ゆうちゃんの独り言

モーツァルトが大好きで毎日欠かさず聴いています。人生の生き方は仏教で毎日般若心経を唱え、時間を見つけて寺巡です。 合掌

■ 奈良の寺と心の安らぎ!!

2008-07-20 12:57:51 | Weblog

 ここ2ヶ月程、こころの安らぎといったものがなく、こころが乾燥しきっていた状態が続
いていました。良くない事が重なる時は本当に容赦なく来るものだと久し振りに感じました。

 若い頃にもこのようなことは何回かありましたが、この歳になってこのような状況に直面
すると以前よりも、もっと深く考え込んでしまう自分を発見します。

 良かれと思って行動したことがまったく別の結果を起こしてしまい、さらに悩みが拡がっ
てしまうこともありました。自分だけの人生であれば、どうにでも出来ますが他の人を含め
たものであると、なかなか自由に対応できないもどかしさも感じます。

 相手に思いを伝える難しさ、そして相手の言っている内容を100%理解する難しさを感
じました。時々逃げ出したくなる気分に陥りますが、そのような事態になっても逃げ出さず
に頑張ろうとする心がまだ少し残っているので、何とか続いているのが本音のところです。

 この歳になるとそろそろ自分を痛めつけなくてもいいのではとか、もっと自分の好きなよ
うに自分らしく生きてもいいのではないかと思いますが、一方で他の人とともによい方向に
持っていくことができたらなぁと思う心が存在し、またその気持ちが大きいことからずるず
るとこのような気持ちを引きずりながら生きているのだと思います。

 このような状態の中で、久しぶりに奈良を訪れる機会がありました。生駒の宝山寺、奈良
の般若寺、新薬師寺、白毫寺を周りました。

 般若寺の文殊菩薩像は、小さいながらもきつい目から放たれる威厳のある理知的な不思議
な力を感じました。天平7年(735年)に聖武天皇が平城京の鬼門を守るために「大般若
経」を基壇に納め塔を建てたのが寺名の起こりとされています。般若経に興味を持つものと
して訪れて良かったと思った寺でした。

 また、本堂の周りに33の観音石仏像も素朴な面影で接してくれるので、ほっとする安堵
感が得られます。別名コスモス寺とも呼ばれ、コスモスの咲く時期に訪れるとまた異なった
感じを受ける寺ではないかと思います。

 新薬師寺は、なんといっても天平時代の本堂と、本尊の薬師如来坐像はもちろんのこと、
本尊の周りに配置された12神将像です。これらは土をこねて作った土の芸術であり塑像と
呼ばれています。

 これらの12神将は薬師を悪魔から守るための軍隊の大将でそれぞれ7000人の兵士を
もっていたといますから全部で84000人の兵が薬師を守っていたことになります。

 大将とそれぞれの兵は十分に心が通じた関係にあり大将のほんの少しの動きに対して敏感
に対応しそれぞれの役目を果たしたようです。どの神将の顔も怖く威厳のある顔立ちですが、
その心はとても穏やかなのです。本当の大将とはこのような資質を持ち合わせていなければ
ならないと思います。個人的には、本尊の薬師如来坐像よりも12神将像に感銘を受けまし
た。

 また、本堂の作りが天平時代の作りであり、こころが和む素朴な美しさ持つ建物で、長時
間眺めても飽きない作りです。人間の心と一体化する力があるような気がします。同様の思
いがするのは他に秋篠寺があります。

 白毫寺は高校生の修学旅行で行った場所であったので新薬師寺の後に訪問しました。当時
の記憶は全くありませんでした。高円山のふもとにある白毫寺ですが、その場から眺める奈
良の都の景色は趣があります。

 奈良を訪れた日は晴れた暑い日であったため、汗を拭き拭き石段を登り白毫寺を目指しま
した。到着後に飲んだ水のおいしさは忘れられません。大袈裟な言い方をすれば何かをやり
遂げた後の達成感のような感じでした。
 
 久しぶりに奈良を訪れ、それぞれの寺で心の安らぎが得られてことはとても良かったと思
います。やはり奈良は日本人のこころが残っている数少ない土地だと思いました。

■ モーツァルトは「注意欠陥多動性障害(ADHD)」であった♪♪

2008-07-20 12:54:48 | Weblog


 モーツァルトに関して、偉大な作曲家であることは一般的な事実です。しかし、本当のモ
ーツァルトの姿に関しては、意外とベールに包まれている部分が多いのも不思議であり、反
対にいろいろな憶測が飛び交う要因ともなっています。個人的には、モーツァルトは現在ま
でに伝えられている内容よりも、もっと泥臭い生き方をした人物だと思っています。

 偉大な天才で在るが故に、いろいろと不都合な行動や考え方の部分は過去の記録から抹殺
されたのだと思います。人間は良いところだけを持ち合わせて生きられることはなく、何か
しらの問題を持ち合わせながら生きているのです。もっともっとモーツァルトにとって都合
の悪い事実がでてくると、モーツァルトが持つ本当の音楽の意味がさらに分かるのだと思い
ます。

 最近読んだ本で「モーツァルトが求め続けた「脳内物質」」がありますが、この本はモー
ツァルトが「注意欠陥多動性障害(ADHD)」と呼ばれる病気であったとしています。

 この病気は、多動性、不注意、衝動性を主な症状とする発達障害で、注意力を維持しにく
く、時間感覚がずれており、情報をまとめることが苦手とされたいます。この障害を持つ子
供は飽きやすく、直に新奇な刺激を求める傾向にあるとされています。

 この原因として脳内物質のドーパミンの機能に関する遺伝子の変異に関連しているのでは
ないかとされている説があるようです。また反面でモーツァルトは少年時代にてんかん症を
患っていて、後に統合失調症を発症したんのではないかとこの本の著者は述べています。

 モーツァルトはドーパミンが少ない病気であったので、それを補うために心地よい音楽を
作曲し、脳内のドーパミンが増加するようにしたのではないかと推測されています。仮にこ
の仮説が正しいとすると、心の弱った人にモーツァルトの音楽を聴かせると回復するとか、
モーツァルトの音楽を聞かせた牛の乳はおいしいとか、果実が甘くなるとか一般的に言われ
ている事実が全て解決すると思います。

 個人的には、モーツァルトがどのような病気であり奇怪な行動をとった人間であっても、
モーツァルトの音楽は好きであることに変わりはありません。また浪費家で女好きな男であ
ったと影で言われていますが、全て事実であると思いますし、反対にとても人間ぽくて好き
です。

 人間なんて完璧な人間は存在しないと思いますし、仮にいたとしたら人間としての存在意
義がないと思います。常に不完全な中でいかに良くして行くかを悩みながら生きるのが人間
に与えられた試練だと思うのです。

 モーツァルトを完璧な天才人間に祀り上げるのではなく、泥臭い人間としての中からあの
ような美しく哀しい音楽を作り上げた偉大さを言い広めるべきだと思います。モーツァルト
は「注意欠陥多動性障害(ADHD)」であったことはモーツァルトファンとして、非常に
うれしい事実です。

 このような事実を知った後に再度モーツァルトを聴くとまた異なった真実を発見できそう
で、わくわくしてしまいます。皆さんはどのように感じられますか?