引退した米政府の元情報担当高官や元外交官によると、米中央情報局(CIA)は1950~1960年代に、自民党とその党幹部に数百万ドルにも上る資金援助を行った。
これは日本に関する情報収集と共に、日本を共産主義に対するアジアの防波堤にし、日本の左翼陣営を妨害することが狙いだった。
歴史家やジャーナリストは、これまで長い間、CIAが日本の政界へ資金援助していると見なしてきたが、自民党はそれを事実無根であると否定し続けてきたし、その支援の規模や内容も決して公開されることはなかった。
この秘密援助が暴露されれば、日本の国益の代弁者である自民党の信用に傷がつくため、同盟国間のスパイ活動について取り上げることは常に慎重を要した。
マサチューセッツ大学の日本に関する権威、ジョン・ドワー教授は次のように語っている。
「この話は、米国人が戦後日本の汚職や一党独裁の民主主義にどれだけ大きな役割を果たしてきたかを初めて明らかにするものである。米国は自民党を見て、その腐敗と一党政治の民主主義を嘆くが、その歪んだ構造の形成を助けたのは我が国である」
米国では法律で、30年経過後に政府の記録が機密解除されることになっている。
それによって、CIAと自民党の関係が断片的にではあるが暴露された。
国立公文書館に収められた国務省文書によると、佐藤栄作元首相が、東京のホテルで、1958年の選挙資金援助を米国に要請したと記されている。
新しく機密解除になったCIAの記録も、その年の秘密援助について触れている。
完全な真相はまだ隠されたままであるが、生存する関係者へのインタビューから、まだ機密扱いの国務省文書の内容を引き出し、1960年代初めにケネディ政権が自民党へ秘密援助するまでの全容が浮き彫りにされた。
◎対日外交の基本部分
1955~58年に、CIAの極東活動の責任者であったアルフレッド・ウルマー2世は、「我々は自民党に資金供与していた。自民党からの情報に依存していたからだ」と語り、自民党を支援するとともに、同党内の情報提供者を雇うために資金援助策を利用していたことを明らかにした。
ケネディ政権当時、国務次官補を務めたロジャー・ヒルズマン氏によれば、自民党と党政治家への資金提供は1960年代初めまでにはかなり定着し日常化していたため、極秘ではあったかもしれないが、対日外交政策の基本部分となっていたという。
1966~69年の駐日大使アレクシス・ジョンソン氏は、「資金援助の方針は私にも納得できた。米国側に立つ政党に資金援助した」と語り、彼が日本を離れた1969年以降も資金援助は続いていたことを明らかにした。
CIAは自民党を支援する一方で、将来有望な多くの官僚との関係を築いた。
その一部は今日の政界実力者となっており、後藤田正晴元副総理・法相もその1人だ。
1950~60年代には警察官僚のトップクラスだった後藤田氏は、インタビューに答え「私はCIAと深い関係があった。彼らの本部にも行ったが、政府機関の中で資金援助を受けた者などいない。合法的な立場で大使館にいるCIAは問題なかった。しかし、秘密工作を行っている人間もいたようで、彼らが何を行っていたかは知らなかった。友好国の人間だったので深く調査はしなかった」と語った。
◎スパイをリクルート
CIAは自民党を支援する一方で、社会党がソ連から秘密資金援助を受けていたと見なして社会党内にも浸透し、若手グループ、学生や労働団体にスパイを送り込んだと元CIA担当官らは述べている。
ある担当官は「日本の野党勢力を妨害することが、我々の最も重要な任務だった」と語った。
CIAによる秘密資金援助は''70年代初めに終わった模様で、それは日米貿易摩擦の拡大に伴う両国間の緊張と時を同じくする。
日本の経済力も強化されたことから資金援助する意義が問われた。
その後CIAは、それまでの長期的な関係を利用して、本来のスパイ活動を日本で確立した。
1970年代後期から1980年代初期まで東京にいたCIAの担当官は次のように語っている。
「我々はあらゆる省庁に協力者を得ていた。首相の側近をリクルートしたほか、農水省に対しては、日米貿易協議の日本側の出方が事前にわかるほど通じていた。牛肉、オレンジの市場開放の交渉では、日本側の最終案、そしてどこで交渉を打ち切ることにしているかまで承知していた」
◎米国の逆行政策
CIAの自民党への支援は、歴史家のいう第ニ次世界大戦後の米国の対日外交の“逆行”に端を発している。
1945~48年には、占領軍は日本を戦争へと駆り立てた右翼の活動家を追放したが、1949年までに事態が急変した。
中国の共産化、ソ連の原爆の打ち上げ成功などにより、米国は右翼の追放よりも、共産主義との闘いに忙しくなった。
米国占領軍は、その後日本の首相になった岸信介氏を含む戦犯グループを釈放した。
その中で政界に戻った者の中には、ヤクザや暴力団と関係があった者もいた。
児玉誉士夫氏もその1人で、政界の黒幕として知られ、後にCIAの手先として保守勢力に影で資金を流した。
これらの政治家は、引退した外交官、ビジネスマン、CIAの前身のOSS(戦略事務局)の退役者からなるグループから支援を受けた。
このグループのリーダー、ユジェーヌ・ドーマン氏は、国務省を1945年に辞めて、日本で逆行政策を促進した人物である。
朝鮮戦争中、ドーマン・グループは、CIAの資金を使って大胆な秘密工作を行った。
当時日本の保守勢力は資金を必要としており、米軍はミサイル増強に使う希金属のタングステンが必要だった。
「誰かが一石二鳥の名案を思いついた」と、この取引のアレンジを助けたジョン・ハーレー氏は語ったが、これにCIAが絡んでいたことは知らなかったという。
ドーマン・グループは、旧日本軍の退蔵したタングステンを米国へ密輸し、国務省に1,000万ドルで売却した。
密輸者の中には、児玉氏や、第二次世界大戦中にカリフォルニアの捕虜収容所でOSSがリクルートしたスガワラ・ケイ氏が含まれる。
スガワラ氏に関する調査ファイルには、この工作について詳しく書き記されている。
CIAはタングステンの密輸工作に280万ドルを提供したが、この工作の結果ドーマン・グループには200万ドルの利益が残った。
ハーレー氏は、「ドーマン・グループは、1953年の占領下での最初の選挙で、保守勢力の選挙運動にこの収益を注ぎ込んだ。目的を達成するには、正しい人へ正しい金を渡すべきだという教訓はOSS時代に学んでいた」と語った。
1953年に米国の占領は終了し、逆行もうまく進行すると、CIAは対立する保守派閥と協力し始めた。
そして1955年には、その派閥が合併し、自由民主党が設立されたのである。
◎資金の要請は目新しいことではない
1958年7月29日の日付で、当時のマッカーサー米駐日大使(マッカーサー元帥の甥)が国務省に書簡を送っている。
それによると、佐藤栄作大蔵大臣が米国大使館に資金援助を求めてきたとある。
マッカーサー駐日大使にとって、岸内閣からのこのような要求は目新しいことではないとし、「岸首相の弟である佐藤氏は、共産主義と闘うための資金援助だといって、金をせびった。この申し出は驚くべきことではなかった。というのは昨年も同様の打診があったからだ」と書いている。
添付のメモによれば、自民党支援の企業献金が枯渇してきたために、佐藤氏は窮地に立たされていた。
最近機密解除されたCIAの文書や元CIAの情報担当官によれば、ホワイトハウスの国家安全保障担当首脳が1958年の選挙資金供与を協議し、それが認可されたとしているが、それが佐藤氏の要求を直接認めたものかどうかは明らかではない。
マッカーサー氏はインタビューに、「日本の社会主義者は当時、モスクワから秘密資金を得ていた。社会党はモスクワの直接の衛星であり、日本が共産化すれば、他のアジア諸国がそれに追随しかねなかった。米国の力を反映できるのはアジアでは日本しかなかったことから日本の重要性は極めて高かった」と語っている。
["C.I.A. Spent Millions to Support Japanese Right in 50''s and 60''s" New York Times, 10/9/1994より抜粋翻訳]ow14
6/8/21