エルガー作曲 行進曲「威風堂々」第一番
今月、私の母が亡くなりました。(享年92歳)日が過ぎて行くにつれて、母のことが思い出され、生きている間にもっと、色々な事を聞いておきたかった。また、聞いてほしかった、話しておきたかった、見せておきたかったの思いが強くなってきました。何一つ親孝行ができなかったことが後悔され、この悲しい出来事をブログに書かどうか迷いましたが、私を生み育ててくれた母に感謝する事は私にとって絶対に忘れてはらない事、覚えておく事として書き留めておきたいと思い、私の心の整理として今日書き残しておきます。
母は、とある地方の漁村に生まれました。幼い頃より、読書が好きで、数字にも強く、子供の頃、学校では、学力優秀、秀才と教師の方々から将来を期待されていました。漁村に一つの学校でしたが、学校の生徒会の役員を任命されたりしていました。母の妹(叔母)には自慢の姉でした。しかし、貧しい漁師の家に生まれた為、母の父は、経済的理由で、母が上級の学校に進学する事を認めませんでした。母には前途に夢がありました。進学が認められず、母は、家庭の為に漁村で働くことになってしまい、夢が断たれてしまうことになりました。
朝早くから、夜遅くまで漁村で働き、やがて、結婚して私が生まれ、その後も、 私が社会人になるまで働きづめの日々でした。「なぜ苦しくとも生きねばならぬのか?」毎日が忙しくてこのようなことを考える余裕もなく時間が過ぎていったことと思います。でも、そのような生活環境でも母は、学ぶことを止めないで書道、短歌、読書、民謡の踊りを寸暇を惜しんで続けていました。いつも、自分に厳しく、負けず嫌いの性格だからできたことと思います。
書道では、師範の免許を取り、短歌ではNHK学園で短歌を学び、地方の新聞に作品が掲載されたり、また、NHK歌壇に応募して、優秀賞として、東京のNHKホールでの表彰式に上京しました。晩年は自分の生い立ちを自分史に書いていました。
私が、中学生、高校生の頃、母は、周りの友達は上級の学校に進学できるのに自分が行けなかった思いを話してくれるようになりました。母の夢は師範学校に行って教師になりたい。読書が好きだったので、小説家になりたかったと事よく話してくれたものでした。私の将来に自分が出来なかったことへの期待があったのでしょう。
しかし、私の成績は平凡で、母の期待を裏切ってしまいましたね。父は学校の成績には無頓着で、健康で、元気で生きていればよいの考えの人でしたので、この時期は気楽に過ごすことができました。
やがて、社会人となって帰省し、社会人としての心構えを母から言われた言葉を思い出します。
1.”一を聞いたら十を知れ”
2.”人よりも一歩先を行け”。人に遅れをとるな。
3.何かをしていても、何かに集中していても同時に別な事をする。考える。
(例えば、食事をしながらでも徐々に後かたずけを考え進める。色々な角度から物事を見る、考える、取り組むということでしょうか。
一を聞いたら十を知れの言葉に関係することでしょう)
4.”忍耐” ”努力” ”根性”。母の座右の銘でした。苦しい生活の中を生きて行く為、自分を厳しく戒める為だったのでしょう。
5.”油断大敵”。栄耀栄華は、いつまでも続かない。慢心すると心にスキができます。そのことを戒めていました。
母は亡くなり星になりました。
極楽浄土では、悲しみ、苦労はありません。そこで、生前楽しんでいた読書、書道、短歌を楽しんでください。そして、魚釣り、船が好きだった父とゆっくりと極楽浄土を楽しんでください。妻の父母にも会って歓談してください。
私は障害を持つ体になってしまいましたが、心は絶対障害に負けません。いつまでも私達を見守り、邪悪なことから私達をお守りください。
挑戦者
今月、私の母が亡くなりました。(享年92歳)日が過ぎて行くにつれて、母のことが思い出され、生きている間にもっと、色々な事を聞いておきたかった。また、聞いてほしかった、話しておきたかった、見せておきたかったの思いが強くなってきました。何一つ親孝行ができなかったことが後悔され、この悲しい出来事をブログに書かどうか迷いましたが、私を生み育ててくれた母に感謝する事は私にとって絶対に忘れてはらない事、覚えておく事として書き留めておきたいと思い、私の心の整理として今日書き残しておきます。
母は、とある地方の漁村に生まれました。幼い頃より、読書が好きで、数字にも強く、子供の頃、学校では、学力優秀、秀才と教師の方々から将来を期待されていました。漁村に一つの学校でしたが、学校の生徒会の役員を任命されたりしていました。母の妹(叔母)には自慢の姉でした。しかし、貧しい漁師の家に生まれた為、母の父は、経済的理由で、母が上級の学校に進学する事を認めませんでした。母には前途に夢がありました。進学が認められず、母は、家庭の為に漁村で働くことになってしまい、夢が断たれてしまうことになりました。
朝早くから、夜遅くまで漁村で働き、やがて、結婚して私が生まれ、その後も、 私が社会人になるまで働きづめの日々でした。「なぜ苦しくとも生きねばならぬのか?」毎日が忙しくてこのようなことを考える余裕もなく時間が過ぎていったことと思います。でも、そのような生活環境でも母は、学ぶことを止めないで書道、短歌、読書、民謡の踊りを寸暇を惜しんで続けていました。いつも、自分に厳しく、負けず嫌いの性格だからできたことと思います。
書道では、師範の免許を取り、短歌ではNHK学園で短歌を学び、地方の新聞に作品が掲載されたり、また、NHK歌壇に応募して、優秀賞として、東京のNHKホールでの表彰式に上京しました。晩年は自分の生い立ちを自分史に書いていました。
私が、中学生、高校生の頃、母は、周りの友達は上級の学校に進学できるのに自分が行けなかった思いを話してくれるようになりました。母の夢は師範学校に行って教師になりたい。読書が好きだったので、小説家になりたかったと事よく話してくれたものでした。私の将来に自分が出来なかったことへの期待があったのでしょう。
しかし、私の成績は平凡で、母の期待を裏切ってしまいましたね。父は学校の成績には無頓着で、健康で、元気で生きていればよいの考えの人でしたので、この時期は気楽に過ごすことができました。
やがて、社会人となって帰省し、社会人としての心構えを母から言われた言葉を思い出します。
1.”一を聞いたら十を知れ”
2.”人よりも一歩先を行け”。人に遅れをとるな。
3.何かをしていても、何かに集中していても同時に別な事をする。考える。
(例えば、食事をしながらでも徐々に後かたずけを考え進める。色々な角度から物事を見る、考える、取り組むということでしょうか。
一を聞いたら十を知れの言葉に関係することでしょう)
4.”忍耐” ”努力” ”根性”。母の座右の銘でした。苦しい生活の中を生きて行く為、自分を厳しく戒める為だったのでしょう。
5.”油断大敵”。栄耀栄華は、いつまでも続かない。慢心すると心にスキができます。そのことを戒めていました。
母は亡くなり星になりました。
極楽浄土では、悲しみ、苦労はありません。そこで、生前楽しんでいた読書、書道、短歌を楽しんでください。そして、魚釣り、船が好きだった父とゆっくりと極楽浄土を楽しんでください。妻の父母にも会って歓談してください。
私は障害を持つ体になってしまいましたが、心は絶対障害に負けません。いつまでも私達を見守り、邪悪なことから私達をお守りください。
挑戦者
