人生第二章 挑戦者

<左半身麻痺の機能回復と生活奮闘記>
脳卒中に倒れ、その後の障害、失われた機能、生活を取り戻す記録

”街歩き、道歩き108”   ”13/108 浜離宮恩賜庭園” (1) 梅が見ごろ

2013年03月09日 23時59分06秒 | 街歩き・道歩き
今日の天気は晴れ、青空で暖かい穏やかな日です。
今日の”街歩き、道歩き108”は”浜離宮恩賜庭園”です。暖かい天気で太陽の光も春の光になっていました。歩いていて寒かった冬が終り春がきたことを感じましたね。
今日は昨日の花粉症のひどさにこりましたので昨晩から花粉症の薬を服用し、今朝も服用し、目のかゆみ対策の目薬もして出かけました。

大江戸線に乗って汐留駅からさあ出発です。
入り口は<中の御門口>から入園しました。
園内の道は小砂利の道でした。普段舗装された道しか歩いたことがなかったので、戸惑いましたね。最後まで気が抜けない道歩きとなりました。

”浜離宮恩賜庭園”


■”浜離宮恩賜庭園”解説  出典:東京都公園協会
潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。
 旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。浜離宮は、この潮入りの池や池や鴨場を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されます。
 この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。
 以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。
 明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年4月有料公開されるに至りました。なお、国の文化財保護法に基づき、昭和23年12月には国の名勝及び史跡に、同27年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。
梅林:園内を歩いていると梅の香りがしました。


紅梅


三百年の松

六代将軍家宣が庭園を大改修したとき、その偉業をたたえて植えられた松。太い枝が低く張り出し、堂々たる姿を誇っています。

梅林








紅梅:美しいですね


白梅
















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