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服飾ファッション危うし XV  西太后悪女に非ず3

2024-11-16 | ファッション
それから3年(1898年)、
李提摩太(ティモシー・リチャード)は北京で急速に交流を深めていた人物がいました。
その人物は康有為(1858~1927)。彼は5月に隠居した西太后から権力を譲渡され
士庶なく実力主義で官僚途用を標榜する光緒帝に抜擢された改革派のリーダーを努める人物。
康有為の日記には李提摩太の名前が数多く登場します。
博士は李提摩太が一度却下された計画でも康有為・光緒帝なら云う事をを聞いてくれる
のではと予感していた時、それを示す史料を発見したとの事です。
これこそ「戊戌の政変」の原因であると。
康有為の右腕の一人楊深秀(1849~1898 戊戌六君子)が書き残していた文集、
その中の上奏文に李提摩太の名前が記されていたのです。その上奏文、
「英国の牧師、李提摩太が我が国の為に策を教えてくれました。
 今の困難を脱するために我が国は英・米(美)・日と深く結(連)びつくべきです。
 牧師も欧の名士でありますが、まとめ役として相応しいのは日本の伊藤博文と
 云っております。そして彼は今ちょうど旅行で来ており、会えるのです。
 皇帝陛下ご決断の時です。躊躇(ためら)ってはなりません。
 これこそ天下の未来が見える道なのです。」
李提摩太は3年前の失敗から伊藤博文を巻き込もうとしたのでしょう。
日本にはメリットがあるから、断らないと考えたのでしょう。
8月5日光緒帝はついに助言を受け入れ、伊藤と紫禁城で面会、
全ては李提摩太の計画通りかと思われました。
しかし、この前日8/4、西太后は隠居所の頤和園から紫禁城に駆けつけていたのです。
この計画は事前に発覚していました。改革派に冷遇されていた保守派の官僚が密書を
西太后に、したためていました。(8/3)
「伊藤博文に清朝の政権を握らせようと云う計画が噂として広がっております。」
西太后は光緒帝・伊藤博文会見の翌日8月6日、光緒帝を幽閉するのです。
これにて李提摩太の計画は泡と消え去りました。 続く。
(尚、西太后は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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服飾ファッション危うし XIV  西太后悪女に非ず2

2024-11-09 | ファッション
西太后悪女説を覆した方は「台湾師範大学 雷家聖博士」(1970~)。
「戊戌の政変(1898/08/06)」で西太后64歳が光緒帝28歳を幽閉する事態に陥ったのは
「清朝の英保護領・植民地計画」を阻止する為。
清朝に英国から派遣された表向きは宣教師、Timothy Richard ティモシー・リチャード(1845~1919)
中国名 李提摩太(リテイマタ)、裏向きは英国公使館為に仕事をしていた牧師の仕掛け計画。
雷家聖博士の著書
「『Power to Save the Day: A New Exploration of the Hundred Days' Rebellion』
(失われた真実 清末百日の乱史の新探求)台北 萬年老書社 2004年」で、
彼は多大な史料収集、それらの資料文言を確認、推量・論理展開されてます。
以下はNHKインタビュー等の内容から。
博士も最初は流布されていた「西太后悪女説」を信じ
「戊戌の政変」は西太后が悪いと思っていましたと。
しかし、分析を進めるうちにどうも違うと気づいたのです。
博士が注目したのは
1898年8月5日、紫禁城で伊藤博文と光緒帝が会見した出来事。
日本侯爵伊藤博文は明治維新の立役者です。
当時、伊藤博文は総理を辞任したばかりで漫遊と称して清朝を訪れていました。
(「続 伊藤博文秘録」〈春秋社版〉)これに光緒帝との会見の様子が記してまります。
「何日位、いる予定か。我が国は改革を望んでいる。助言があれば是非お願いしたい。」
交わされたのは社交辞令のみ。この翌日1898年8月6日光緒帝幽閉事件の発生。
後に、伊藤は妻の梅子さんに「何が起こっているのかわからない」と戸惑いを伝えてます。
事件前日の面会はあくまでも偶然と思われていました。
伊藤は会う予定でないにも関わらず、光緒帝の希望で会ってます。
なぜ、光緒帝は伊藤に合ったのか?裏に何かがあるのではないかと思ったのです。
博士は散逸していた当時の史料を徹底的に収集・分析、その結果、ある国際的な謀略が
あった事をあぶり出しました。
政変2ヶ月前、1898年6月の改革派の官僚、洪汝冲の光緒帝に対する嘆願書(上奏文)。
これが謎を解くきっかけになりました。これが伊藤博文に最初に言及した文書です。
「改革を推進する為、欧から有能な政治家を招いて指導を仰ぐべきです。
 ちょうど伊藤博文が旅行に来ます。是非皇帝陛下の権限で北京に留め各国政治家の
 まとめ役として下さい。」
その3年前、同じような提案をしている人物を発見、李提摩太(ティモシー・リチャード)です。
1895年李提摩太は清朝政府に「新政策」を提言、そこには、
「改革の為、(清)政府の半分は(西)欧人を迎えるべき、私も実力を十分持ってます。
 財務関係の仕事のまとめ役としてお力添えできると思います。」と。
親切のように聞こえますが、これは典型的な英国のやり口です。
かって印でも近代化の顧問と称して英人を送り込み植民地にしました。
当時、権力を握っていた西太后は即座に却下、取り上げませんでした。
(さすが百戦錬磨の為政者では?) 続く。
(尚、西太后は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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2024年ヒット商品1位は新NISA&「オルカン」

2024-11-02 | ファッション
10/31日経トレンディ・日経XTRENDOから
「2024年ヒット商品ベスト30」が発表されました。
(対象期間 2023/10月~2024/9月)

衣料部門から今回めでたく?2点エントリー。吸湿速乾下着とGUジーンズ。

■2024年ヒット商品ベスト30

2024年 01位 新NISA&「オルカン」投資 「財IT」
2024年 02位 大谷翔平売れ 「遊」
2024年 03位 Vポイント  「混IT」
2024年 04位 「リードルショット」シリーズ 「美」
2024年 05位 名探偵コナン 100万ドルの五稜星 「健」
2024年 06位 キリンビール 晴れ風 「食」
2024年 07位 スイカゲーム 「遊」
2024年 08位 シンカトリ 「健」
2024年 09位 Temu 「混IT」
2024年 10位 メルカリ ハロ 「遊IT」
2024年 11位 未来のレモンサワー 「食」
2024年 12位 劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦「遊」
2024年 13位 もちっとおいしいスパゲッティ 「食」
2024年 14位 アセドロン 「衣」
2024年 15位 鰻の成瀬 「食」
2024年 16位 トイレマジックリン こすらずスッキリ泡パック 「健」
2024年 17位 Osmo Pocket 3 「遊」
2024年 18位 バレルレッグジーンズ 「衣」
2024年 19位 ゴリラのひとつかみ 「健」
2024年 20位 クロスブレンドカレー 「食」
2024年 21位 エッセンス スキングロウ ファンデーション 「美」
2024年 22位 薄皮たまごぱん 「食」
2024年 23位 アサイーボウル 「食」
2024年 24位 コリコランワイド 「健」
2024年 25位 忍者めし 鉄の鎧 「食」
2024年 26位 SHIBUYA TSUTAYA 「遊」
2024年 27位 JRE BANK 「財IT」
2024年 28位 魔法のかまどごはん 「食」
2024年 29位 布製ランドセル 「健」
2024年 30位 アライ 「健」)

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服飾ファッション危うし X III  西太后悪女に非ず1

2024-10-26 | ファッション
「戊戌の政変」で西太后は「中華王朝で悪女の中の悪女」とされました。
何と、これが1976年に覆されたのです。
西太后(1835~1908)が「悪女中の悪女」と祭り上がられたのは
「China under the Empress Dowager」(西太后治下の中国)
J.O.P. BLAND(英ジャーナリスト) AND E. BACKHOUSEの二人の共著 1910年刊
この著書に依るものです。
これが世界初の西太后についての伝記になるとの事です。
著者の一人、E. BACKHOUSEはEdmund Trelawny Backhouse(1873~1944)。
彼は英国の表向きは「東洋・中国・言語学者」で1899年~北京在住。
その著書内容は
「西太后は私財を増やす事にしか興味がなく、政治には参加していなかった。
 権力欲を阻む者は死を命じられた。云々」
この著書は世界各地でベストセラーになり、
やがて中国の皆さんもその内容を信じるようになっとの事です。
そして、これを全否定した著書が66年後に世に出るのです。
「A Hidden Life: The Enigma of Sir Edmund Backhouse」
(隠された人生~エドモンド・バックハウスの謎)
Hugh Redwald Trevor-Rope著 1976年刊
この著書でヒュー・トレヴァー=ローパーは
エドモンド・バックハウスについて彼は英国政府の秘密工作員(the secret agent)で
「西太后治下の中国」の著述の殆どがフィクション(創作物語)と暴露したのです。
この事案は検証され、ヒュー・トレヴァー=ローパーの指摘が今現在、事実となってます。
秘密工作員エドモンド・バックハウスは
政治的に西太后を悪女にしたい思惑があり、英帝国主義国家にとって必要だったのやも。
それから、更に、西太后悪女説を覆した方がもう一人存在します。 続く。
(尚、西太后は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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服飾ファッション危うし X II  中国確かに侵略された5?

2024-10-19 | ファッション
清王朝の宣戦布告後、戦いの最前線になったのは天津駅(清朝鉄道中心地)。
天津駅から都・北京に繋がる鉄道が敷設(1888年)されていました。
この駅が陥落すれば都が 列強の手に落ちかねません。
清軍・義和団軍・清の民は共闘、列強軍の進撃阻止の為、線路を35~40㎞に渡って破壊。
列強軍は自国民を保護し義和団を取り締まると云う名目の元、近くの農村で略奪の限りを
尽くした。北京へ行く迄の軍資金だと云って農民達のなけなしのお金を奪ったり、
食糧補給と云って大事な家畜を勝手に殺したりする暴虐ぶりに、農民達も我慢ならず
棒や包丁持って義和団軍と清軍と共に闘いに参加したとの事。
列強が北京に進軍するのを防ぐ為、天津の民衆は徹底抗戦。
抵抗を続けること約一ヶ月、しかし、それも空しく天津は列強軍に占領されてしまいます。
その後、列強軍は北京攻略、清王朝の王宮「紫禁城」を制圧・占拠・略奪。(1900/08/15)
そして、翌1901年9月7日8ヶ国連合軍に屈辱的な「北京議定書」を結ばされるのです。
その内容は莫大な賠償金支払(銀4.5億両 金利年4% 39年分割払 清の年歳入0.9億両)、
北京・天津を始めとする都市の各国公使館所在区域は公使館のみ使用・警察権保持、
大沽口砲台、及び、海岸から北京までの自由交通の妨げとなる砲台撤去等々。
一方、この条約により清朝の立場は一転、義和団を取り締まりを余儀なくされるのです。
又、列強軍が紫禁城に迫ると西太后は側近らと共に都・北京から脱出、西安へ。
この「8ヶ国連合軍の振る舞い」は、まごう事なき「侵略」ですわよ。
(尚、北清事変は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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