「ほんでどないなったんや?」
「死によった」
「なんでや?」
内地で半年ほど訓練した後に満州に派遣された。一年ほどした後の昭和6年(1931)9月18日に満州事変が起こったんや。
後に記録班あった戦友から聞いた話やが、奉天北大営の攻撃、紅頂山兵営の攻撃を戦い、12月15日の馬家要塞の戦闘に先乗り部隊の軽機関銃手として従軍した。
夕暮れ時、敵が攻撃をかけてきた。小高い丘から、しかも夕陽を背にしてるのを利用した奇襲攻撃や!
こっちは先乗り部隊の百数十名の兵で、五倍ほどの大敵を相手の戦いあったそうや。
兄貴は小隊長のところへ詰めより、
「ここは敵と四つに組んでは勝ち目はなし。左右に換わって敵の横腹を攻めるのが得策。その頃には後方部隊も到着し、三方から攻撃が可能です。それまで私が敵を食い止めます」
18歳のときの八朔相撲のお返しや! 小隊長は了解し、左右に部隊を退かせた。
塹壕(ざんごう=防御溝)に独り残った兄貴が大きな声で歌い出した。
♪勝てば極楽 負ければ地獄ヨー
とかく浮世は罪なとこ
負けちゃならぬと思えども
俺もやっぱり人の子か
流れ流れる浮雲に
行方定めぬ旅空で
遠い故郷偲ぶたび
熱い涙がついほろり
と言うて戻れる訳じゃなし
ここが我慢のしどころよ
どんと大地を踏み締めて
一押し二押し三に押し
押せば目も出るヨーホホイー
アー アアアアー
花も咲くヨー♪ (相撲甚句より)
歌いながら服を脱ぎ、腹に巻いてた晒(さらし)をとって木の棒にくくりつけた。
「篠ヶ峰関」と書かれた大坂相撲の時の幟(のぼり)あった。
その幟を立てると、満州の風を受けて威勢よくはためいた。
次にズボンを脱いで褌(ふんどし)一丁にになると、小銃を天に向かって一発、二発と撃った。が、反撃が無い。
満州の北はモンゴル相撲で有名なところ、日本の相撲に見とれているのかと合点して、
塹壕から外に出ると、どすこーい、どすこいと四股を踏み出した。
足先が頭より高くあがるような、そらみごとな四股あったそうや。
それでも攻撃がないので、手を大きく広げて柏手をうち、つつつつつつっとすり足で前に進み、雲竜型の土俵入りを始めた。
時間かせぎの土俵入りや。そら、ゆっくりゆっくりや。さぞかし力がこもっていたことやろ!
これが篠ヶ峰の最初で最後の土俵入りあった・・・。
その時・・・、バリバリと機関銃の銃声がして兄貴を撃ち抜いた・・・。
そのすぐ後や、突撃してくる敵兵に、後方部隊から大砲が次々と撃ち込まれた。左右からは先乗り部隊が銃声を浴びせた。
敵兵は壊滅。我が軍は戦死者一名の大勝利や・・・。
篠ヶ峰の最期の白星・・・、いや、大金星や!
ほんまに人情味のある優しい兄貴あった・・・。
⑥につづく
※写真は『満州事変写真帖』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
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