明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

考えられなくなったら一巻の終わり(22)日本は追い込まれつつある?(その1)

2023-08-23 18:48:17 | 今日の話題

1、日本語英語が通じないのはカタカナのせい?

日本と同じように英語を外国語としている韓国や中国では、日本ほど英語を苦にしている風には見えないのは何故だろう。日本での英語教育は明治の頃から教育の柱であり、小中高と12年間も学習しているにも関わらず殆どの人が「英語が喋れない」のが現状だ。これは何故なんだろう?。他の国で出来ることが日本では出来ないのだ。これは絶対何か「日本の英語教育」に原因があるに違いない。誰もがそう思っている筈である。なのに、そう言われ続けて早や30年が経ってしまった(オーマイガッ!)。

まあ英語教育の欠陥については真面目な話になるので別の機会に譲るとして、今回はカタカナの効用について書いてみたい。そもそも日本語には「ひらがな」という文字が存在している。漢字が中国語を文字にしたものであるならば、ひらがなは日本人が作った「日本語を記録するため」に作られた正式の文字である。例えば山を例に取れば中国語では「山」と言い、英語では「Mountain」と言って日本語では「やま」と書く。同じものを中国語・英語・日本語で「表現」が異なるのは、言語体系が違うからに他ならないのだ。では「カタカナ」で山を表現したらどうなるか?

私は余り知らなかったが、ネットで調べた所カタカナは最初は漢字を速く書くために簡略化された書き方として使われたと書いてある。つまり平安時代の頃からあったみたいなのだ。それが時代が下るにつれて主に学術用語や法律文書などお堅い文章に使われるようになり、ひらがなよりむしろ正式な書き方みたいな扱われ方としていた時代がずっと続いていたようである。使い方は出来た当初は色々あったと思うが、現在では「外国語を日本語風に書く」為に使われていると私は解釈している。つまり英語の固有名詞など、そもそも対応する日本語が存在していない言葉を文字で表すために「これは外国語ですよ~」と宣言してカタカナで書いているのである。例えばエレベーターなどは「昇降機」という言い方も出来るのだが、それでは伝わりにくいので直接英語の表現を「そのまま文章の中に取り入れ」て、カタカナ表記してのが現状だ。その方が分かりやすい。

その結果、生活が欧米化するにつれて「やたらと」カタカナの多い文章が氾濫することになったわけである。外国ではこのような「外国起源の言葉」はどう扱っているんだろうか。英語でも日本起源の単語が普通に話される時代である。カラオケや寿司などはもう、外国でもそのまま通用する「日本の文化」の象徴だ。但し、勿論の事だが「発音は日本のそれとは大いに異なる」のは当たり前である。

では日本では事情はどうかと言うと、これが少々厄介なのだ。正直に言うとカタカナで表される内容と実際に外国で使われている内容が「必ずしも一致しない」のである。どゆこと?

日本で使われているカタカナを「そのまま外国で使ったらトンデモナイことになる」というのは、今や世間の常識である。勿論言葉である以上は時代の移り変わりにつれてアップデートされるのはどこの国でもあり得る訳で、そのを同じように日本でも使い方を新しくしなくては「外国人とコミュニケートする時に困ってしまう」わけである。しかし問題はそんなテクニカルな話ではなく、もっと根本的な「カタカナは英語じゃ無い」問題である。

例えばコンピュータを指さして「電子計算機」とか言う人はいないであろう。コンピュータを日本語で表すのは無理なのだ。そもそも「日本に無かった」ものである。では鉄砲はどうなのか?。鉄砲も日本には無く外国から持ち込まれた「新しい発明品」である。で、当時の日本人は「それを鉄砲」と名付けた。勿論外国での呼び方は別にあったと思われる(何と言っていたかは私は知らない)。鉄砲だから「鉄製の砲」なわけで、じゃあ「砲」という言葉は既にあったのだろうか?、調べれば分かるだろうがめんどくさい。要するに、何だかんだ苦労して当時の日本人は「新語」を作ったのである。だから鉄砲は正確に言えば「原語のまま」呼ぶのが正しいと言える。

江戸末期から明治に至るまで、このように「造語」の連続であった。それは今も変わらない。だがそろそろ日本人も「外来語」をどう扱うかについて、考える時が来ていると思う。そもそも外来語という言葉自体が日本を外国と区別して「それぞれを別々の言語体系と考えている」証である。私が提案したいのはこの「垣根」を取り払おうと言うのだ。もう言葉で垣根を作る時代ではない。我々日本人も日本語同様に英語を自由に話せるようになるべきだし、そういう時代になりつつあると思う。つまり、アメリカ人と話す時は「英語で話そう」ということに尽きる。アメリカ人のしゃべる内容をカタカナを使って「日本人に合わせ」てヘンテコリンな和洋折衷の似非日本語を作り出すのでなく、アメリカの品物は「アメリカ人が普通に発音しているように」呼ぶことがコミュニケーションの基本になると思うのだ。勿論アメリカ人が「日本語で話す」場合も十分ありうる。お互いに相手の文化を尊重し、内容によって使い分けるのが一番いいのである。

何だか長くなったが結論として私が言いたいのは、カタカナは恐ろしく便利だが「その弊害が利点よりも大きすぎる」ことである。英語で普通に使われている言葉がカタカナを使うことによって、途端にそれは「不思議な日本語」になってしまうのだ。外国人には通用しない「コミュニケーションできない日本だけの言葉」になってしまうのである。例えばアイスコーヒーである。アメリカ人にアイスコーヒーと言っても「?」という反応が返ってくるだけなのだ。しゃべっている日本人は「当然、通じると思い込んでいる」のに、全然通じない!

で、私が提案するのは「カタカナを廃止」しよう、である。

カタカナを廃止していままでカタカナで書いていた言葉を全部「原語表記」に改めるのだ。これで真のコミュニケーションが生まれると私は信じている。例えばコンピュータと書く代わりに「Computer」と書くのである。勿論縦書きは出来ない。しかし縦書きそのものだってもう現代では使われていない書き方である。昔は日本語もアラビア語のように「右から左に」書いていた。時代は「横書きで左から右に」というのが当たり前になっているのだ。何より本家本元の「中国でさえ横書き」になっているのがその証拠である。時代は変わっていくものなのだ。

で、カタカナを廃止して日本語文章と英語文章を「ごちゃまぜ」に書くのがこれからはいいように思う。英語の方が正確に表現できると思えば「英語で話す」し、ここは日本語で言った方が「しっくりくる」と思えば日本語で表現する。今は違和感があるが、今に誰も気にしなくなるんじゃないだろうか。つまり、今流行りの「二刀流」である。

何れはこれがスタンダードになる日が必ず来る思う。所詮、純粋な日本語というようなものは既に無くなっているのではないだろうか。「美しい日本語」は「源氏物語」の時代に存在した昔の日本の姿に過ぎない。今の日本は全く別物であり、今の「日本に合った言語体系」に変える必要があると私は思う。そろそろ明治の人々が西洋の文明を目の当たりにして科学というものを理解・吸収しなければといった強迫観念に駆り立てられていた時代に別れを告げ、もっと「今の時代」にあった生き方を考えてもいいのではないでしょうか。

英語は勉強するものではなく、世界の人々と「コミュニケーション」するための道具であるべきだ。その改革の第一歩として、私はカタカナ廃止を提案する。



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