前回に、続き、したがって同書に所謂「三家者」を解して、
三家者藁履作、秤作、弦差也。抑坂者トハ亦云二皮※[#「广+(十+十)/日」、137-10]一。入レ京覆レ面也。是諺云燕丹也。燕丹ハ燕国王楚国王ニ被二追出一、来二此播磨国一云、我ヲ可レ為二此国王一。此国人笑テ突出。故食二牛馬一渡レ世。其末孫或云二伯楽一或云二連索一、(注略)或云二唐土一。世云二一。(下略)
と云っているのは、その当時の所伝として貴重なる文字だと言わねばならぬ。ここに燕丹とはエタの事である。この説は既に室町時代に行われたもので、蔭涼軒日録(長享二年八月十一日及び卅一日条)にもその事が見えている。燕丹のこともとより僻説取るに足らぬものではあるが、しかし右の袋中の記事によって、かつては藁履作りや秤作り、ないし弦差の輩をエタと云い、それをサンカともとも云っていた事が知られるのは面白い。
エタが皮作りの職人のみでなく、かつては浄人(塵袋)をも、(※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄)をも、青屋(三好記雍州府志)をも、エタの名を以て呼んでいた事は、「エタと」(三巻六号)の条下にも既に説き及んでおいた事である。すなわちもとはその語の及ぶ範囲が極めて広かったもので、徳川時代の法令に所謂エタは、ただその中の或る限られたる一部分に過ぎないのであった。そして戦国時代以来の実際に通暁している筈の袋中和尚は、そのエタすなわち所謂「燕丹」を以て、藁履作・秤作・弦差の徒となし、これすなわち三家者で、或いはともいうと説いているのである。しからばすなわちその当時にあっては、少くも京都では広くの通称として、サンカモノの語を用いていた事が察せられる。
袋中はさらにそのサンカモノの語を解して、坂ノ者の転音だと云っているのである。坂ノ者とはもと京都東山の五条坂あたりに居た一種の部族で、賀茂河原に居た川原者と相対して、しばしばその名が古書に見えているものであった。師守記貞治三年六月十四日条に、祇園の犬神人たる弦差と田楽法師との喧嘩の事を記して、
田楽与犬神人有二喧嘩事一。是田楽乗レ馬、通二犬神人中一之間、無礼之由問二答之一自レ馬打落云云。田楽人於二当座一被二殺害一、坂者被レ疵云云。以ノ外也。
とある。ここに坂者とは、明らかに上文の犬神人の事である。犬神人は五条坂に住んで、一方では祇園の神人であり、一方では毘沙門経読誦の声聞師であり、そしてその内職としては弦指に従事してつるめそと呼ばれ、後に或いは夙とも呼ばれた一種の賤者であった。師義記に、貞治四年祇園御霊会の神輿を舁いだとあるエタも、おそらくこの犬神人の事であったと解せられる。そして右の田楽殺害の事件はまた東寺執行日記にも見えて、「新座田楽幸夜叉、為二坂物一被二殺害一云云」とある。以て当時この犬神人に対して、サカノモノの語が普通に用いられたことを知るに足ろう。
坂の者と云い、川原者というは、共にその住居の有様から得た名で、けだし市街地または田園等に利用すべき平地に住むをえず、僅かに京都附近の空閑の荒地を求めて住みついた落伍者の謂であった。そして掃除・警固・遊芸その他の雑職に従事し、或いは日雇取を業としておったものであった。これらの徒は地方によって、或いは山の者・谷の者・野の者・島の者・堤下などとも呼ばれているが、いずれも皆同一理由から得た名と解せられる。その坂の者という名も、必ずしも京の五条坂の部族のみに限った訳ではない。蔭涼軒日録文正元年二月八日条には、有馬温泉場の坂の者の名も見え、大乗院寺社雑事記には応仁・文明頃の奈良符坂寄人の事を坂衆・坂座衆、或いは坂者などとも書いてある。
かく地方によって種々の名称があるにしても、結局は同情すべき社会の落伍者等が、都邑附近の空閑の地に住みついて、種々の賤業にその生活を求めたものであって、特に京都では坂の者・の名で知られ、それが通じてはエタとも、とも呼ばれていたものであったのである。そしてその称呼は時に彼此相通用し、その実をもしばしば坂の者と呼び、坂の者をも或いはと呼ぶ事にもなったらしい。しかるに後世では次第にその分業の色彩が濃厚となって、の名がその実河原住まいならぬ俳優のみの称呼となったが様に、坂の者の名がサンカモノと訛って、特に漂泊的賤者の名として用いられることになったのであろう。賤者の名称が同じ程度の他のものに移り行く事は、もと主鷹司の雑戸なる餌取の名が、エタと訛って浄人・等にも及び、はては死牛馬取扱業者にのみ限られる様になった例もある。その京都の坂の者の後裔はつるめその名を以てのみ呼ばれて、本来の坂の者の称を失い、かえってその転訛たるサンカモノの名が、別の意味において用いられる様になったのも、必ずしもあえて不思議とする程ではない。かくて近時に至っては、オゲ・ポンスケなど呼ばれた他の地方の漂泊民にまで、その名が広く普及しつつあるのである。
坂の者がサンカモノと訛ったとの袋中の説は、最も信用すべきものとしてこれを祖述するを憚らぬ。彼らの本来坂の住民たりしことが忘れらるるに及んでは、それが訛りの多い京都人によってサンカモノと転倒して呼ばるるに至ったものと思われる。かかることは上方地方に古今その例が多い。冷泉をレンゼイ(後にはさらにレイゼイと訛る)、定考をコウジョウ、称唯をイショウ、新たしいをアタラシイ、身体をカダラ、茶釜をチャマガ、寝転ぶをネロコブという類みなこれである。釣瓶をツブレ、蕪をカルバ、汐平をヒオシという地方のあるのもまた同じことで、古くは佐伯を「叫び」の訛だと解し、近くはモスリンをメリンスの転音なども、また同一のものである。かくてそのサカノモノがサンカモノと呼ばるるに至ったのは、極めて自然なる転音と言わねばならぬ。
これを要するに、サンカモノとは本来坂の者の義で、寛元二年の奈良坂文書(四巻一号四頁及び本号〔「民族と歴史」四巻三号〕一九頁)に見ゆる鎌倉時代の清水坂のの称であった。しかるにそれが室町時代には主として祇園の犬神人の名に呼ばれることになったのは、彼らが、もしくは彼らの一部が、南都末の清水寺から離れて北嶺末の祇園感神院の所属となり、犬神人として著名になった為であろう。かくて、それが一般賤者の上に及んで、京都では徳川時代の初期までも広くエタ・等の通称として用いられ、後にはその一部たる漂泊生活の最落伍者の称呼となったものと解せられるのである。なお次号掲ぐる奈良坂清水坂両所の悶著に関する研究を参考されたい。
原本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
2008(平成20)年1月30日初版発行
原本:「民族と歴史 第四巻第三号」
1920(大正9)年6月号 より引用
つづく