ゆうちゃんの独り言

モーツァルトが大好きで毎日欠かさず聴いています。人生の生き方は仏教で毎日般若心経を唱え、時間を見つけて寺巡です。 合掌

■ アシュケナージはピアニストであって指揮者ではない♪♪

2011-06-12 23:45:18 | Weblog

 5月の下旬の土曜日に開催されたN響第1703回定期定期演奏会へ出かけてきました。
今回の演奏会は2010年のシーズン最後の演奏会でした。指揮者は1年ぶりにアシュケナ
ージが登場し、演奏曲目はR・シュトラウスの「変容」とブラームスの交響曲第4番ホ短調
作品98の2曲でした。

 今回の演奏会は始めから期待せずに出かけましたので、演奏が終わっても想定内の内容で
あり、大きな失望なしに帰路に着きました。マエストロに対して大変に失礼な言い方ですが、
結論的にはアシュケナージはピアニストであって指揮者ではないということをまたまた確認
できてしまった演奏会でした。

 1曲目の「変容」ですが、R・シュトラウスの曲の中でもとても精神的に重い内容の曲で
あり、副題に「23の独奏弦楽器のための習作」とうたわれ、ヴァイオリン10、ヴィオラ
5、チェロ5、コントラバス3の合計23の弦楽器による構成となっています。楽想は弦楽
器だけで心の奥底に静かに響くような流れをもって精緻に奏でられる清楚で哲学的な曲です。

 ただ静かで荘厳に美しく演奏するだけでなくそこには哀しさとともに人間としてかすかな
光をもとに希望が静かに湧き上がってくることを暗示させるような曲ではないかと個人的に
解釈しています。アシュケナージは、この曲を美しく演奏しましたが本当の心の中にある哀
しさを完全に表現することは出来ませんでした。

 2曲目のブラームスの交響曲第4番は、ブラームスの作品の中ではドイツレクイエムに次
ぐ傑作だと個人的に位置付けています。さらにこの交響曲を日本文化で表現すると「わびさ
び」の内容を持ち合わせたものだと思います。そしてさらに人間としての哀しさと喜びと悔
しさと優しさ等の動きを流れるように表現したもので、このような点が個人的な心情と合致
し感動を引き起こすのだと思います。

 しかし残念ながら、今回のアシュケナージの演奏は、表面的なもので終わってしまい、さ
らっとしたブラームスの交響曲となりました。アシュケナージ自身はもっとレベルの高い内
容を持ちながら指揮していたと思いますが、演奏するN響のメンバーへその思いが伝わらな
かったことと、N響のメンバー間の意思の疎通が十分でないように思われました全体的なバ
ランスがうまくとれていなかったように思えました。

 アシュケナージは、偉大なピアニストであると全面的に認めますが、指揮者としてのアシ
ュケナージは今一つ自分の中で描いている音楽の全体像を確実にオーケストラの楽員へ伝え
かつ統率する力が弱いと思います。優れた演奏家は後半に指揮者に転向することが多いです
が、やはり指揮者に向いている者とそうでない者がいるのは常であり、正直言ってアシュケ
ナージは指揮者ではなくピアニストとしてもっと深い音楽の世界を極めるべきだと思います。

 モーツァルトのピアノ協奏曲はアシュケナージによる弾き振りのCDをよく聴きます。い
ろいろなピアニストの演奏を聴いたりまたCDを購入したりしていますが、今のところアシ
ュケナージを超えるピアノ協奏曲全曲の演奏には出会っていません。ピアニスト引退ではな
くもっとピアノを弾いてほしいと思っています。

■ 人としての逝き方!!

2011-06-11 14:49:55 | Weblog

 先日立て続けに職場の方に不幸があり、それぞれの葬儀に参列しました。今年還暦を迎える身である自分にとって、人としての
死は以前に増して身近に感じる出来事になってきました。また、凡夫の愚息に言わせると、「親父はすでに自分の棺桶に片足を突
っ込んでいる状態じゃないの」と、とても息子の言葉とは思えないような発言が出だしている時期でもあります。

 確かに還暦を迎える年となれば、自分の身にいつ最悪の事態が生じても動じないような覚悟をもって生きていかなければならな
いと思います。確かに頭の中ではそのように整理されていますが、煩悩で溢れている心のなかは、欲望で埋め尽くされているのが
凡夫の悲しいところでもあります。

 しかし凡夫なりに仏教を学びそして可能な限り日頃から仏教に接する努力をしています。毎晩寝る前には般若心経を唱えその日
の反省をするようにもなりました。このような行動を続けていると、自然に仏教の教えが流れるように入って来る気がします。実
際には何も変わらないのですが、勝手にそのように思い込んでしまう自分に苦笑してしまいます。

 仏教関連の本を読んでいますが、仏教はインド、チベット、中国、東南アジアの場所によって考えや教えが異なっています。ま
してや中国から朝鮮を経由して入ってきた日本での仏教の生い立ちもまた異なっています。素人なので本格的な仏教の研究をする
わけでもないので、より多くの関連の本を読みながら仏教の奥の深さを感じながら、生き方の参考にしています。

 仏教を通じて自分として変わった点は、今まで以上に人に対する優しさが持てるようになったことだと思います。まさに慈悲の
心です。しかし、まだ怒りのこころは消えません。自分にとって面白くないことに対しては怒りを感じるのが普通ですが、この怒
りの心が最も悪いのです。如何にして怒らないようにするかが、人にとっての最も大きな修行ではないかと思います。

 ついつい何でこの人は誤った方向に進んでしまうのかと勝手に決めつけて対応してしまうことがありますし、自分の考えを押し
付けてしまうようなことも多々あります。そして冷静になった時に、あのような行動をとらなければよかったと思うことはこれま
でに山のようにありました。しかし、反省してもすぐに行動に結びつかないところが私のような凡夫の悲しい性だと思います。

 今回葬儀に参列する際に時間を見つけて盛岡にある報恩寺を訪ね、羅漢堂に納められている大仏盧舎那仏像や499体の五百羅
漢像を拝顔しました。堂内入った瞬間にその空間に漂うエネルギーのようなものを強烈に感じ、圧倒されました。久しぶりに心が
洗われた感じを受けました。

 良い人ほど早く逝くといわれていますが、私のような凡夫はこれからも悪行を続けながら生きて行かなければならないような気
がします。代われるものであれば早く逝く方と代わりたいと思いますが、両親より早く逝くのはこれまた親不孝なので、せめて両
親を見送るまでは少しでも善い行いを続けたいと考えています。 合掌