皆様におかれましては良いお年をお迎えの事と思います。本年も宜しく・・・・・。
本日より前回、昨年からの続きになります。
梁啓超は日本語、翻訳・和製漢語習得、和洋書物読破。その結果、聡明な彼は、
はたと、ご自分の生まれ故郷の国号(名)、及び、その歴史書がない事に気付くのです。
来日直後、彼の周りの日本人は「清王朝」を「支那」と記述・呼称していました。
この「支那」と命名されていたのは
新井白石が「西洋紀聞」に「支那」と表記、門外不出(禁教の為)の書が世に出た為。
*西洋紀聞
江戸中期の外国地誌。三巻。新井白石著。正徳五年(1715)の識語があるが、完成は白石
の最晩年とされる。伝道のため屋久島に潜入したイタリアのイエズス会宣教師シドッチを
訊問した時の質疑応答の記録。西洋諸国の歴史、地理、風俗と天主教(キリスト教)に関
する記述から成る。秘本とされ、公刊されたのは明治一五年(1882)だが、寛政五年
(1793)幕命により献上した後は、知識人の間に広まっていた。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
「むかしより支那の国 我法をきびしく禁せられ候へとも」(西洋紀聞 孫引き)
白石はかの国の地域名を記した平安初期空海が著した「性霊集」に依り「支那」と表記。
(中華王朝最初に統一した「秦」→印でチーナと発音→シルクロードで逆輸入仏典漢語で支那)
支那は印発音の漢訳漢語で私度僧の空海が「唐王朝」から持ち帰った漢語になります。
但し、支那は文化文政時代に世の人が知り普及するまで、「もろこし(諸越)」「から(唐)」
と呼び・云われていたのです。(例えば、かの国からの輸入高級品は「からもの(唐物)」と)
従って、この時節「支那」は一般庶民迄にもあまねく知れ渡っていたのです。
梁啓超も来日直後は自国名として「支那」を好んで使用していたとの事です。。
彼のみではなく、清王朝より日本亡命された方々、梁啓超の定期刊行雑誌を御覧になった
清朝在住の血気盛んな若者達もご多分に漏れませんでした。 続く。
本日より前回、昨年からの続きになります。
梁啓超は日本語、翻訳・和製漢語習得、和洋書物読破。その結果、聡明な彼は、
はたと、ご自分の生まれ故郷の国号(名)、及び、その歴史書がない事に気付くのです。
来日直後、彼の周りの日本人は「清王朝」を「支那」と記述・呼称していました。
この「支那」と命名されていたのは
新井白石が「西洋紀聞」に「支那」と表記、門外不出(禁教の為)の書が世に出た為。
*西洋紀聞
江戸中期の外国地誌。三巻。新井白石著。正徳五年(1715)の識語があるが、完成は白石
の最晩年とされる。伝道のため屋久島に潜入したイタリアのイエズス会宣教師シドッチを
訊問した時の質疑応答の記録。西洋諸国の歴史、地理、風俗と天主教(キリスト教)に関
する記述から成る。秘本とされ、公刊されたのは明治一五年(1882)だが、寛政五年
(1793)幕命により献上した後は、知識人の間に広まっていた。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
「むかしより支那の国 我法をきびしく禁せられ候へとも」(西洋紀聞 孫引き)
白石はかの国の地域名を記した平安初期空海が著した「性霊集」に依り「支那」と表記。
(中華王朝最初に統一した「秦」→印でチーナと発音→シルクロードで逆輸入仏典漢語で支那)
支那は印発音の漢訳漢語で私度僧の空海が「唐王朝」から持ち帰った漢語になります。
但し、支那は文化文政時代に世の人が知り普及するまで、「もろこし(諸越)」「から(唐)」
と呼び・云われていたのです。(例えば、かの国からの輸入高級品は「からもの(唐物)」と)
従って、この時節「支那」は一般庶民迄にもあまねく知れ渡っていたのです。
梁啓超も来日直後は自国名として「支那」を好んで使用していたとの事です。。
彼のみではなく、清王朝より日本亡命された方々、梁啓超の定期刊行雑誌を御覧になった
清朝在住の血気盛んな若者達もご多分に漏れませんでした。 続く。