八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆☆〝弱水三千,只取一瓢饮〟☆☆

2023-04-13 16:27:35 | 〝哲学〟茶論
 〝弱水三千、只取一瓢饮〟
 
 数日前のことですが、東京のダウンタウンといってもいい大森の映画館で、久しぶりに中国映画を観る機会がありました。

 映画の中国タイトルは『隠入塵烟』(英語だとReturn to Dust)となっていますが、日本語のタイトルは、『小さき麦の花』。

 主人公であるヨウティエ(有鉄)が伴侶であるクイイン(貴英)の手の甲に麦の種を押し当ててつくる花の形から、たどりついいた邦題だそうです(この映画の翻訳はなかなかすばらしい)。

 映画の舞台は、中国西北地方の貧しい田舎のことです。
 そこに両親はすでに他界し、三男の兄の家の作男として養われている四男の有鉄(ヨウティエ)と、そして内気で身体に障害をもつ貴英(クイイン)が、夫婦になるところから話ははじまります。
 ふたりはともに家族からしてみれば、結婚して家から出て行ってくれればいい、と思われていた厄介者でした。
 ふたりにとって、この結婚はけっして望んでのことではなく、厄介者だった有鉄と貴英は、自分たちの立場をはばかって、周囲のすすめるまま、これにしたがっただけのことでした。
 しかし、ふたりは生活のため、土地を耕し麦を植え、もらってきた鶏の有精卵からひよこを孵化させて、すこしばかり大食らいではあるものの、よく働く一頭の驢馬とともに、寄り添うようにしてともに暮らしていきます。
 映画のなかで、煌々と光を照らす裸電球の熱を逃がすため、段ボールに穴をあけ、そのなかでひよこが殻を破り生まれてくる。それを有鉄と貴英が光に顔を照らされながら、のぞき込む。一種、宗教的とも言えるその幻想的なシーンは、美しいとともに、わたしも子どものころ北国の田舎で、見たことのある光景でもありました。
 こんなふうにひよこが孵るのを見た記憶・・・。 

 そして、その冬、春、夏、秋・・・。厳しいながら美しい風土のなかで、ひっそりとふたりの時が刻まれていく。とりたてておおきな事件が起きるわけではない、ささやかで淡々とした暮らしがつづいていくのです。
 おこったことと言えば、有鉄が特異な血液型であったことで、この地方のボスに毎度輸血を余儀なくされること。
 政府の方針で、近代的なアパートに農民を住まわせるため、それまでの土壁の粗末な家を撤去すれば、報奨金がでるということになり、都市に住む家持ちのボスがやって来て、有鉄らに家を出て行くことを余儀なくすること。
 そのため、ふたりは新しい家を建てるため、忙しい労働の合間を見て、日中せっせと日干し煉瓦をつくっていました。
 ところが、そんなさなか夜中にわかに暴風雨が襲ってきて、ふたりは必死になって干し煉瓦を守ろうとしますが、泥濘に足を取られ、それでなくても貴英は足の自由がきかない、ふたりは激しい雨風にびしょ濡れになりながら、いつしか朝を迎える。
 そうした日常を、あるいは困難のなか、ふたりは手を携えて、そして互いにその手を慈しみあいながら、せいいっぱい生きていく。
 映画では、愛などという言葉はどこにも語られていません。
 でも、スクリーンに滲むようにその情感がしみだしてくる。それがふたりを取り囲む大陸の素朴な風景のなかで、うつくしい詩情となって画面いっぱいに描きだされていきます。
 中国映画にはまだ底力がある。どんなに世の矛盾を突き、社会派であることを打ちだそうとしても、日本の映画はどこかで作りものじみたチャラい感じがします。世のなかのありように正面から杭を打とうとはしない。
 その意味で、『小さき麦の花』は、さまざま、そんなことを感じさせる良質な映画でした。

 監督はリー・ルイジュン(李睿珺)。この映画を撮ったときは39歳だったようで、じつに若い監督だといえます。
 映画の舞台とされたのは、監督自身の古郷・甘粛省張掖(チャンイエ)市花牆子(ホアチャンツ)で、彼は17歳までこの村に住んでいたそうです。
 映画がクランクインしたのは2022年だったそうですが、映画のなかで、政府の進める近代的な高層アパートへの転居を良しとすることに、土地を離れ、家で鶏や豚を飼えないのは農民ではないと有鉄はつぶやきます。
 それは政府権力の農村近代化政策の矛盾をはしなくつくことになったのでしょう。そのためか、中国政府は、この作品の中国国内での上映をほとんど禁止したとされています。

 ちなみに花牆子の地は、はるか北方にある祁連(チーリェン)山脈に源をもつ中国第二の内陸河川である弱川の流域にあり、弱川がつくる湿地がそこここに点在する土地でなんだそうです。
 そこでは弱川によってもたらされる、キメの細やかな泥質土を干し煉瓦にして家を建てることが、昔からされているそうですが、泥質土には草花の種子が多く混じっているんだそうです。
 そのため家を建てると春ともなると屋根や家のそこここにいっせいに花が咲きだし、じつに華やかな景色がつくりだされる。そこで花牆子(ホアチャンツ)の地名が生まれたということです。

 素朴で、まさに美しい詩情が滲み出てくる映画。
 久しくこのような映画を見ることはありませんでした。映画が終わり、しばらくの間、映画館の座席から立ち上がるのが惜しいような、せいぜい40席にも満たない狭い映画館でしたが、映画が終わってしばらく、そこにいた観客のだれもが容易に席を立つ気配がありませんでした。

 監督のリー・ルイジュンは、インタビューに答えて、自らが生まれ育った土地に流れる弱川について、中国で伝わる一片の漢詩をあげています。
 それがこの冒頭に書かれた漢詩です。
 意味は、弱川(弱水)は三千にもわたる長い川ではあるが、喉の渇きを癒やすには一杯の水だけ掬えばいい、ということです。
 しかし、この漢詩にはもう一つの意味があって、世の中には美しい人やきれいな人は数多くいるかもしれない。でも、わたしにはあなたがいてさえすれば、それで満ち足りるし、それでいい、という意として使われるんだそうです。深い情愛の意が込められているわけです。

 中国の成金的な象徴であるBMWに乗るボスの跡取り息子。そのBMWに対峙するように、どこからともなくやってきて、ブルブルと嘶きながら草を食み、どんな重労働にも耐える驢馬。
 華美とは無縁な暮らし。地道に律儀に、それでいて満ち足りた労働と暮らし。収穫された大きなトウモロコシと馬鈴薯。そして、ひとびとのお腹を満たす麦をこねて蒸かした素朴な饅頭。
 そのひとつひとつが、なにかしらわたしたちの心に痛みと心地いい哀しみをもたらしてくれる。そんな時間がそこにはありました。

 ただし、この映画は東京ではたった二ヶ所の映画館(シネスイッチ銀座は明日4月16日10時上映まで)で上映されただけで、キネカ大森の上映は昨日、金曜日で終了してしまいました。じつに惜しまれます。
 とは言いつつ、つくづくやはり映画は、劇場で観た方がいいな。そんな余韻が映画を観て数日もたっているいまもまだ続いています。
 ほんとうに観てよかった映画でした。

 ところで今回は、この4月23日からの講座の宣伝をしようと思ってblogを書き出したのですが、けっきょく、ぜんぶ映画『小さき麦の花』の話になってしまいました。
 しかたないので、下に講座のflyerだけ貼っておきます。

 今回お話しする「学び」=教育のテーマは、わたしにとって、教師として45年以上にわたるありようの集大成になるテーマだと思っています。そうした個人の事情はともかく、ぜひ講座にご参加ください。
 ひとりでも多くの方々のご参加をこころからお待ちしております。
 申し込みはnpo.shinjinkai1989@gmail.comまで
 メールで、できれば4月20日までお願いします。


 
  
 
 
 


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