あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

「選別・純化」と「寛容・多様化」

2014年08月24日 10時25分44秒 | Weblog
 清潔が行きすぎた無菌世界になると、今度はアレルギー疾患が増えるという話がある。昔の日本の衛生環境は今よりずっと悪く、ぼくも子供の頃に寄生虫検査の検便を毎年おこない、「虫下し」を飲まされた記憶がある。その当時からもちろん花粉症やぜんそく、アトピーなども存在していたが、まだまだ少数派だった。
 人間が快適で安全な生活を求めれば求めるだけ、それをあざ笑うように地球環境は新しい危機を生み出してくる。さらに開発と国際化によって交通が飛躍的に発達したために、いったん発生した新たな感染症があっという間に広がり、対策が追いつかないうちにパンデミックを引き起こす構造が作られてしまった。
 だがこれは病気だけの話だろうか。
 「イスラム国」の報道に接する度に、ぼくはこれも政治的な無菌状態を作り出そうとした世界に対するしっぺ返しのように見えてしまう。ポスト冷戦というアメリカ一国支配体制戦略、すなわちグローバリゼーションを欧米陣営が、しかも結局は圧倒的な軍事テクノロジーをもって強行しようとしたことが、「イスラム国」のような誰にもコントロールが利かないカルト的暴走を生み出したのだと考える。
 20世紀の世界では政治を「右翼」「左翼」とカテゴライズしたけれど、すでにそのような分別は不可能となった。ぼくはむしろ「選別・純化」派と「寛容・多様化」派として考えた方がよいのではないかと思う。
 我々がいわゆる「右翼」としてイメージするのは、たとえば民族主義とかナショナリズムという形で自分と他者の違いを見つけ出し、自分と違う他者を自分のエリアから排除しようとする動きである。これはつまり「選別・純化」の動きだ。しかしもちろんそれは、いわゆる右翼だけのものではない。かつてのソ連や日本の新左翼運動の内ゲバを見てもよくわかる。
 「選別・純化」には、放っておくとそれがどんどん深まっていくという性質がある。はじめは普通の隣人がただ自分と違う宗教であるというだけの認識だったものが、やがて変な人、自分と違う人になり、社会の疎外物と思われるようになって、ついに社会の敵として排除の対象になる。しかし「選別・純化」の深化の問題はそれだけではない。こうした動きと同調して、同じ宗教同士の間でも他宗教を積極的に擁護する人々が排除され、そのうち同情していただけの人が排除され、最後はただそうした疑いをかけられただけで排除されるという過程が進む。もちろんこれは別の場合には宗教ではなくて政治思想だったり、種族であったりするのだ。いわゆる「クレンジング」はこうした状況である。
 「選別・純化」に対抗する手段として一番わかりやすいのは、同じような「選別・純化」で対抗することである。なぜなら「選別・純化」に「寛容・多様化」で挑んだら結局相手を認めて飲み込まれてしまうからだ。しかし「選別・純化」同士が戦っていっても結局「選別・純化」がさらに進行するだけである。
 その答えはおそらく近代合理主義をどう乗り越えるのかということにかかってくる。しかもそれは近代からの後退であってはならないというところがやっかいだ。だがそれを見つけない限り、現状を打破することは出来ない。