再び大阪俄に話をもどそう。
享保末(1730年頃)に起こった大阪俄は大阪市中に広まり大流行となる。
とはいえ、一年中やっていたわけではなく、六月、七月の夏祭の期間中だけである。
夏祭は天災や疫病を引き起こす神をなだめることを目的としている。
したがって、俄には笑いで神を慰め、心安らかにしてもらうという大義名分があった。
「俄じゃ、俄じゃ」とことわるだけで、多少はめをはずしても誰も文句はなく、お上も大目に見てくれた。
現代でも、全国各地の俄が祭りの中の一つの出し物であるのはそのためだ。
この〈神事性〉が俄の本質の一つである。
〇ある年、どうしたことか、六月の祭りがはなはだ寂しく、遊里では軒に吊るすはずの提灯もなく、行き交う客もまばらなことがあった。
俄をする者もなかった中で、痩せ細った背の低い男が、金襴の直垂(ひたたれ)に金の冠をかぶった大友真鳥(おおとものまとり※)の趣向で、その他大勢を連れて出てきた。
いかにも勢いがなく、ひもじそうな声で
真鳥「やいやい、家来ども、この我をなんとかして殺そうとしている奴らがいる。お前たちはそこらを探してくれ、我はこっちを探す」
そう言って、気難しい顔をして、ふらふらとそこかしこを探っている。
そこへ、蓑・傘を着て槍を逆手に持った敵の高村兼道が現れ、大きな声で、
兼道「いやーぁ、今年の真鳥は、さみしい真鳥じゃ」
※浄瑠璃『大内裏大友真鳥』=九州探題大友真鳥の謀反を高村正道・兼道父子が討伐する物語。豪胆な兼道と謀反人ながら大人物として描かれた真鳥とのやりとりが見もの。
かくして大阪俄は、難波八坂神社の祭り(六月)をかわきりに、御津八幡宮の祭り(七月)を経て、住吉大社の祭り(七月末)までの大阪の夏祭りの風物詩となり、元文から寛保、延享、寛延と続いていく。
※図は『大阪百景・天神祭り』(大阪市立図書館アーカイブより)