河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史35 昭和――春やん戦記④

2023年08月13日 | 歴史

昭和16年の7月5日に大阪城のそばにある歩兵第八連隊に入営をして、十日も経たんうちに、大阪港から上海に移動させられた。
そのときの日本軍は、国際都市の上海どころか南京も占領してイケイケの時あった。
当時は何の情報も知らされずに分からんままに行ったが、あとで調べたら、アメリカもイギリスも「黄色人種同士で戦っとけ」みたいな気持ちあったんやろなあ。
おまけに、ドイツがソ連と交戦したために、その年の四月に日ソ中立条約が結ばれて、中国は虫の息あった。
そやから、大工をしていたわしは、上海では銃を持ったことがなかった。
駐屯地の兵舎やら、日本からぎゅうさん移住して来た日本人街の建築やらに刈り出されて、そら、忙しい毎日あった。
せやけど、このまま日中戦争が終わってくれたらええのになあと思てた。

ところが、7月28日に日本軍が、フランス領の印度支那半島(ベトナム,ラオス,カンボジア)に進駐してしもた。
こうなるとアメリカもイギリスも黙ってられへんがな。8月に日本への石油輸出を全面禁止してしまいよった。
それでも日本軍は、南へ南へ資源を求めて進駐していったんや。
12月8日、真珠湾奇襲攻撃を聞いたのは、日本軍のマレー半島上陸の知らせと同時あった。

年が明けた昭和17年の二月の末に出動命令が出された。
それまで、情報というたらビルマ・タイを占領、ベトナム・カンボジアを占領というようなええ知らせばっかしあったから、どこへ行くのかわからんかった。
ただ、冬用の服は置いていくようにと言われたんで、南方であるのは確かやと思うた。
輸送船に揺られて一週間ほどたった3月6日に上陸命令が出された。
フィリピンの北にあるリンガエン湾という所あった。
フィリピンというたらアメリカの植民地や。アメリカ軍も必死やろ。
こらアカン。ここがわしの死に場所か。風に揺れる椰子の木を見なから思うた。

先に来ていた第65旅団の兵隊から聞いたんやが、1月に戦わずしてマニラを占領した。
米軍はマニラを捨ててバターン半島にこもりよった。
戦わずして半島のジャングルに逃げ込んだ軍隊みたいなもん、ものの数ではないやろう!。
そう判断した日本軍は軍備を大幅に減らして、第65旅団(約7000名)に攻略を任せたんや。
ところがや、バターン半島は大部分が山とジャングルや。おまけにまともな地図もないがな。
どっちが北か南かわからん中を突進していったそうや。
しばらくすると、標高1000mのナチブ山の頂上から猛烈な砲撃を受けた。
将兵は次々と戦死。攻撃を開始して二週間で約2000名が死傷したということあった。
それを聞いて、その補充部隊としてわしらが送られて来たんや! と思うた。
こらアカン! ますますアカン! 絶対にアカン!
⑤につづく
※『写真週報』 199号・203号 昭和16年12月17日号(国立候文翔館)

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