなかった。思い余って部屋の隅に

立ててあった屏風を、寝衣の土からかぶった。そうすると、なんとなく寒さをしのげて、

朝までまどろむことができたのである。

ところが、屏風をかぶって寝ているところを、下女に見られてしまったのである。あわてたが、

風が烈しくて、屏風が倒れ、寝ているうえにかぶさってきたが、それも知らずに熟睡していた、

といいのがれたという。

 このころのことを、福島は『小事実碌』に、「余ノ最モ其ノ地位下落セシハ月給四円ノ助教師タリシ時。」と書いている。

 第一高等小学校の教員は、わずか半年で辞任した。当時の小学校教員は待遇がきわめて

低いうえ、世間から軽視される風潮もあったことにもよるが、それよりも、

軍人への道に進もうと決意したからである。