人が他人を偽善者と呼ぶ時には大きな事件につながる大事なこともあれば、ありふれた日常の些細な行動に至るまで、或る種の条件といったものが存在する。それは何か「良いこと」を人前でする・・・例えば卑近な例だが、優先席に座っている若い人がお年寄りを見つけて席を譲る・・・とかの行為をした場合、今の風潮ではその人を「偽善者」と呼ぶらしい。昭和の年代では席を譲らない人などはいなかったし、例え譲りたくなくても年上の先輩たちから「ひっぱたかれた」ものである。席を譲ることは当然だったし、譲らないなんてことは「人のすることではなかった」のだ。つまり「義務」だったのであり、「善意でもなんでもない」ことなのである。必然的に偽善者などという罵りとは無縁だったし、誰も譲ったことを気にする人などいなかった。それが現代では、優先席を老人に譲ったことが「善意の行動と称賛される」ことになり、時代が変わって評価も変わってしまったのである。
もうお気づきのことと思うが、この一つの事に対して、実は「三者三様」の心理が働いている。
a. 譲る人・・・あっ、老人が来た、席を譲らなくちゃ。でも恥ずかしいなぁ。席を譲ると、なんだか善意の人ぶっているみたいで、きまりが悪い。でも譲らないと頑固で偏屈な嫌な人に思われるし、対応に困るんだよな。仕方ないから席を譲ったら隣の車両に移ろう・・・。優先席に座ると無用な気使いをしなくちゃいけないから、一般席に座ったほうが気が楽だ。これからは優先席には座らないことにしよう。
b. 隣に座っていたひと・・・あっ、こいつ席を譲りやがった!。抜け駆けかよ!。なんか、すごく良い人ぶっちゃってるけど何なんだよ、もうー。見た目には普通のガキのくせに、なんかカッコつけちゃって、マジむかつく。いつもは大したことしないくせに「こういう時ばっか」良い人を気取りやがって、ホントは妬みや恨みで悪意の塊だったりするんだよな、この手の奴は。案外、こっそり犯罪なんか犯してるんとちゃうか?、まったくぅ・・・。どっちにしても、こういう偽善者は気に入らねぇな、マジ気に入らねぇぜ。
c. 譲られた人・・・あっ、この人、席を立っちゃった。私まだ、席を譲られるほどの老人じゃないのに、困ったわねぇ。折角譲ってくれるって言ってるんだから座らなきゃマズいけど、なんか皆んなから注目されて何となく嫌だわ。席なんか、譲ってくれなくてもよかったのに・・・もう、嫌ねぇ。
何かドラマ仕立てになってしまったが大筋はこんなものだろう。周りの関係ない人達は、この善意の行為を微笑ましく感じ、心のなかで温かい拍手を送っているかも知れないが、当事者にとって見れば「事態はもっとずっと複雑」である。言うならば、ここには人間の行動に対する「誤解」が大きく影響している、と私は考えた。
○先ず、状況判断。
この老人は席を譲って貰いたいわけではなかった。だから親切の「押しつけ」になっている。やはりここは「座りますか?」と聞くのが一番良い解決策である。座りたくなければ「いいえ、大丈夫です」と断れば問題ない。ところが相手の「親切」に対して本当は座りたいのに「いいえ、大丈夫です。」などと、相手を気遣っての遠慮したりする「無用のやせ我慢」は役に立たないどころか逆効果になると知るべし、だ。その、席を譲ろうという気持ちだけ有り難く頂戴いたします、などという「回りくどい思いやりのキャッチボール」は、現代では誰も理解しない過去の遺物そのものである(京都ではまだ相当残っているらしいが、奥ゆかしいを通り越してバカバカしい限りである)。ここは事務的・無感情に、座る座らないを「相手に正確に伝えること」が、一番正しい対応であろう。正確な状況判断があれば、次のするべき行動も明確になる理屈である。ということはすなわち、「偽善者と判断する」余地も、無くなる。
○次に、人間の判断について。
人は他人を「見かけで判断」する。というか、見かけしか「判断する材料がない」のだ。誰かが善意の行動をした場合、確かにそれを目撃した人は「良い人」と考えるだろう、あるいは「私には出来ないことだ」と称賛するかも知れない。しかしそれを苦々しく思っている人もまた、少なからずいるものである。「あいつはそんな人間じゃない」という、称賛される人間を妬む「やっかみ」の感情だ。人は一般的に、他人を「自分と同じようなもの」と考える傾向がある。これは平均的な人間というよりも、社会から抑圧・搾取されている(と感じている)下層の人間の方がより強いかも知れない。普通の人は称賛される人を見ると「凄い人だなぁ」と考えるが、それで自分を「つまらない人間」だと卑下する訳ではない。自分は平均だと思っているから、相手を凄い人と認められるわけだ。
だが下層の人間は称賛される人間を見ると「あんな風に人から称賛されたい」と思い、そう思うと同時に、「何かズルしなければ、称賛されるような人間になれる筈はない」と考える。この手の人間は、他人の心の中を「自分だったらこう思う」という心理で解釈する。人はみな同じ筈、という思い込みであり、もしくは願望でもあるが、それには気がつかないのだ。そこで「きっとズルしているに違いない」と結論づける。それが人を偽善者呼ばわりする感情の原因だ。つまり、何か証拠があるわけではない、そう「信じている」だけである。偽善者呼ばわりする人の大半は、自分の心が貧しいのだ。
ここにある問題は、彼らの感情の素が誤解に基づいていることである。人は一つの均質な考えで動いているのではない。人殺しをするような凶暴な人間が同時に、寒さに震える捨て猫を家に連れ帰るような優しさを持ち合わせていることが、往々にしてある。人間を一つの行動で「こんな人間だ」と決めつけるのは間違いだ。人間は、いろいろな感情に動かされて、その時その時に行動する「複雑でカオスな存在」である。異質な感情が併存している状態が「常態」なのだ。だから他人を評価するということよりも正確なのは、「行動(または考え)を個別に」評価し、その事実を積み重ねることが大事である。
よく言えることだが、子供の頃から一緒に遊んだ幼馴染は、一般的な人の評価と違って独特の関係性がある。積み重ねた事実が非常に多いから、結果的にそういう深い関係にみえるのだ。だから席を譲った人を評価する場合でも、あくまで「その行為について」評価するべきであるし、何かそれ以外の評価がある筈だというような「予見」に基づいて、「きっとこうに違いない」というような判断は、するべきではないだろう。大概はその判断は、間違っている。予見しないということはすなわち、「偽善者と判断する」余地も、無くなる。
○最後に、良いことをしたのに恥ずかしいと思うこと。
これは考え方の問題だ。例えば電車を降りる時にドアの前に大勢人が立っていたら降りられないだろう。また満員電車に乗る時も降りる人を先に降ろさなければ乗ることが出来ない。つまり、こういう行動は「人として当然」などではなくて、単に「合理性的思考の結果」なのである。だから降りる人のために道を開けても、「誰も偉いとか素晴らしい」とか考えない。当然だ。では、何故席を譲ることが「善意の行為」だ、と考えられるのか。それは席を譲る事を余りにも「親切心の発露」という、余りにも長い間「間違った教育・指導」が行われた結果だと私は見ている。つまり、お年寄りに優しくしてあげることは「その人が親切な人」だという「刷り込み効果」を生んでいる訳だ。結果、その親切な行為をする人は、本当に親切心で「はち切れんばかり」になっている人か、あるいは「親切な人と思われたい人」かの、どっちかである。この「親切に思われたい」という分類に一度入ってしまった人は、他人から見れば「偽善者」となってしまう訳だ。だから「善意の行為」と褒められると、「いいえ、私はそれ程の人間ではありません」と言い訳したくなり、また同時に「恥ずかしい」と思うわけである。
自分が思っているより他人の評価のほうが高くて、しかもその理由が「勘違いによる」と思っている時、称賛されてもどうにも居心地が悪く感じるものだ。また同じように大したことないと感じている隣の人にしてみれば、「そんなに褒めることかよ!」と毒づきたくもなってしまう。これは周りの人間が、その人の行為を「親切心の発露」と決めつけたことが原因である。または、当人が「周りの人間はきっと、親切心の発露と思っているんだろうな」と考える場合もある。いずれにしても「本人の気持ちと関係なく」親切心の発露と断じることが原因なのだ。つまり席を譲る行為は、「親切」なのだ、という「間違った認識」である。
これが間違いの「すべての原因」であることは、皆さん既に分かっていることと思う。「席を譲ることは親切である、親切は人の優しさの発露である、日本人は弱い人に優しい民族であるべきだ、だから皆んな積極的に親切をしよう・・・」と。こうして日本人の理想の形が出来上がってきた。だが席を譲るなんて、そんな大げさな問題では無いのである。要するに状況を見て合理的な行動は何か?、と考えた選択が「席を譲る」であった「だけ」の事なのだ。その行動と「親切心」は、全く無関係である。親切心と無関係だと分かれば、問題を「人間の評価と切り離して考えられる」訳だ。つまり、どう行動したら一番「労働コストが少なくて」、人類最大幸福が得られるか、という合理性の問題に還元される。ということはすなわち「偽善者と判断する」余地も、無くなる訳である。
本当の偽善者とは例えば国会で、国民受けする大盤振る舞いの政策をぶち上げた政治家が、裏で「こっそり」企業と結託して、裏取引して巨額の財をなした、というようなケースを言う。つまり、その善意の行為が、実は相手を含む人々への「詐欺行為」だった、という時に「偽善者」と言う訳だ。電車で席を譲ったぐらいでは、全然偽善者には「該当しない」のである。偽善者なんて言葉、軽々しく使えない重みのある言葉だと私は考えたい。
以上、偽善者についての考察を通して、現代の禍々しい風潮を批判してみた。現代人は他人の心の動きに「余りにも過剰反応している」のではないだろうか。〇〇ハラスメントなどというのが大流行の昨今であるが、些細なことに傷つきやすく敏感過ぎる精神はある意味、免疫力の過剰反応だとも言えそうだ。人間はもっと自然の中で、「本来の動物として」外界と戦いながら生きるべきなのかも知れない。
もうお気づきのことと思うが、この一つの事に対して、実は「三者三様」の心理が働いている。
a. 譲る人・・・あっ、老人が来た、席を譲らなくちゃ。でも恥ずかしいなぁ。席を譲ると、なんだか善意の人ぶっているみたいで、きまりが悪い。でも譲らないと頑固で偏屈な嫌な人に思われるし、対応に困るんだよな。仕方ないから席を譲ったら隣の車両に移ろう・・・。優先席に座ると無用な気使いをしなくちゃいけないから、一般席に座ったほうが気が楽だ。これからは優先席には座らないことにしよう。
b. 隣に座っていたひと・・・あっ、こいつ席を譲りやがった!。抜け駆けかよ!。なんか、すごく良い人ぶっちゃってるけど何なんだよ、もうー。見た目には普通のガキのくせに、なんかカッコつけちゃって、マジむかつく。いつもは大したことしないくせに「こういう時ばっか」良い人を気取りやがって、ホントは妬みや恨みで悪意の塊だったりするんだよな、この手の奴は。案外、こっそり犯罪なんか犯してるんとちゃうか?、まったくぅ・・・。どっちにしても、こういう偽善者は気に入らねぇな、マジ気に入らねぇぜ。
c. 譲られた人・・・あっ、この人、席を立っちゃった。私まだ、席を譲られるほどの老人じゃないのに、困ったわねぇ。折角譲ってくれるって言ってるんだから座らなきゃマズいけど、なんか皆んなから注目されて何となく嫌だわ。席なんか、譲ってくれなくてもよかったのに・・・もう、嫌ねぇ。
何かドラマ仕立てになってしまったが大筋はこんなものだろう。周りの関係ない人達は、この善意の行為を微笑ましく感じ、心のなかで温かい拍手を送っているかも知れないが、当事者にとって見れば「事態はもっとずっと複雑」である。言うならば、ここには人間の行動に対する「誤解」が大きく影響している、と私は考えた。
○先ず、状況判断。
この老人は席を譲って貰いたいわけではなかった。だから親切の「押しつけ」になっている。やはりここは「座りますか?」と聞くのが一番良い解決策である。座りたくなければ「いいえ、大丈夫です」と断れば問題ない。ところが相手の「親切」に対して本当は座りたいのに「いいえ、大丈夫です。」などと、相手を気遣っての遠慮したりする「無用のやせ我慢」は役に立たないどころか逆効果になると知るべし、だ。その、席を譲ろうという気持ちだけ有り難く頂戴いたします、などという「回りくどい思いやりのキャッチボール」は、現代では誰も理解しない過去の遺物そのものである(京都ではまだ相当残っているらしいが、奥ゆかしいを通り越してバカバカしい限りである)。ここは事務的・無感情に、座る座らないを「相手に正確に伝えること」が、一番正しい対応であろう。正確な状況判断があれば、次のするべき行動も明確になる理屈である。ということはすなわち、「偽善者と判断する」余地も、無くなる。
○次に、人間の判断について。
人は他人を「見かけで判断」する。というか、見かけしか「判断する材料がない」のだ。誰かが善意の行動をした場合、確かにそれを目撃した人は「良い人」と考えるだろう、あるいは「私には出来ないことだ」と称賛するかも知れない。しかしそれを苦々しく思っている人もまた、少なからずいるものである。「あいつはそんな人間じゃない」という、称賛される人間を妬む「やっかみ」の感情だ。人は一般的に、他人を「自分と同じようなもの」と考える傾向がある。これは平均的な人間というよりも、社会から抑圧・搾取されている(と感じている)下層の人間の方がより強いかも知れない。普通の人は称賛される人を見ると「凄い人だなぁ」と考えるが、それで自分を「つまらない人間」だと卑下する訳ではない。自分は平均だと思っているから、相手を凄い人と認められるわけだ。
だが下層の人間は称賛される人間を見ると「あんな風に人から称賛されたい」と思い、そう思うと同時に、「何かズルしなければ、称賛されるような人間になれる筈はない」と考える。この手の人間は、他人の心の中を「自分だったらこう思う」という心理で解釈する。人はみな同じ筈、という思い込みであり、もしくは願望でもあるが、それには気がつかないのだ。そこで「きっとズルしているに違いない」と結論づける。それが人を偽善者呼ばわりする感情の原因だ。つまり、何か証拠があるわけではない、そう「信じている」だけである。偽善者呼ばわりする人の大半は、自分の心が貧しいのだ。
ここにある問題は、彼らの感情の素が誤解に基づいていることである。人は一つの均質な考えで動いているのではない。人殺しをするような凶暴な人間が同時に、寒さに震える捨て猫を家に連れ帰るような優しさを持ち合わせていることが、往々にしてある。人間を一つの行動で「こんな人間だ」と決めつけるのは間違いだ。人間は、いろいろな感情に動かされて、その時その時に行動する「複雑でカオスな存在」である。異質な感情が併存している状態が「常態」なのだ。だから他人を評価するということよりも正確なのは、「行動(または考え)を個別に」評価し、その事実を積み重ねることが大事である。
よく言えることだが、子供の頃から一緒に遊んだ幼馴染は、一般的な人の評価と違って独特の関係性がある。積み重ねた事実が非常に多いから、結果的にそういう深い関係にみえるのだ。だから席を譲った人を評価する場合でも、あくまで「その行為について」評価するべきであるし、何かそれ以外の評価がある筈だというような「予見」に基づいて、「きっとこうに違いない」というような判断は、するべきではないだろう。大概はその判断は、間違っている。予見しないということはすなわち、「偽善者と判断する」余地も、無くなる。
○最後に、良いことをしたのに恥ずかしいと思うこと。
これは考え方の問題だ。例えば電車を降りる時にドアの前に大勢人が立っていたら降りられないだろう。また満員電車に乗る時も降りる人を先に降ろさなければ乗ることが出来ない。つまり、こういう行動は「人として当然」などではなくて、単に「合理性的思考の結果」なのである。だから降りる人のために道を開けても、「誰も偉いとか素晴らしい」とか考えない。当然だ。では、何故席を譲ることが「善意の行為」だ、と考えられるのか。それは席を譲る事を余りにも「親切心の発露」という、余りにも長い間「間違った教育・指導」が行われた結果だと私は見ている。つまり、お年寄りに優しくしてあげることは「その人が親切な人」だという「刷り込み効果」を生んでいる訳だ。結果、その親切な行為をする人は、本当に親切心で「はち切れんばかり」になっている人か、あるいは「親切な人と思われたい人」かの、どっちかである。この「親切に思われたい」という分類に一度入ってしまった人は、他人から見れば「偽善者」となってしまう訳だ。だから「善意の行為」と褒められると、「いいえ、私はそれ程の人間ではありません」と言い訳したくなり、また同時に「恥ずかしい」と思うわけである。
自分が思っているより他人の評価のほうが高くて、しかもその理由が「勘違いによる」と思っている時、称賛されてもどうにも居心地が悪く感じるものだ。また同じように大したことないと感じている隣の人にしてみれば、「そんなに褒めることかよ!」と毒づきたくもなってしまう。これは周りの人間が、その人の行為を「親切心の発露」と決めつけたことが原因である。または、当人が「周りの人間はきっと、親切心の発露と思っているんだろうな」と考える場合もある。いずれにしても「本人の気持ちと関係なく」親切心の発露と断じることが原因なのだ。つまり席を譲る行為は、「親切」なのだ、という「間違った認識」である。
これが間違いの「すべての原因」であることは、皆さん既に分かっていることと思う。「席を譲ることは親切である、親切は人の優しさの発露である、日本人は弱い人に優しい民族であるべきだ、だから皆んな積極的に親切をしよう・・・」と。こうして日本人の理想の形が出来上がってきた。だが席を譲るなんて、そんな大げさな問題では無いのである。要するに状況を見て合理的な行動は何か?、と考えた選択が「席を譲る」であった「だけ」の事なのだ。その行動と「親切心」は、全く無関係である。親切心と無関係だと分かれば、問題を「人間の評価と切り離して考えられる」訳だ。つまり、どう行動したら一番「労働コストが少なくて」、人類最大幸福が得られるか、という合理性の問題に還元される。ということはすなわち「偽善者と判断する」余地も、無くなる訳である。
本当の偽善者とは例えば国会で、国民受けする大盤振る舞いの政策をぶち上げた政治家が、裏で「こっそり」企業と結託して、裏取引して巨額の財をなした、というようなケースを言う。つまり、その善意の行為が、実は相手を含む人々への「詐欺行為」だった、という時に「偽善者」と言う訳だ。電車で席を譲ったぐらいでは、全然偽善者には「該当しない」のである。偽善者なんて言葉、軽々しく使えない重みのある言葉だと私は考えたい。
以上、偽善者についての考察を通して、現代の禍々しい風潮を批判してみた。現代人は他人の心の動きに「余りにも過剰反応している」のではないだろうか。〇〇ハラスメントなどというのが大流行の昨今であるが、些細なことに傷つきやすく敏感過ぎる精神はある意味、免疫力の過剰反応だとも言えそうだ。人間はもっと自然の中で、「本来の動物として」外界と戦いながら生きるべきなのかも知れない。
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