体源抄十に、前草は始はくゞつにて、後は遊女になりて、両方の事を知りてめでたかりけり。(以上は柳田君も松屋筆記により引用せらる)前草が云ひけるは、歌は第一の句を短く歌ひて吉なりとぞ云ひける。又云ふ、今様は本体は律なり。然而呂律倶に存也。
くゞつの様は呂音に歌ふなり。比巴法師の歌又呂音也。而傀儡の体にあらで、直ぐ歌ひながら、呂音に歌うがめでたきなり。
歌女駒(人名)が歌其様なり。
とある。すなわち歌をうたうに堪能な遊女であったのである。この頃にあっては松屋筆記に既に注意してある如く、
傀儡と遊女との間にはその別があって、両者間の歌の歌い方にも相違があり、遊女は今様を律の音に歌うが、
傀儡は呂の音に歌うという様な事であったと見える。かくて散木集の家綱の連歌の詞書は、
伏見に傀儡のシサムというものが来たので、遊女のサキクサに合せて歌を歌わせようと之を呼びに遣わしたところが、
前に居た宿にサキクサは居ないと云って来なかったので
と解すべきものであろう。かく解してこそその歌も、「うから(れ)めなるサキクサはうかれて宿も定めぬか、
傀儡まわしのシサムは廻り来て居る」の意に解いてよく通ずるのである。
「くぐつ」と「くぐつまわし」とはもと必ずしも同一とは思われぬが、これは歌詞の都合上から、「廻り来て居り」と言わんが為に、
ことさらに「くぐつまわし」と云ったのかもしれぬ。しかし「くぐつ」にしても「くぐつまわし」にしても、それをその頃において
「くぐつし」と云ったとは思われぬ。これは平安朝に傀儡子と書いたのを後に人形遣いのみのこととして傀儡師と書くようになっての
後の事であろう。したがって右の連歌の詞書は、「傀儡師なるサムカ」ではなくて、「傀儡なるシサムが」と見るべきものであろう。
果してしからば右の連歌は、まことに面白い発見ながら、未だ以て、平安朝当時からして既にサンカの語があったという証拠にも、
また傀儡を一にサンカと云ったらしい証拠にもならぬ様である。
続く