あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

安倍氏の「コピペ」は意図的である

2014年08月12日 10時48分00秒 | Weblog
 安倍首相の広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式と、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典でのあいさつが、「コピペ」だと言って批判されている。とりわけ冒頭部分は昨年のあいさつと数字を入れ替えただけで全く同じもののようだ。
 問題はおそらくこれが安倍氏の意図的な「演出」であることだろう。確かに多くの人が指摘するように、この文案は官僚の作文と思われる。まず第一に、安倍氏は原爆慰霊に際して特に自分の言葉で語る情熱を持っていないという点である。あの集団的自衛権の行使容認の閣議決定に際しては、ボードのイラストを何度も描き直させるくらいに事細かく注意を払い、自分の言葉で説明をしたのに対して、これはあまりにも形式的だ。
 もうひとつは、この「コピペ」問題が広島式典の報道においてマスコミに指摘されたにも関わらず、長崎の式典でもそれをあえて直させることもなく、同様の「コピペ」を読み上げたことである。当然、総理大臣がこの問題を国民の声として聞いているなら、官僚に対して言葉を直すように指示することは簡単にできたはずだ。官僚側もそう言う指示を受ければ、ただの言い回しに過ぎないのだからすぐに修正することが出来ただろう。
 しかしあえて安倍首相はそれを訂正することなく読み上げた。これはつまり意図的であり、このことの中に安倍氏のメッセージが込められていると考えざるを得ない。つまり安倍氏はあえて今回のあいさつを形式的・形骸的に行うことをもって、広島や長崎の人々の抗議は受けつけない、原爆の問題は言葉上は否定的に語るが、実際の自分の心の中ではたいしたことではない、むしろ核兵器の力をもっと使うべきだと思っている、ということを暗に示したのである。まさに日本の戦争責任、従軍慰安婦問題などと全く同じ構造だ。口先では謝罪や遺憾の意を表しながら、実際には全く反対のことを考え行動する。二枚舌というのもおぞましいような、恐ろしい権力者の偽善的ポーズである。何度も書くけれど、ぼくはこういうのを見るとティム・バートン監督の「マーズ・アタック」の侵略宇宙人を思い出してしまう。拡声器で平和を訴えながら地球人を虐殺していくあの場面だ。

 しかし長崎の市長ははっきり集団的自衛権行使容認に対して疑義を示したし、被爆者代表(城台美弥子氏)は次のような激烈な言葉を語った。

「いま進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です。日本が戦争が出来る国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。
「武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているじゃありませんか。日本の未来を担う若者や子どもたちをおびやかさないでください。平和の保証をしてください。被爆者の苦しみを忘れ、無かったことにしないでください。
「福島には原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、余所へ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、おこなっていいのでしょうか? 使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討してください」

 あまりにもまっとうな意見である。小難しい理屈をこねなくてもこの方の言っていることは整然と首尾一貫して論理がすっきり通っている。式典後の被爆者との懇談会でも被爆者から首相の意図をただす質問がいくつも出されたようだが、結局、安倍氏は国会論戦と同じようにそれに直接答えることなく、話をはぐらかしたらしい。
 政治家は言葉だと言われる。民主主義は言論による闘いだと言われる。しかしそれは政治家が自分の信念を率直に語り、真正面から論争することを言っているのであって、自分に都合の悪いことには答えず、相手の疑義を晴らすことなく、一方的に自分の作り上げた論理で強行突破していくのでは、どこにも民主主義は存在し得ない。それはただの多数決主義であり、数の暴力でしかない。
 言葉遣いは丁寧でも(世界中の独裁者の多くは丁寧に穏やかに語るものだ)、平等の立場で相手の意見を真摯に聞く態度がないなら、それは暴虐でしかない。