※「老いの小文④」からの続きです。
戦後すぐに建てられたかと思われる碍子(がいし=電気の絶縁線)むき出しの座敷に、厚手の布団を敷いてもらって備前国の旅寝の一夜目。ネコかイタチかの天井這いまわる音で一人寝の寂しさをまぎらわし、翌朝は各戸に引かれた防災無線のけたたましい音楽で嫌でも目を覚ます。
パジャマのまま外に出ると春霞(かすみ)が立ち込めている。夕べの酒宴の残りのコロッケとコーヒーという妙な組み合わせの朝食をとりつつ、旧友が言うには、霞ではなく霧で、こんな日は天気が良いのだと言う。その言葉通り、霧が引き出すと陽も長閑に顔を出す。
さて、今日こそは一宿一飯の恩義に報いる日と、ゴムの長靴ゴム手袋に身をかため、のこぎり鎌に草刈り鎌、備前小早川家の違い鎌、作州出身は宮本武蔵の二天一流の鎌使いで、ばったばったと草を抜く。
緑満ちたる雑草の中に咲く何やらゆかし紫の花は、昔懐かしき菫(すみれ)。かつては田んぼの畔や庭の片隅など、どこにでも咲いていた馴染み深い花なのだが、花の形はおぼろげにしか覚えていない。大工さんが直線を引くときに使う墨壺(=すみいれ)の形に似ているところからスミレという名がついたのだという。花は生のまま食べられるし、乾燥させて煎じると頭痛やのどの痛み、視力改善に効果がある。
春の野にすみれ摘みにと来(こ)しわれぞ 野をなつかしみ一夜寝にける /山部赤人(万葉集)
春の野に寝そべって、長閑な陽を浴びて菫の香を嗅いでみたいものだと思う。華麗に咲く桜とは正反対の清楚で可憐な野の花だ。
雑草と言う草はなし菫咲く
旅に出たからといっても、老友二人だけなので豪華な食事など要らない。昨日、スーパーで買った100円うどんの昼食。そっけないので、畑で採ってきたノラボウ菜の葉っぱを手でちぎって山のように盛る。これが備前の甘口の濃い出汁によく合う。
麺一本春菜の緑すする昼
天気のよい日は今日しかなかろうと午後からも草抜き。折々通う春風が涼しいほどの暖かさ。薄墨色の山々から春告鳥(うぐいす)の声がする。鳶(とんび)が頭の上をかすめ、ひとはばたきもせず空に上がってピーヒョロヒョロと笛を吹く。この山里は鳶が多い。大阪ではあまり見なくなった菫の花や鳶の鳴き声に郷愁を感じる。
ひと日を終えて旅寝の屋に帰ると、垣の薄紅色の木瓜(ボケ)の花が「ぼっけー、えらかったじゃろう」と迎えてくれた。
山里はなにもかもやさし木瓜の花
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