ゆうちゃんの独り言

モーツァルトが大好きで毎日欠かさず聴いています。人生の生き方は仏教で毎日般若心経を唱え、時間を見つけて寺巡です。 合掌

■ 最近の世の中に関する想い!!

2009-10-31 21:20:30 | Weblog

 この齢になると、いろいろ想うことがあります。昔の年寄りは口うるさい人が多くて嫌い
でしたが、まさかそのような年寄りと同じような考えを持つように自分もなってしまったこ
とに、驚きと不思議さを感じています。

 最近特に感じることは、人と人とのコミュニケーションが非常に少なくなってきたことに
危惧を感じています。何も言わないでいることが良いとするような風潮が特に強くなってき
ていると思います。例えば満員電車で人の足を踏んでしまった時であれば、素直に非を認め
謝るのが普通ですが、最近は踏んだ者より踏まれた方が悪いような感じさえ受けます。

 何故このような状況になってしまったのかを考えてみると、携帯電話に象徴されるような
個人主義にその原因があるような気がしています。電車の中での光景ですが、昔は新聞をひ
ろげたりや読書をする人が殆どでしたが、いまは多くの人が携帯電話を片手にメールをした
りやインターネットから情報を入手したり、あるいはワンセグTVを見たりと、携帯電話が
中心となっている行動様式になっています。

 このように携帯電話は個人を中心としたコミュニケーションをより強くする力を持ってい
ます。現在は、昔のようにある個人とコミュニケーションする際に間に他人が入らずにその
個人と直接出来るようになりました。ある面では非常に便利になりましたが、反対に人と人
との間の礼というべきものが失われ、全てが友達感覚に陥ってしまっている感じを受けます。

 個人と親しくなる事に異論はありませんが、たとえ親しい者であってもその間には、守る
べき慣習があると思います。これなくして、単に友達感覚で付き合うのは問題です。このよ
うな状態では本当の友情を作り上げることが出来ずに表面的な関係で終わってしまいます。

 何事も簡単に出来てしまうものから得るものには限界があり、量的にもまた質的にも少な
いものです。ある程度の苦労を伴うからこそ、その結果として得るものが充実するのが正し
い考え方です。

 汗や涙や悩み、さらに心の痛みなしの個人の行動から得られるものが、大きなものである
のであれば、それは偽りのものであり、あってはならないものだと思います。全ての行為に
は人としての努力が必要なのです。

 法然が開祖となった浄土宗や親鸞が開いた浄土真宗では、どのような者でも念仏を唱える
だけで仏になれると説いています。当時の既存宗教からは敵対視されたようです。確かに念
仏だけを唱えれば成仏できる教えには批判が集まり易いように思えますが、鎌倉時代の庶民
の暮らしは現代の生活と比べると雲泥の差があります。

 すなわち、これらの時代背景を考えると、その当時の人々は生きる事それ自体が大変なこ
とだったと思います。ですから法然や親鸞は、苦労している者を救う道を考え広めたものと
個人的に考えています。

 これらのことと、今我々が生きている現代の生活レベルを考えるとどうでしょうか。確か
に世の中は二極化する傾向がさらに強くなってきています。よって弱者を助けることは重要
なことですが、本当にそうなのかということを考える必要があります。

 助ける前に、まず人間として行うべきことを確実に行動することが大切なのです。このよ
うな行動をとっている人には暖かい手を差し伸べる必要があると感じます。またこのような
心があっても、実際に生きていく際に出来ない人も中にいます。

 まず心があれば良いと思いますが、その判断は非常に難しいと思います。これらを可能と
するには、仏の心を持った人に判断してもらうしか凡人には成す術がありません。

 親鸞はどんな悪人であっても成仏できると言いきっています。凡人の私には、まだ理解出
来ないレベルの教えです。理解出来るまでは自分の考えを大切に、また他の人の意見を謙虚
に聞きながら、さらに自分の考えをブラッシュアップするしか凡人には生きる方法はありま
せん。何事もその事実や事象を直視し、その中から自分なりに考えをまとめ、より良い方向
に進むように対処するのが、今の自分の状況の最良な方法だと理解しています。

 電車の中で携帯電話で何かの行動をしている人々が、意味のある行為をしているのであれ
ば良いのですが、いまの日本の状況や社会で起きている事象を見ていると、安易に流れてし
まっている感じがあり、とても心配です。

 もっというなら日本の国が危ないと思います。危機感を持つ人がもっと多くなるべきです
し、自分も微力ながら何らかの力になりたいと思っています。皆さん!日本の国を救いまし
ょう!!そのためにはもっともっと個人レベルで切磋琢磨し、己を高める必要があると思い
ます。人間は一生修行なのです。すなわち生きること自体が修行なのです。合掌

■ 第1656回NHK交響楽団定期演奏会を聴いて(Cプロ初日)♪♪

2009-10-26 00:43:48 | Weblog
 
 先日のAプロに引き続き、ハナ金の夜にN響のCプロの定期演奏会に出掛けました。指揮
者は前回と同じアンドレ・プレヴィンです。Aプロの演奏を聴いていて、プレヴィンの演奏
があと何回聴けるか分からないと正直感じたので、今回の演奏会に出掛けたのも一つの理由
でもあります。

 演奏曲目ですが、プレヴィン自身の作曲によるオウルズ(2008)日本初演、モーツァ
ルト/ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488とショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調
作品47でした。先週の演奏会と異なり、今回はモーツァルトの作品が取り上げられている
だけでなく、ピアノ協奏曲で大好きな23番ですからたまりません。ピアニストは、池場文
美でした。

 最初の曲ですが、以前から何度も申しているように、現代音楽は難解だと思っているので、
例えプレヴィンの作品であっても、モーツァルトのような分かり易くかつ素直な作品ではな
いと構えて聴きました。

 あまりにも構えすぎたのかも知れませんが、それほどきつい現代音楽ではありませんでし
たが、それなりに理解するのに時間と心の消化能力を高める必要がありました。ただ、楽想
が穏やかかつ緩やかなこともあって、違和感は少なかった作品でした。森の中の2羽のフク
ロウの様子を描写した曲です。

 続いて演奏されたモーツァルトのピアノ協奏曲ですが、結論的にいうと少し不満があった
ピアノ演奏でした。池場文美というピアニストの演奏を初めて聴きました。才能がある演奏
家であることは認めますが、この23番の第二楽章の弾き方に異論がありました。

 第一楽章と第三楽章の音の大きさは問題ないと思いますが、第二楽章はもっと小さな音で
弾くべきだと思います。極端な言い方をすると、耳を澄まして聴かないと聴こえない位の音
量で弾く必要があると個人的に考えています。

 全ての楽章を同じような音量で弾いていたので、全体的に単調で感情移入が出来ないよう
な印象でした。批判をする立場にありませんが、教科書通りの弾き方で面白味が足りないも
のだと感じました。

 ただし、プレヴィンの演奏は、いつものモーツァルトを演奏する時と同じ取り組みで、丁
寧な音づくりと柔らかい感情が伝わってくるもので、流石プレヴィンだと思いました。

 後半はショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調でした。私が学生の頃はショスタコーヴ
ィチと言えば交響曲5番の「革命」でした。良く分かりませんが、最近は「革命」という副
題は使わなくなったのでしょうか。

 さて、プレヴィンの演奏ですが、第一楽章の出だしから中盤まで聴いたところで、プレヴ
ィンの高齢が影響して、この内に秘めたエネルギーが最終的に爆発する場面まで持って行く
体力が心配になるくらいおとなしい演奏でした。

 しかし第一楽章の中盤以降になると、徐々にエンジンがかかってきたというか、力強くま
た重厚な音に変化してきました。これはプレヴィンの指示だったのかも知れません。

 演奏の内容は、2楽章以降急速に充実度が増し、最終楽章で全てが燃え尽きた感じの演奏
で、通常のショスタコーヴィチの演奏とは異なる、円熟した大人の内に秘めた魂が昇華する
ような感じを受けました。

 過去にムラビンスキーのような強烈なショスタコーヴィチの演奏を聴いて記憶している世
代ですが、今回の演奏内容は今の自分の状況に合致したショスタコーヴィチであり、プレヴ
ィンの演奏解釈の素晴らしさに、手のひらが痛くなるほど拍手をした演奏でした。

 とにかくプレヴィンの演奏は、円熟した大人の演奏で、どの曲でも優しい精神が入れ込ま
れていてゆっくりとした感動が伝わってきます。本当に満足出来た演奏会でした。

■ 第1655回NHK交響楽団定期演奏会を聴いて(Aプロ初日)♪♪

2009-10-18 17:05:39 | Weblog
 
 昨日の土曜日に、N響の定期演奏会に出掛けました。今回は指揮者がアンドレ・プレヴィ
ンでしたので、前回の演奏会のような素晴らしい演奏内容を期待するのは、誰もが例外なく
思うことだと思います。

 演奏曲目ですが、W.リーム/厳粛な歌(1996)、R.シュトラウス/歌劇「カプリ
ッチョ」作品85から「最後の場」そして後半がR.シュトラウス/家庭交響曲作品53で
した。

 前半のW.リーム/厳粛な歌ですが、ウォルフガング・リームという作曲がいるというこ
とを、今回初めて認識しました。1952年生まれとのことなので今年57歳です。作品の
数は500曲を超えているとのことなので、これは驚異的というべきものだと思います。

 私にとって、現代音楽の作曲家の作品を理解するのに、いつも非常に苦労します。それは
モーツァルトのように美しい旋律や素直に心が和むようなものではないからです。音調は不
安定であるし、調和のとれたものは本当に少ないと思います。

 それでも現在多くの作曲家が挑戦している現代音楽の分野があるという事実は、これまた
驚きです。確かに新たなものを創造する際には、既存のものを一旦否定することから始まる
のが流れであることは理解できますが、実際に音楽として聴いた場合は、多くの場合には個
人的に受け入れられないものが多くありました。

 今回もそのような分野の音楽だろうと思っていましたが、予想が大きく外れました。ブラ
ームス的な匂いが少し漂う中で、静寂と枯れた音色というか渋さを超えた重厚な感じのする
音楽でした。他の現代作曲家に比べれば、少し聴きやすい分野の作品だと感じた次第です。

 前半の2曲目はR.シュトラウス/歌劇「カプリッチョ」作品85から「最後の場」で、
ソプラノ独唱はフェリシティー・ロットでした。この曲も初めて聴く曲でしたが、R.シュ
トラウスらしい感じのする曲想であり、ソプラノの優しい響きに聴き入りました。

 後半は、R.シュトラウス/家庭交響曲の大曲でした。R.シュトラウスお得意の管楽器
がバリバリと吹きまくり、弦楽器も弦が切れそうになるくらい力を入れた演奏でした。

 細部にわたり手の込んだ構造になっているので,食事でいうと脂っこい西洋料理の感じで
す。この歳になるとサッパリ系の和食が好みとなりますが、そうではないことから,聴き終
わると少し耳が疲れるような感じを受けるのは私だけでしょうか。

 確かに若いころはベートーヴェンやマーラー等の重厚な音楽を好んで聴きまくりましたが、
いまやそのような若さというかバイタリティとでもいうのでしょうか、そのような元気の源
が無くなり,毎日枯れていく感じがしています。

 演奏全体はしっかりと押さえられて引きしまった演奏でしたので、4楽章が終わった時点
での拍手はそれはそれは凄かったです。重厚な音でフィナーレを迎えるような曲の構成にす
ると、聴く側は最後良ければすべて良しとなってしまうような錯覚に陥りますが、今回の内
容は錯覚ではなく充実した演奏内容であったと思います。

 最後になりますが、一つ心配なのはアンドレ・プレヴィンの年齢です。80歳の年齢はこ
のような大曲を振ったあとは体力的に堪えるのではないかと心配になります。今後ともN響
を指揮して欲しいと思うので、あまり体力や気力を消耗しないようにしていただきたいと思
っています。舞台の袖にもどる足取りもちょっと心配になるくらい弱よわしい感じでした。