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目に映る当世ファッション状況を感じたままお知らせします。このサイトのファッションは服飾に限ります。インフレファッションへ

2025春夏パリ・オートクチュールコレクション

2025-02-01 | ファッション
2025春夏パリ・オートクチュールコレクションby VOGUE JAPAN
  
アレクサンドル・ポーティエALEXANDRE VAUTHIER
アレクシ・マビーユALEXIS MABILLE
アレッサンドロ・ミケーレValentino
アントニオ・グリマルディANTONIO GRIMALDI
ヴィクター・ホスティン ロルフ・スノランViktor & Rolf
エリー・サーブELIE SAAB
ガウラヴ・グプタGaurav Gupta
ジャンバティスタ・ヴァリGiAMBATTiSTA VALLi
ジュリー・ドゥ・リブランJulie de Libran
ジョルジオ・アルマーニARMANI PRIVÉ
ズハイル・ムラドZUHAIR MURAD
ソーヒー・パークMiss Sohee
ディディット・ヘディプラセトDidit Hediprasetyo
ベルトラン・ギュイヨンSchiaparelli
マチュー・ブレイジーCHANEL
マリア・グラツィア・キウリChristian Dior
ラウル ミシュラRAHUL MISHRA
ルドヴィック・ド・サン・セルナンJean Paul Gaultier
ロナルド・ファン・デル・ケンプRonald Van Der Kemp

2025年1月27日~1月30日 in Paris

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秦→シン→チーナ→ティーナ→支那→China⇔Japan

2025-01-25 | ファッション
因みに、支那(シナ)について、
海外では「エリュトゥラー海案内記」に
「Thinae(ギリシャ語)発音はティーナ?」で絹の産地として紹介されているとの事です。
(尚、Wikipediaに依るとこの案内記は1世紀半ば過ぎに成立したと推定され、
 古代のインド洋近辺における海洋貿易についてギリシア語で記された航海案内書とか。)
次に、イタリア人宣教師マルティノ・マルティニ(1614~61)の「中国新地図帳」からの情報で
世界地図を作成したヨアン・ブロウ(1598~1673)「大地図帳」では「Chine(蘭語)」表記。
東インド、ならびに隣接諸島地図 日文研 日本関係欧文資料の世界)
19世紀清王朝を虐めた大英帝国は「China」、仏共和国(途中王政)は「Chine」表記です。
少なくても、2世紀の地球上認識可能な世の中は西から
ローマ帝国 パルティア王国 クシャーナ朝 サータヴァーハナ朝 扶南朝 林邑(チャンパー)匈奴帝国 後漢朝 倭国
には「秦(シン)」→「チーナ」→「ティーナ」と認識されていたのではと思われます。
日本について、
日本書紀では日本(やまと)→日本武尊(やまとたける
万葉集では日本(ひのもと)→日本之 山跡国乃 鎮十方(ひのもとの やまとのくにの しずめとも
(万葉集 第三巻 319番歌 高橋虫麻呂 詠不尽山歌一首)
訓読みは上記で、字音(音読み)は「日本(ニ ホム)」。
やがて「にほん」「にっぽん」と定着、ローマ字表記では「Nippon」に。
一方、「Japan(ジャパン)」の方はマルコ・ポーロ(1254?~1324)の「東方見聞録」が通説。
マルコ・ポーロ17歳は1271年ローマ教皇グレゴリウス10世(1210~76)の
モンゴル帝国大元ウルス クビライ皇帝(1215~1294在1260~94)宛ての親書を携え、
ヴェニスから船でパレスチナのアッコに上陸、陸路シルクロード経由で上都を目指し旅立ちます。
1275年21歳大元ウルスの北の首都、上都(元中国内モンゴル自治区)に到着し皇帝に謁見。
上都で皇帝謁見から季節は春夏。南の首都、大都(現北京)は秋冬滞在です。
なぜかマルコは皇帝のお気に入りとなり役人として重用されます。1291年37歳帰国許可、
皇女随行任務フレグ・ウルス経由で1295年41歳ベニスへ漸く到着。
紆余曲折を経て「東方見聞録」が世の中に流布。
この伝聞に「日本国」が登場、その記述に「Zipangu」「Zipangri」「Jipangu」等々。
これらはマルコが大元ウルス滞在中聞き及んだ漢音での「日本国(ジペングオ)」からが通説と。
現漢和辞典では漢音→日は「ジツ」本は「ホン」呉音→日は「ニチ・ニッ」本は「ホン」。
(参考「国号「日本」の読み方について」文部事務官 三宅武郎)
ところで、梁啓超は「日本」を何て呼んでいたのでしょうか?
彼の田舎は現在の広東省江門市新会区郊外ですので呉音・広東音になる筈です。
従って、日本現漢字辞典風発音では「ニッホン」となるのですが・・・・・。 続く。

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梁啓超 来日後、自国を「支那」と

2025-01-18 | ファッション
皆様におかれましては良いお年をお迎えの事と思います。本年も宜しく・・・・・。 
本日より前回、昨年からの続きになります。

梁啓超は日本語、翻訳・和製漢語習得、和洋書物読破。その結果、聡明な彼は、
はたと、ご自分の生まれ故郷の国号(名)、及び、その歴史書がない事に気付くのです。
来日直後、彼の周りの日本人は「清王朝」を「支那」と記述・呼称していました。
この「支那」と命名されていたのは
新井白石が「西洋紀聞」に「支那」と表記、門外不出(禁教の為)の書が世に出た為。
*西洋紀聞
江戸中期の外国地誌。三巻。新井白石著。正徳五年(1715)の識語があるが、完成は白石
の最晩年とされる。伝道のため屋久島に潜入したイタリアのイエズス会宣教師シドッチを
訊問した時の質疑応答の記録。西洋諸国の歴史、地理、風俗と天主教(キリスト教)に関
する記述から成る。秘本とされ、公刊されたのは明治一五年(1882)だが、寛政五年
(1793)幕命により献上した後は、知識人の間に広まっていた。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
「むかしより支那の国 我法をきびしく禁せられ候へとも」(西洋紀聞 孫引き
白石はかの国の地域名を記した平安初期空海が著した「性霊集」に依り「支那」と表記。
(中華王朝最初に統一した「秦」→印でチーナと発音→シルクロードで逆輸入仏典漢語で支那)
支那は印発音の漢訳漢語で私度僧の空海が「唐王朝」から持ち帰った漢語になります。
但し、支那は文化文政時代に世の人が知り普及するまで、「もろこし(諸越)」「から(唐)」
と呼び・云われていたのです。(例えば、かの国からの輸入高級品は「からもの(唐物)」と)
従って、この時節「支那」は一般庶民迄にもあまねく知れ渡っていたのです。
梁啓超も来日直後は自国名として「支那」を好んで使用していたとの事です。。
彼のみではなく、清王朝より日本亡命された方々、梁啓超の定期刊行雑誌を御覧になった
清朝在住の血気盛んな若者達もご多分に漏れませんでした。 続く。

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梁啓超 来日後、日本語と翻訳・和製漢語を猛勉強

2024-12-14 | ファッション
梁啓超生誕1873年~中華民国成立 清王朝滅亡1912年迄、先週整理しました。
今週は彼が日本に亡命した1898年以降のお話しです。
梁啓超は来日し、日本語を猛勉強する日々。
科挙に合格してますので、抜群の暗記力にて知識獲得等々はお手のもの。
会得後は吉田松陰・福澤諭吉・加藤弘之・徳富蘇峰等の書物は当然として
日本語に翻訳された海外の著作物(政治・経済・法律・歴史等々)も読み漁ります。
その時節の日本は「大政奉還」→「王政復古」→
「明治維新」→「文明開化」→「富国強兵」→「殖産興業」
を経て薩長政権は絶好調を迎えていました。
因みに上記の四文字熟語で「王政復古」・「文明開化」以外は「漢語」です。
大政奉還→てんかのまつりごとをおかえしもうしあげたてまつる
明治維新→明治これあらたなり 元号明治の典故は易経「聖人南面而聴天下 嚮
富国強兵→くにをとまし、へい(軍事力)をつよくする
殖産興業→とれだかをふやし、なりわいをおこしふやす
ところが、どっこい、王政復古・文明開化は「翻訳漢語」なのです。
restoration→王政復古、civilization→文明開化になります。
王政の漢語は帝(天下)の政(まつりごと)で復古は古(いにしえ)の形に復すこと。
文明の漢語本来の意味は文徳が明るく輝くこと。学問・教養があって人格が優れていること。
更に、国語(日本語)では後に技術・機械等の発達により世の中が進歩し便利になる意味に。
開化の出典は「大唐西域記」で人知が発達し思想・風俗の進歩すること。
上記の「翻訳漢語」は江戸末~明治に活躍した英傑らが
西洋語を既存の漢語に転換しました。他の事例は下記になります。
「翻訳漢語」の例 〈(=以降)は元来の漢語の意味〉
「state→国家(=王朝・政権)」「nation→国民(=百姓)」「revolution→革命(=王朝交代)」
「speech→演説《福沢諭吉訳》(=道理や意義を説く事)」
「liberty→自由《福沢諭吉訳》(=自分の思うままに振る舞う事)」
「society→社会(=集会)」「-ism→主義(=道義を行いの基準とする事)」

更に漢語には存在しない「翻訳創作漢語(和製漢語)」も編み出しました。
(《 》内は訳された方と組織)
「philosophy→哲学《西周》」「science→科学《福沢諭吉》」「bank→銀行《大蔵省》」
「和製漢語」の例は下記に。
「information→情報」「evolution→進化」「human rights→人権」「territory→領土」
「idea→理念」「category→範疇」「essence→本質」「concept→概念」「story→物語」
「creation→創作」「sensibility→感性」「design→図案」「content→内容」「sensitiv→敏感」
「time→時間」「space→空間」「background→背景」「market→市場」「consumption→消費」
「dictatorship→独裁」「resistance→抵抗」「avant-garde→前衛」「party→政党」
「policy→政策」「group→集団」「election→選挙」「common sense→常識」等々

更にさらに、全くの「創造漢語(和製漢語)」も
方針 場所 日程 特長 敵視 単純 成員 人選 支配 事態 作者 財閥 故障
公認 原作 権限 系列 金額 記号 簡単 学歴 入口 狂言 軍部 克服 歌舞伎
等々、夥しい数の和製漢語が生み出されたのです。
(上記翻訳・和製漢語は「漢語外来詞詞典」劉正談ら著 1984年上海辞書出版社刊に収録済。)

梁啓超は翻訳漢語には若干違和を覚えるも、和製漢語に新鮮さを感じたのでは?
 続く。
それでは、本日にて2024年最終投稿に致します。
皆様におかれましては良いお年をお迎え下さいませ。 それでは、又。

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清王朝 ⇒ 中華民国 梁啓超の登場

2024-12-07 | ファッション
先週、清王朝は王朝名であり主権国家名で無い事に気付き、国家名を提案した方が
出現しました。そのお方は「梁啓超」(リョウケイチョウ1873~1929)。
(但し、この時点で主権国家の概念がお分かりであったかは、定かではありません。)
1873年01歳 広東省広州府新会県にて生まれる(現在の広東省江門市新会区)
1889年17歳 科挙地方試験(郷試)合格
1890年18歳 康有為と会う 以後、彼の一番弟子
1894年7月 日清戦争勃発(7/25~1895/4/17)
1895年23歳 日清講和条約(下関条約)に対する講和拒否運動、政治結社強学会 書紀
 強学会入会者には英宣教師Timothy Richard ティモシー・リチャード中国名 李提摩太(リテイマタ)、
 袁世凱(エンセイガイ1859~1916大清帝国第2代総理→中華民国初代大総統)等々
 康有為・梁啓超を中心としたこの結社が清王朝の伝統的政治制度を改革する「変法運動」
 となり(君主専制→立憲君主制・富国強兵・科挙→洋式学校等)「変法」党派に
1897年11月 山東省で鉅野事件
1898年26歳 光緒帝の変法新政「戊戌の変法」作動も8/6袁世凱の日和りであえなく没
 身に危険が迫った康有為・梁啓超は逃走 各々別々に9月日本に亡命を果たします
 梁啓超は11月横浜中華街を拠点に早速、持論等々を記した「清議報」を刊行
1900年6月 北清事変勃発 1901年9月屈辱的な北京議定書
1901年29歳 「中国史叙論」
1902年30歳1月「新民叢報(シンミンソウホウ)《新民説 新史学》」半月刊誌発刊(~1907年)
1904年2月 日露戦争勃発(1904/20/8~1905/9/05)
1905年8月 東京にて中国革命同盟会(→中国同盟会)結成 孫文・黄興・汪兆銘ら「民報」
 隋王朝から始まった官吏途用制度「科挙」廃止
1911年10/10 武昌蜂起(現 湖北省武漢市)辛亥革命の発端
1912年01/01 南京にて孫文国民主権国家「中華民国」成立宣言 梁啓超数え40歳
 続く。

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