河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

滑稽勧進帳②

2022年09月23日 | 祭と河内にわか

【舞台転換】
 上手(右)より吉原大門、真ん中に関所の建物。
 弁慶が関所を通ろうとすると勘太が上手より出て止める。

勘太「節季に借金、お払いそうらえ」
弁慶「あいや我々は吉原へ女郎買いに参る者にて候。わけなくここをお通し下され」
勘太「近頃、養子の常公殿と鎌倉屋殿との間の勘定払いにつき、時貸(とがし)の催促〈富樫左衛門の洒落〉殿より一人も通すなとのご命令」
弁慶「それは鎌倉屋に借りのある者のこと」
勘太「たとえ借り無き者にもせよ、借りある者が姿を変えて通行するがため。今も今とて一人の男の衣類三枚はぎ取って候」
弁慶「そりゃ借りある者は苦しからねど、借り無き者の衣類はぎ取るはいかがなものか」
勘太「やあ?」
弁慶「返答いかに!」
勘太「さあ?」
弁慶「さあ! 返答いかに、いかーに[見得を切る]」
 奥から関守の富樫左衛門〈=富蔵〉の声。
富樫「無益の問答しばし、しばーし! この節季ゆえ、一人も通すことまかりならず候(そうろう)」
弁慶「節季ゆえに金を払えと?」
富樫「いかにも」
弁慶「是非に及ばず。家に帰って膝抱いて寝ることにいたさん」
富樫「あいや待たれよ。吉原へ女郎買いに参られたのならば、よもや金銭の所持をせぬということはございますまい」
弁慶「金銭は所持しておりませぬが、我に惚れたる女郎より、今宵は必ず来てくれとの手紙。これぞすなわち、肝心の状なり」
「なに、勧進状をお持ちとや。ならば勧進状を読みあげそうらえ」
弁慶「なに、勧進状を読めとかや?」
富樫「関守これにて承らん」
弁慶「心得て候!」
 歌♪勧進帳は無けれども、荷物の中より巻物取り出し、勧進状と名づけつつ、高らかにこそ読み上げる♪
弁慶「それそれ、辛いつらいと愛しそなたに逢えぬ身を、思い暮らせば、大事な客にも秋〈飽き〉がきて、心気くさく永き夜も語り明かすべき人もなし。あの日のそなたの一言が十言(とこと)と聞こえる嬉しさは、忘れられよか忘られぬ。女郎商売始めから、承知で惚れてこうなって、今では野暮な女房気取り、惚れた私にほれた主、まこと実意の尽くし合い。たとえ年期が延びようとも、私が勘定を自前して、揚がりますぞえ今晩は、きっときっとでござんすよ。百倍啓上うやまって申す」
 歌♪天も響けと読み上げたり♪

富樫「しからば問わんが、山伏、修験者の出で立ちにて女郎買いに参るいわれやいかに?」
弁慶「それ、山伏となって女郎買いに参る云われというは、山伏とは山に伏すと書く」
富樫「なるほど」
弁慶「山は遊女(おやま)の山にして、伏すとはすなわち寝ることなり。お山と寝るを山伏という。優しく強く抱きしめて、恋しきお山を成仏得脱させ、天下泰平国家安全の種をまく、これぞいわゆる愉快の親玉快楽の生粋(きっすい)なり」
富樫「しからば問わんが、仏徒の形でありながら、頭にいただく頭巾(ときん=布製の黒いずきん)はいかに?」
弁慶「可愛かわいの居続けに、二日酔いのハチマキの用意なり」
富樫「しからば問わんが、金剛杖にて五体をかためるいわれやいかに?」
弁慶「恋しきお山に登りつめ、うれし涙で傾城(けいせい)の蔵の屋根にも水が漏り、家も倒れんその時のこけぬ先のつっぱりの金剛杖なり」
富樫「腰に差したる太刀は人を殺さんためなるか?」
弁慶「これぞ案山子の弓に等しく、お前政宗、わしゃさび刀。お前切れてもチョイトチョイトわしゃ切れぬという色男の金看板なり」
富樫「かけたる袈裟(けさ)は?」
弁慶「今朝の別れの衣(きぬ)ぎぬに泪をはらう朝の鈴かけ」
富樫「八つ目の草鞋(わらじ)は?」
弁慶「浮世八方の女郎屋の借金を踏む〈全て払う〉の心なり」
富樫「しからば問わんが、世の諺に〈女郎の誠に卵の四角、あればみそかに月が出る〉と申すが、女郎が偽って客をだましたその時は、何をもって茶屋の払いをいたす?」
弁慶「その時は質屋に物を置いて払いをなす」
富樫「質とはいかなるものにそうろう?」
弁慶「はーあ?」
富樫「ことのついでにおたずね申す」
弁慶「さあさあ?」
富樫「さあさあ! いかに!」
弁慶「それ、質の年限は十月(とつき)で流れるものにて、まさに質屋に物を置くときは、己が着物を一包み、横町の質屋へ一走り、頭も下げず、手もつかず、借り受けたるその時は、雪に熱湯そそくがごとく、茶屋のお上の顔もほころび、げに、元本(がんぽん)の無明を斬るの大利剣(だいりけん)。莫耶が剣(ばくやが つるぎ)も、なんぞ、如かん(しかん)。まだこのうえお尋ねの事あらば、逐一お答え申すべし。あなかしこあなかしこ。大日本の神祇(じんぎ)、諸仏菩薩(しょぶつぼさつ)も照覧(しょうらん)あれ。百拝稽首(ひゃっぱい けいしゅ)、かしこみかしこみ、つつしんで申すと云々(うんぬん)」
 歌♪感心してぞ見えにける♪

富樫「感心しました。そんな粋なお女郎買いとはつゆ知らず、しばらくにても止めたるは我が誤り。お詫びに神酒を献じ申さん。それー」
 歌♪家来が運ぶ盃に銚子もそえて酒二升、おん前にこそ置きにけり♪
弁慶「女郎買の道すがら一杯とはかたじけない」
富樫「我は奥にて務めをなさん。いずれも御免」
 歌♪静しず立って歩ませける♪ (富樫入る)

義経「うまいこといたなー」
弁慶「あいや若旦那にはさぞかしご窮屈、いざまずあれえ」
 歌♪げにげに礼儀をわきまえた人の情けの盃受ける♪
 みなが家来と酒を飲む。
弁慶「ああ酔うた酔うた、おもしろの山水(やまみず=酒)に」
 歌♪おもしろや山水に盃浮かべては流れに引かれ、大門へこそ入らんとす♪
弁慶「さあ、行きましょう」
 ふすまの陰で話を聞いていた富樫が出てきて見得を切り
富樫「やれ待て。さては養子常公よのう」
義経「しもた、化けの皮はがれたか」
富樫「化けの皮はがれたと言うからは、最前読んだ勧進状は?」
弁慶「ありゃ山伏の法螺(ほら)吹いた」
義経「早く通ればよいものを、もう義経と思ったゆえ」
四天「えらいことを四天王しもうた」
弁慶「なれども今日の女郎買しんぼうべんけいん」
富樫「いやー、えらい節季(関)の守をさせられたわい」

※図は「勧進帳図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

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畑――はぼたん

2022年09月22日 | 菜園日誌

「はぼたん」だが「葉牡丹」ではない。漢字では「甘藍」と書く。
「葉牡丹」は江戸時代にオランダから長崎に持ち込まれた。
花の少ない冬に牡丹の花のように葉を広げるので葉牡丹と名づけられた。
今や正月には欠かせない園芸植物になっている。

一方、「甘藍」は明治元年にアメリカから日本に持ち込まれた。
野菜の少ない冬でも藍(あい=青=緑)を保って甘味があるので甘藍と名づけられた。
今や一年を通して最もよく食べられている野菜である。

この甘藍が葉牡丹と同じ品種であることを知った学者は、「甘藍」を「はぼたん」と訓読みした。
すると、園芸植物と食用野菜の二つの「はぼたん」が存在することになる。
そこで、二つの違いを明確にするために、野菜の甘藍を「玉菜(たまな)」「牡丹菜」と呼ぶようになる。

『ちしゃのぬた』にも書いたが、戦前の日本人は野菜を生で食べることはない。人糞を肥料(人肥)に使っていたからだ。
玉菜も湯がいて三杯酢で食べるか、漬物にするのが主だった。
東京銀座の老舗の煉瓦亭でも「豚のカツレツ(豚カツ)」の付け合わせには、ブイヨンで茹(ゆ)でたぶつ切りの玉菜が添えられていた。
ところが、明治37年の日露戟争開戦で従業員が徴兵されて人手不足になった。苦肉の策で、玉菜を苑でずに生のまま千切りにして出した。
これが大評判となった。玉菜は葉が結球するがゆえに、内側の葉には人肥かかかっていないので安全だった。
日本人が野菜を生で食べた最初である。
以後、この甘藍=玉菜を英語読みのキャベツというようになる。

というわけで、キャベツを植えた。
レタスとの交互植え。レタスは虫がつかない。
だから、キャベツの虫除けになる。
知らんけど。

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滑稽勧進帳①

2022年09月21日 | 祭と河内にわか

 曾我廼家五郎・十郎が人気を博すきっかけとなった喜劇『滑稽勧進帳問答」の台本を紹介する。
 歌舞伎の『勧進帳』のあらすじ①~⑥をそのまま利用している。
【あらすじ】
兄の源頼朝から謀反の疑いを掛けられて追われる身となった源義経一行は、山伏姿に変装して、東北へ落ち延びようとしていた。
石川県の安宅の関の関守・富樫左衛門は、関を通ろうとしていた義経一行を疑い、山伏なら持っているはずの勧進帳(東大寺再建の寄付を募った巻物)を読むように命じる。
弁慶はとっさに何も書いてない巻物を取り出し、勧進帳の内容が書かれているかのように朗々と読み上げた。
なおも疑う富樫は、山伏の心得や装束、いわれ、秘呪などを次々と問いただすが、弁慶はよどみなく答えて見せる。
富樫は怪しみながらも通行を許可し、お詫びにと酒を献じる。ほっとした一行は関を通過しようとする。
ところが富樫の部下が、「強力(ごうりき=荷物運びの人夫)」が義経に似ていることに気付き、それを聞いた富樫は一行を呼び止める。
弁慶は強力に化けている義経を、「お前のせいで疑われた」と怒りをあらわにして金剛杖で打ち据えた。
富樫は、主君である義経を叩いてまでも、あくまで強力だと言い張る弁慶の忠義の心にうたれ、改めて通過を許可する。

 セリフも歌舞伎のセリフを元にパロディーにしているので現代語に直した。ただし、わざと歌舞伎の難しいセリフを織り交ぜているところはそのままにした、
 弁慶を曾我廼家五郎、富樫佐久衛門(富蔵)を十郎の配役である。

〇江戸の遊郭吉原の背景
富蔵「これ、勘太やいるか」
勘太「ここに候(そうろう=ございます)」
富蔵「今日は、伊勢屋の養子の常(義経)公殿が、節季〈せっき=掛け売りの決算日、五・十日〉にもかかわらず、借金払わず、姿を替えて、吉原に来るという。鎌倉屋殿から金を払うまで、一人たりとも大門〈吉原の入口〉を通すなとの厳命や」
勘太「そんな厳命しても、馬の耳に念仏、豆腐に鎹(かすがい)、糠に釘」
富蔵「そりゃ伊呂波かるたや」
勘太「養子の常公姿を替えて、ままよ三度笠横ちょにかぶろうとも、必ず見つけてやろうやないかい」
富蔵「その心意気。明くれば褒美をつかわそう」
勘太「来年のこと言うたら鬼が笑う」
富蔵「鬼が笑ろては相ならん。厳しく張り番いたそうぞ」
勘太「地獄の沙汰も金次第。ほなら、急いで」
 下手に勘太入る。
富蔵「言い忘れた。やるまいぞ、やるまいぞ」
 上手に富蔵入る。

【補説】実際の歌舞伎にはこの場面はない。俄なので、歌舞伎『勧進帳』のパロディーであることを匂わすとともに、伊呂波かるたの文句で歌舞伎とは違う状況であることを説明している。
 最後の「やるまいぞ」は狂言のサゲに使う言葉。〈狂言=俄〉であることを示して、歌舞伎界からの批判をそらす当時の常套手段だったのだろう。

 歌(謡い)♪旅の衣は鈴かけの露けき袖や濡らしけん♪
 義経が登場。
 歌♪これやこの行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の山♪
 四天王(四人の家来)が登場
 歌♪波路はるかにゆく船も、海津が浦に着きにけり♪
 弁慶が登場
義経「いかに弁慶あるか?」
弁慶「おん前に候」
義経「今しがた素見(ひやかし)の言っていたことを聞いたか?」
弁慶「いえ、聞いておりませぬ」
義経「鎌倉屋が大門(吉原の入口)に節季と書いた札を立て、借金払わぬ者の女郎買いを堅く禁止したという」
弁慶「言語道断」
四天「通りましょうぞ」
弁慶「あいや方々、この節季一つ越したとて、晦日みそか(月末の節季)の有ることなれば、おいたわしくはございますが、若旦那には強力(ごうりき=荷物運び)の扮装にて笠を深くかぶり、我々からはるかに遅れてお越しくだされれば、なかなかとがむる者もないと、この弁慶存じ候」
義経「弁慶、よきにはからえ」
弁慶「オーケー」
 歌♪いざ通らんと旅衣、関のこなたに立ちかかる♪

〈つづく〉

※上図は「浮絵新吉原大門口」 国立文化財機構所蔵品統合検索システム
※下図は「勧進帳」 国立国会図書館デジタルコレクション

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俄――またしても転換期

2022年09月20日 | 祭と河内にわか

〇着物の両腕に大きな風呂敷を掛けて素袍を着ている体。頭に鉢巻きをして前に扇子を挟み、忠臣蔵の三段目、殿中の刃傷の場の趣向。師直の物真似で、
「判官殿、貴殿のような侍は」
 と言いながら、袖の中からお椀の蓋(ふた)を一枚、また一 枚また一枚と三枚出して、
「蓋だ、蓋だ、蓋三枚だ」 ※「鮒だ鮒だ、鮒侍だ」

 杜陵や淀川の批判をよそに、俄興行は人気を博し、大阪名物として全国に鳴り響いていく。
 江戸時代末の俄を記した書がいくつかあるのだが、活字に直されたもの(翻刻)がない。なんとか解読してやろうと思ったが、翻刻されている『古今俄選』でさえ、オチの意味がわからないものが2/3あるのでやめた。
 しかたなく、話は明治へと飛ぶ。

 明治に入り、大阪船場の御霊神社や座摩神社を中心に、大和屋宝楽、信濃家尾半、初春亭新玉、初春亭二玉(後の鶴家団九郎)、三玉(後の鶴家団十郎)らが俄を競い合っていた。明治11年(1879)には、中村雁治郎らも舞台に立った大阪弁天座で四本立ての合同公演が行われ、以後の十年間は大阪俄の最後の隆盛期であった。

 その一方で、文明開化の波が演劇界にも押し寄せてきた。東京に端を発した演劇改良運動が大阪にも波及してきたのだ。
 渋沢栄一、外山正一をはじめ、名だたる政治家、経済人、文学者らが演劇改良会を結成し、歌舞伎を標的にして、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにし、作り話をやめることなどが申し渡された。
 歌舞伎を拠り所としていた俄師たちはとまどった。歌舞伎が大きく変わりつつある一方で、歌舞伎と異なる現代劇の新派劇の登場が俄師たちにさらなる動揺を与えた。
 その結果生まれたのが明治20年以降の〈新聞(しんもん)〉と〈改良俄〉だ。
 〈新聞俄〉はその頃ようやく普及しだした新聞の記事を題材にした時事俄だった。主に京都で演じられ、そのほとんどが二人の演者の掛け合いによる〈軽口俄〉で漫才のはしりといえる。
 大阪では鶴家団十郎の〈改良俄〉が人気を博した。〈改良俄〉とはいえ歌舞伎の筋書きを一部を変えただけで、最後は歌舞伎のもじりをしてオチをつけるという旧態依然としたものだった。
 つまりは演劇改良運動の「改良」を拝借しただけのことだった。おまけに、当時人気の市川團十郎と座付き作家の鶴屋南北の名もパクッている。なんともしたたかである。
 とはいえ、団十郎一座の芸風は、より笑いを強調する吉本新喜劇風に近かったので人気を博し、明治二十七年には千日前の改良座で常打ち公演、三十年代に全盛期をむかえていた。

 明治36年(1903)、鶴屋団十郎の俄を見て感化された中村珊之助(さんのすけ)と中村時代という二人の歌舞伎役者がいた。
 団十郎のような笑いを中心にした新しい演劇を目指して、前後亭右、左と名乗り「新喜劇」の看板で一座を結成する。  
 伊丹で興行をするが一日でお払い箱となる。それもそのはず、役者経験があるのは二人だけで、後は俄好きの若旦那をおだてて集めた文字通りの「俄劇団」だった。
 ところが、細々と地方廻りをしていた二人に幸運が舞いこむ。
 翌明治37年2月、今しも日露戦争が始まろうとしているときで、悠長に芝居見物に来る者は誰もいない。道頓堀の大劇場、浪花座でさえ休場していた。
 その浪花座の席亭の高木徳兵衛に、興行師の豊島利一が「おもしろそうな劇団がある。閉めておくのはもったいないから、そいつらを使ってみてはどうや。給料はいらないと言ってるから」と話を持ち込んだ。
 渡りに船と高木は即座に了解。それが豊島から二人に報告された。
 檜舞台の浪花座と聞いて二人は天にも昇る心地で喜んだ。
 これを機に芸名を曾我廼家五郎(珊之助)、十郎(時代)と改名して。曾我廼家兄弟劇(後に松竹新喜劇へと発展)を旗揚げした。
 『滑稽勧進帳問答』という〈芝居俄〉仕立ての喜劇で、これを観た席亭の高木が「おもしろいがな。十日間やってみよか」とその場で決まった。
 その時上演された『滑稽勧進帳問答』の台本が残されている。当時の〈芝居俄〉の台本はこれしか残っていないので、次回からしばしの間紹介する。
 ※上図は「大阪名所絵葉書」(大阪市立図書館アーカイブ)
 ※下図は鶴屋団十郎の似顔絵

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俄――転換期

2022年09月18日 | 祭と河内にわか

 〈座敷俄〉は座敷でするので、「人に見せる」ことより、「自分たちで楽しむ」ことが中心で、夏祭り期間の素人の遊びには違いなかった。
 ところが、大勢でする芝居がかった〈座敷俄〉が大転換をもたらす。

 やがて、俄好き(数奇者たち)が「谷」と呼ばれる集団をつくり、神社や寺の境内に小屋を設けて興業をするようになったのだ。
 数日にわたる興業なので、決まった演目、しかもそれなりの長さを持ったものでなければならない。そこで歌舞伎、浄瑠璃の演目を縫い合わせて笑いにする〈縫い俄=俄芝居〉となる。
 俄は俄師によって興業化され、より華美になっていき、大阪俄が全国に広まるきっかけともなった。
 しかし、俄の本質が衰退していくことを嘆く者もあった。
 江戸時代末期の嘉永(1848~)に書かれた『古今二和歌集』で、作者の倉腕家淀川は次のように述べている。
 ――俄は一時即興(一回きりの即興芸)のものだ。新鮮さが良いのだ。再演などしてはならない。確かに、今の俄はウケているし上手である。しかし、昔は下手であったが、理屈に縛られず、愚かであるところに、なんとも言えない味わいがあることを美とした――。
 俄の興行化は、俄の本質である〈一回性〉だけでなく、神に奉る〈神事性〉、素人の楽しみである〈遊戯性〉を放棄することでもあった。

 『古今俄選』は、幕末に問題になっている歌舞伎・浄瑠璃の模倣=物真似について、すでに次のように述べていた。
 ――物真似、これもオチがなく、本芸のまねだけする。結果として、物真似自慢にすぎない。俄師は好まないものだ。風流はまったくない――。
 弘化五年(1850)の『風流俄選」の著者月亭正瀬は、
 ――私が考えるに、今昔の名人達の俄を見ていると、どんな役柄をしても、少し笑みを浮かべてセリフを言う。これでこそ俄の情深く、風流を離れず、実に滑稽である。にもかかわらず、俄が未熟な者は、侍は侍で通し、坊主は坊主らしき事ばかり言って、ボケルところがなく、四角四面ばかりだから、「はこや」と戒めたいものだ――。
 歌舞伎や狂言などの本芸を俄の中に持ち込み、衣装・かつら・仕草・セリフをそのまんま演じるのは、「箱屋」の写実芸でしかないというわけだ。
 大阪俄の中興の祖と呼ばれる村上杜陵(とりょう)は『風流俄天狗』でこう述べている。
 ――俄の姿は楽焼(手でこねて作った素朴な焼き物。千利休が愛用した)のごとくで、演じる役柄の気持ちをよく理解し、医者の役ならすべて医者らしいのがよいのだが、この医者が高師直(歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』に出てくる吉良上野介にあたる役柄)となる趣向なら、歌舞伎言葉は迫真の師直となり、その合間合間にボケたことを言う。ボケとはとぼけるの略語で、これこそが俄の最も大事なことだ。よって、その役に医者の気持ち、師直の気持ち、俄を演じる者の気持ち、姿、言葉を、三つに分かつを極意とする――。

 俄の興行をする俄師とそれを批判する者との間に議論がなされるのだが、村上杜陵が中に入っておさまった。
 かくして、一般庶民の〈流し俄〉・旦那衆の〈座敷俄〉・プロ集団による〈縫い俄〉の三つが互いに影響を受けつつ演じられていくことになる。

※上図は『風流俄天狗』より (早稲田大学図書館古典籍総合データベース) 

※下図「大阪芝居絵」より (大阪市立図書館アーカイブ)

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