所在地:長野県伊那市西箕輪中條
現状:耕作地等
遺構:不明
状態:
表示等:なし
駐車場:なし
中条の表記は、
「図解 山城探訪 第四集 改訂上伊那資料編」(宮坂武男著 長野日報社刊)や
「長野県の中世城館跡-調査報告書」(長野県教育委員会編)に
従いました。
「南信伊那史料 巻之上」に拠れば、
中條氏の館跡、応永八年笠原中務少輔弟左近進信政がこの所に居を構えて、
在名を家名とし、四代左近之進信平の代に中條八ツ手に百五十貫文を領して
仁科五郎信盛に属し、天正十年織田信忠の伊那侵入時に高遠城に籠り討ち死に、
家名を失い長子八郎は民間に降りた(伊那武鑑云々)、
とあります。
また同書に、
唐澤氏の館跡、中條にあり天文元年上杉定実の家臣唐澤隼人助源昌綱が此に
居を構えてその子唐澤備前義景が石曽根に移住して弘治二年武田信玄侵入の
時に土地は没収され年貢地となった(郡記及古系云々)
とあります。(石曽根は、飯島町の唐沢城跡)
「図解 山城探訪」では同じ場所に一時期唐澤氏が居たのではないかと推察されて
います。
中條公民館西側のお滝川沢と戸谷川に挟まれた傾斜地が城跡になります。
ゲートボール場になっていた場所とその下側は見られましたが、西側の土塁の
残ると思われる場所は耕作地から自然に帰りつつあり、草木が生い茂っていて
確認出来ませんでした。
中條公民館。
右側から建物裏へ。
橋の向こう側が城跡。
お滝川沢。
橋を渡った城跡東端の平場。
一段上がってゲートボール場。
ゲートボール場北側の土塁状の土盛。
更に一段上がって、ここから先が城跡の中心部のようですが、侵入を拒む草木
を前に撤退しました。
左側がコンクリートで固められた戸谷川。
現状:耕作地等
遺構:不明
状態:
表示等:なし
駐車場:なし
中条の表記は、
「図解 山城探訪 第四集 改訂上伊那資料編」(宮坂武男著 長野日報社刊)や
「長野県の中世城館跡-調査報告書」(長野県教育委員会編)に
従いました。
「南信伊那史料 巻之上」に拠れば、
中條氏の館跡、応永八年笠原中務少輔弟左近進信政がこの所に居を構えて、
在名を家名とし、四代左近之進信平の代に中條八ツ手に百五十貫文を領して
仁科五郎信盛に属し、天正十年織田信忠の伊那侵入時に高遠城に籠り討ち死に、
家名を失い長子八郎は民間に降りた(伊那武鑑云々)、
とあります。
また同書に、
唐澤氏の館跡、中條にあり天文元年上杉定実の家臣唐澤隼人助源昌綱が此に
居を構えてその子唐澤備前義景が石曽根に移住して弘治二年武田信玄侵入の
時に土地は没収され年貢地となった(郡記及古系云々)
とあります。(石曽根は、飯島町の唐沢城跡)
「図解 山城探訪」では同じ場所に一時期唐澤氏が居たのではないかと推察されて
います。
中條公民館西側のお滝川沢と戸谷川に挟まれた傾斜地が城跡になります。
ゲートボール場になっていた場所とその下側は見られましたが、西側の土塁の
残ると思われる場所は耕作地から自然に帰りつつあり、草木が生い茂っていて
確認出来ませんでした。
中條公民館。
右側から建物裏へ。
橋の向こう側が城跡。
お滝川沢。
橋を渡った城跡東端の平場。
一段上がってゲートボール場。
ゲートボール場北側の土塁状の土盛。
更に一段上がって、ここから先が城跡の中心部のようですが、侵入を拒む草木
を前に撤退しました。
左側がコンクリートで固められた戸谷川。