My ordinary days

ようこそいらっしゃいました!
ふと思い立ち第2のキャリアを始めてしまった、流されがちなひとの日々を綴るブログです

自分ならどうするかどうなるか

2011-04-02 13:12:01 | 日記
全く考え付かない。想像を絶している。


被災地から 子供を失った母親たち 「いつか」を信じて前へ(産経新聞) - goo ニュース2011年4月2日(土)08:00
 取材班として追加派遣される前日の3月14日、上司から「希望の持てる記事を期待する」と声をかけられた。それまで報道を通じて見てきた惨状を、今の記者としての実力で伝えることはできるのだろうか。不安はあったが、上司の言葉に胸を熱くした。
 取材初日に出会ったのが、全校児童の約3分の2が津波に巻き込まれ生存が確認されていない宮城県石巻市立大川小学校の柏葉照幸校長(57)だった。
 柏葉校長から、教諭に手を引かれて丘を駆け上がり一命を取り留めた小学生がいると聞き、避難所へ向かった。助かり、ホッとした表情を浮かべているだろう。そう思っていた。しかし様子がおかしい。男児は敷かれた毛布の上で、母親とともに目を充血させ、ぐったりと座っていた。一瞬ためらった後、声をかけた。「救助されたときの様子を…」。すると母親が「私にも話していないことをどうしてあなたに話せますか」と一言。男児は助かったが中学生の兄が遺体で発見されたという。それ以上、何も言えなかった。
 避難所を出たところで別の女性に呼び止められた。「自分より先に子供がいなくなるつらさが分かりますか。子供が一番怖かったときに一緒にいてあげられなかった」。女性の強い口調に、ただ、頭を下げるしかなかった。
 避難所を立ち去る際、ふと振り向くと、降り積もった雪で泥だらけの赤いランドセルをふく女性の後ろ姿が見えた。背中が震えていた。その女性も、津波で子供を亡くした母親だった。
 「生き残った人もつらいですよ」と柏葉校長は言う。ここに、希望はあるのだろうか。取材を進めるにつれ、出発前に東京で思い描いていた記事が書けるのか分からなくなっていった。
 でも、前を向く日が来ることを、被災者の方々は知っていた。ランドセルをふく母親に、別れ際に言われた言葉が心に浮かんでくる。「私たちだって真実を伝えなきゃいけないことは分かっています。でも今は、ごめんなさい」
 復興への道のりは果てしなく長いかもしれない。それでも、母親は「いつか」を信じて現実と向き合っていた。(西尾美穂子)


震災孤児 見えぬ実態 「お母さん、いつ迎えに来てくれるの?」(産経新聞) - goo ニュース2011年3月30日(水)08:00
 「いつ迎えに来てくれるの?」。少年は母を待ち続けた。だが、自分を愛してくれた人はもういない。東日本大震災で両親を失った“震災孤児”の実態が見えてこない。(松岡朋枝、大渡美咲)
 宮城県石巻市の市立小学校の避難所。同小1年の少年は、母親の迎えを待ち続けた。少年の両親は車で避難する途中、津波にのまれて命を落とした。学校にいた少年は難を逃れたが、両親が亡くなったことは知らされていなかった。
 避難所には近所の住民も多く、親代わりを務めて一緒に遊んでくれたが、避難所にいる親子連れをみると少年の目から涙がこぼれた。泣きながら大人たちに聞いた。「お母さんはいつ迎えに来てくれるの?」
 地震から1週間ほどたったころ、少年は一家の安否を心配して避難所を訪れた親族に引き取られた。避難所を出るときまで、母親の迎えを待っていたという。
 避難所で少年を見守り続けた男性は「子供に必要なのは親や親族だった。自分たちの無力さを痛感した」と、声を震わせた。石巻市教育委員会によると、市内だけでも数十人の震災孤児がいるとみられるが、その実態は明らかになっていない。
 自治体の調査は難航している。宮城県子育て支援課は県内の全自治体と全児童相談所に孤児の実態把握を要請。存在を確認すれば、児童養護施設への入所や里親への養育依頼を行う計画だが、今も多くの自治体から報告は届いていない。沿岸部の自治体は「児童生徒の安否確認さえ終わらず、孤児にまで手が回らない」と話す。
 岩手県でも、地震の被害で親が亡くなったり行方不明になったりしている子供の数を把握しようと、児童相談所の職員と応援に来ている横浜市こども青少年局の職員が避難所を回り、責任者に親を亡くした子供がいないかなどを聞き取っている。
 同県陸前高田市では、市の教育委員会も同時に調査を実施。市の担当者は「地震後、親戚などを頼って市外や県外に出た子供も多くいるため、実態把握には相当の時間がかかるだろう」と話した。