今年はトルストイ没後100年、だそうですね~。
言わずと知れた文豪ですが、ワタクシほとんど読んだことがない・・・「イワンのばか」「人はなんで生きるか」 くらいか。
非暴力主義者で伯爵家に生まれた贅沢な身分を恥じて80歳を過ぎて家出をし、直後に肺炎にかかり亡くなってしまうという~・・。教会と国家の癒着を批判したことから正教会からは破門されていて教会での葬式を拒否されましたが、自らの教会よりもキリスト教を愛し真理を愛する、真摯な?クリスチャンであったそうです。
せっかく?なので読んでみよう、何から読もうか「復活」か「アンナ・カレーニナ」か・・・と、あらら 短編があったよ。どちらにしても文庫で何巻もある大長編小説なので手始めに?
かわいいのから・・・。
というわけで「二老人」です。あすなろ書房 北御門二郎訳。
二人の老人がロシアからエルサレムへ巡礼の旅に出ます。
一人は裕福で一人はそうでもなく 二人とも篤い信仰心を抱いています。
仲良く旅立った二人ですが、途中で二人は別れ別れになってしまい 一人は途中で家に帰り、エルサレムには一人だけがたどり着き・・・
気にかかった箇所を引用:「・・・・でなきゃあ。わざわざ海を渡ってキリストさまを探しに行っても、自分の中のキリスト様をうしなうことになる。・・・」
巡礼の途中、困っている家族と出会い彼らを助ける決心をした老人のひとりごとです。
これと反対の意見も聞いたことあるような
教会に集い神を賛美すること と 荒野(実社会)に出でて神が喜ばれであろうことを行うこと
私はキリスト教の洗礼を受けているわけではありませんし求道者としてそのための勉強もしたことはありませんが 神様、創造主、なんと呼べば正しく表現できるかわからないけれどそうした存在(というのか?)または意志が在ることを直感として知っています。もしくは知っている、と思っています。
そうした存在は人類共通の意識下で認知され、様々な原始宗教としてその場所その時代に適した形で成り立っていきました。長い時間をかけ淘汰や発展があり、それぞれの歴史とともにその存在を表現しているといいますか、現在いろんな宗教・教派・宗派でごっちゃりとしているけれど
信仰を持つ人たちはそれぞれ己の好きなやり方で自分の内なる神様を信仰しているだけで、人間が神仏を信じる心にそう大きな違いはないのでは。
と 勝手に思っています。スミマセン理論づけいっさいなしです。
だって、心のなかに、自分の内側に中側に 確かに存在している と 思うんだもん←開き直りか? ははは でも 思うんだも―ン。
それをどう認識したいかどう崇めたいかによって自分の入信先が決まる、それだけな気がします。 まじめな信仰者に怒られそうですがー
話が横道にそれましたが、クリスチャンのお爺さん二人のお話ですね。どちらがより神様の御心に近づけたのかを問うお話。なのですが、この時代の旅の描写が面白かったです。
あっという間に読みおえてしまったので、やはり文豪サマの長編小説にトライしてみるべきだな。。。
言わずと知れた文豪ですが、ワタクシほとんど読んだことがない・・・「イワンのばか」「人はなんで生きるか」 くらいか。
非暴力主義者で伯爵家に生まれた贅沢な身分を恥じて80歳を過ぎて家出をし、直後に肺炎にかかり亡くなってしまうという~・・。教会と国家の癒着を批判したことから正教会からは破門されていて教会での葬式を拒否されましたが、自らの教会よりもキリスト教を愛し真理を愛する、真摯な?クリスチャンであったそうです。
せっかく?なので読んでみよう、何から読もうか「復活」か「アンナ・カレーニナ」か・・・と、あらら 短編があったよ。どちらにしても文庫で何巻もある大長編小説なので手始めに?
かわいいのから・・・。
というわけで「二老人」です。あすなろ書房 北御門二郎訳。
二人の老人がロシアからエルサレムへ巡礼の旅に出ます。
一人は裕福で一人はそうでもなく 二人とも篤い信仰心を抱いています。
仲良く旅立った二人ですが、途中で二人は別れ別れになってしまい 一人は途中で家に帰り、エルサレムには一人だけがたどり着き・・・
気にかかった箇所を引用:「・・・・でなきゃあ。わざわざ海を渡ってキリストさまを探しに行っても、自分の中のキリスト様をうしなうことになる。・・・」
巡礼の途中、困っている家族と出会い彼らを助ける決心をした老人のひとりごとです。
これと反対の意見も聞いたことあるような
教会に集い神を賛美すること と 荒野(実社会)に出でて神が喜ばれであろうことを行うこと
私はキリスト教の洗礼を受けているわけではありませんし求道者としてそのための勉強もしたことはありませんが 神様、創造主、なんと呼べば正しく表現できるかわからないけれどそうした存在(というのか?)または意志が在ることを直感として知っています。もしくは知っている、と思っています。
そうした存在は人類共通の意識下で認知され、様々な原始宗教としてその場所その時代に適した形で成り立っていきました。長い時間をかけ淘汰や発展があり、それぞれの歴史とともにその存在を表現しているといいますか、現在いろんな宗教・教派・宗派でごっちゃりとしているけれど
信仰を持つ人たちはそれぞれ己の好きなやり方で自分の内なる神様を信仰しているだけで、人間が神仏を信じる心にそう大きな違いはないのでは。
と 勝手に思っています。スミマセン理論づけいっさいなしです。
だって、心のなかに、自分の内側に中側に 確かに存在している と 思うんだもん←開き直りか? ははは でも 思うんだも―ン。
それをどう認識したいかどう崇めたいかによって自分の入信先が決まる、それだけな気がします。 まじめな信仰者に怒られそうですがー
話が横道にそれましたが、クリスチャンのお爺さん二人のお話ですね。どちらがより神様の御心に近づけたのかを問うお話。なのですが、この時代の旅の描写が面白かったです。
あっという間に読みおえてしまったので、やはり文豪サマの長編小説にトライしてみるべきだな。。。