上村悦子の暮らしのつづり

日々の生活のあれやこれやを思いつくままに。

9月 玉手箱

2020-09-16 14:23:28 | エッセイ
もう半世紀以上前のことだ。
小学2年のとき、突然、小学校の担任から電話がかかってきて、
学芸会で「浦島太郎」の乙姫役をやることになった。

私が登場したのは、海の中の竜宮城内の設定だ。
1枚だけ残っている写真を見ると、真ん中の大きなテーブルには描いた豪華なごちそうが置かれ、
浦島太郎をもてなす乙姫役の私がすまして立っている。

浦島太郎役の子は蓑を腰に巻き、ワラジを履いて、絣の着物姿。
私は、誰が作ったのか、白いドレスを着て、ベールに手作りの金の冠をかぶり、
手には相撲の行司用のような扇を持たされている。
両脇では魚役の男の子が長くて金ピカの大扇を抱えて、浦島太郎をあおぎながら歓待している格好だ。

その両横にはタイやヒラメなど魚役の子らが魚の面を頭にかぶり、ゆかた用のへこ帯を首から優雅にかけてズラリ。
写真には写っていないが、亀役の子は手作りの甲羅を背負い、頭に亀の面を着けていたはずだ。

記憶に残っている私の台詞はただ一つ。
浦島太郎に玉手箱を渡すシーンで、練習通りゆっくり、声を張って、こう言った。
「これ亀太郎や、玉手箱を持ってまいれ!!」

その瞬間、会場である講堂は、見学の親たちの大爆笑と拍手でドッと沸いた。
「は、は、はーい」
と、頭上にかざすように玉手箱を乙姫に手渡す亀太郎。
ただ「カメタロウ」という呼び名と、台詞の言い回し方がおかしかっただけなのだろうが、
私は何か失敗してしまったのかと思い込み、頭の中が真っ白になってしまった。

あけてびっくりの玉手箱。
浦島伝説には諸説があって、一説には若さや一種の好奇心に身をまかせ、
うつつを抜かしていると、取り返しのつかないことになるという教えが込められているともいわれるが、
そんな教えもどこへとやら。
私にとって玉手箱は、悪印象の箱となってしまったのである。

乙姫体験から10年ほど後。大阪の短大に進学した私は、岡山の親元を離れ、寮暮らしをすることになった。
今の学生生活と比べれば質素なもので、部屋の電化製品はラジオとこたつぐらい。
それでも不自由さを感じることのない楽しい青春の暮らしだった。

その頃、2カ月に1回程度、送られてきたのが母からの小荷物だ。
当時はまだ宅配便もなく、JRの貨物列車で運ぶ「チッキ」と呼ばれる会符(名札)を付けた箱で、
部活を終え、空腹で寮に戻った時、その荷物が届いていると、それは嬉しいものだった。

いそいそと部屋に運び入れ、一目散に箱を開けると、お菓子類にお茶やのり、佃煮、コーヒー……、
そして、底にはたいてい布袋入りのお米が入っていた。
他人から見れば、どこでも買えそうなものばかりだが、
その中には私の好物があり、また少しでも生活費の足しになればという母の気遣いが伝わってきて、
親のありがたさをしにじみと感じたものである。

その箱を開ける時の気持ちが、あの亀太郎から受け取った「玉手箱」そのもの。
もくもくと白い煙りをあげ、期待はずれだった玉手箱とは違い、私にとっては大きな愛の宝石箱だった。
半年ほどで引っ越した次の下宿先にも、就職してから移り住んだ下宿先にも、母はせっせと小荷物を送ってくれた。

結婚した頃からは、季節ものが多くなった。
初夏には、漬けたばかりの梅干しとラッキョウが空きビンに入れて送られてきた。
夏になると岡山名産の白桃だ。
その時期には行きつけの八百屋さんにたびたび顔を出し、懐具合と相談して、良さそうな品が入ると送ってくれた。

少し涼しくなりかけるとブドウ。そして、秋も深まれば、漬け上がったばかりの黄色い沢庵である。
知り合いの農家から大根をまとめ買いし、数週間物干し場で干した後に、大きな樽に黙々と並べ、
一人で抱え切れないほどの漬物石を乗せて漬け込むという母の自慢の味。
ある意味では母の生き甲斐のひとつだったのかもしれない。
パリパリと音を立てながら、炊き立てのごはんに添えて食べると、
大根のさっぱりとした甘さと辛みが混ざり合って、お世辞抜きでおいしかった最高の沢庵。

娘たちも食卓にてんこ盛りの沢庵が並ぶと、
「あっ、おばあちゃんの沢庵、送ってきたの?」と、瞳を輝かせ、
何よりも先につまんで食べずにはいられなかった味である。
「今年もおいしかったよ。うまく漬かったね」の声だけを喜びに、
母はその翌年も、翌々年も、体の続く限り漬け続けた。

その味が「あれ、ちょっと塩辛い」と感じた年が、母の沢庵漬けの最後となった。
入院中の父を看取るために、病院に泊まり込むようになって以来、家事一切をしなくなった母が、
いつもの季節になり、なぜか思い出したように久しぶりに漬けた沢庵だった。
塩の分量を少し間違えただけなのだろうが、
味は変わり、それから少しずつ認知症のきざしが見られるようになっていった。

それにしても、私は母からいったいくつの玉手箱を受け取ってきたのだろう。
「いつもありがとう」という気持ちだけで開いていたその箱には、
嫁いだ娘への変わらない深い愛情がどれだけつまっていたことか。

母を亡くして、もう20年。
その玉手箱の偉大さと重さを年々ずっしりと感じている。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 8月 グリーフケア | トップ | 9月 診察台 »

コメントを投稿

エッセイ」カテゴリの最新記事