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梁啓超 来日後、自国を「支那」と

2025-01-18 | ファッション
皆様におかれましては良いお年をお迎えの事と思います。本年も宜しく・・・・・。 
本日より前回、昨年からの続きになります。

梁啓超は日本語、翻訳・和製漢語習得、和洋書物読破。その結果、聡明な彼は、
はたと、ご自分の生まれ故郷の国号(名)、及び、その歴史書がない事に気付くのです。
来日直後、彼の周りの日本人は「清王朝」を「支那」と記述・呼称していました。
この「支那」と命名されていたのは
新井白石が「西洋紀聞」に「支那」と表記、門外不出(禁教の為)の書が世に出た為。
*西洋紀聞
江戸中期の外国地誌。三巻。新井白石著。正徳五年(1715)の識語があるが、完成は白石
の最晩年とされる。伝道のため屋久島に潜入したイタリアのイエズス会宣教師シドッチを
訊問した時の質疑応答の記録。西洋諸国の歴史、地理、風俗と天主教(キリスト教)に関
する記述から成る。秘本とされ、公刊されたのは明治一五年(1882)だが、寛政五年
(1793)幕命により献上した後は、知識人の間に広まっていた。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
「むかしより支那の国 我法をきびしく禁せられ候へとも」(西洋紀聞 孫引き
白石はかの国の地域名を記した平安初期空海が著した「性霊集」に依り「支那」と表記。
(中華王朝最初に統一した「秦」→印でチーナと発音→シルクロードで逆輸入仏典漢語で支那)
支那は印発音の漢訳漢語で私度僧の空海が「唐王朝」から持ち帰った漢語になります。
但し、支那は文化文政時代に世の人が知り普及するまで、「もろこし(諸越)」「から(唐)」
と呼び・云われていたのです。(例えば、かの国からの輸入高級品は「からもの(唐物)」と)
従って、この時節「支那」は一般庶民迄にもあまねく知れ渡っていたのです。
梁啓超も来日直後は自国名として「支那」を好んで使用していたとの事です。。
彼のみではなく、清王朝より日本亡命された方々、梁啓超の定期刊行雑誌を御覧になった
清朝在住の血気盛んな若者達もご多分に漏れませんでした。 続く。

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梁啓超 来日後、日本語と翻訳・和製漢語を猛勉強

2024-12-14 | ファッション
梁啓超生誕1873年~中華民国成立 清王朝滅亡1912年迄、先週整理しました。
今週は彼が日本に亡命した1898年以降のお話しです。
梁啓超は来日し、日本語を猛勉強する日々。
科挙に合格してますので、抜群の暗記力にて知識獲得等々はお手のもの。
会得後は吉田松陰・福澤諭吉・加藤弘之・徳富蘇峰等の書物は当然として
日本語に翻訳された海外の著作物(政治・経済・法律・歴史等々)も読み漁ります。
その時節の日本は「大政奉還」→「王政復古」→
「明治維新」→「文明開化」→「富国強兵」→「殖産興業」
を経て薩長政権は絶好調を迎えていました。
因みに上記の四文字熟語で「王政復古」・「文明開化」以外は「漢語」です。
大政奉還→てんかのまつりごとをおかえしもうしあげたてまつる
明治維新→明治これあらたなり 元号明治の典故は易経「聖人南面而聴天下 嚮
富国強兵→くにをとまし、へい(軍事力)をつよくする
殖産興業→とれだかをふやし、なりわいをおこしふやす
ところが、どっこい、王政復古・文明開化は「翻訳漢語」なのです。
restoration→王政復古、civilization→文明開化になります。
王政の漢語は帝(天下)の政(まつりごと)で復古は古(いにしえ)の形に復すこと。
文明の漢語本来の意味は文徳が明るく輝くこと。学問・教養があって人格が優れていること。
更に、国語(日本語)では後に技術・機械等の発達により世の中が進歩し便利になる意味に。
開化の出典は「大唐西域記」で人知が発達し思想・風俗の進歩すること。
上記の「翻訳漢語」は江戸末~明治に活躍した英傑らが
西洋語を既存の漢語に転換しました。他の事例は下記になります。
「翻訳漢語」の例 〈(=以降)は元来の漢語の意味〉
「state→国家(=王朝・政権)」「nation→国民(=百姓)」「revolution→革命(=王朝交代)」
「speech→演説《福沢諭吉訳》(=道理や意義を説く事)」
「liberty→自由《福沢諭吉訳》(=自分の思うままに振る舞う事)」
「society→社会(=集会)」「-ism→主義(=道義を行いの基準とする事)」

更に漢語には存在しない「翻訳創作漢語(和製漢語)」も編み出しました。
(《 》内は訳された方と組織)
「philosophy→哲学《西周》」「science→科学《福沢諭吉》」「bank→銀行《大蔵省》」
「和製漢語」の例は下記に。
「information→情報」「evolution→進化」「human rights→人権」「territory→領土」
「idea→理念」「category→範疇」「essence→本質」「concept→概念」「story→物語」
「creation→創作」「sensibility→感性」「design→図案」「content→内容」「sensitiv→敏感」
「time→時間」「space→空間」「background→背景」「market→市場」「consumption→消費」
「dictatorship→独裁」「resistance→抵抗」「avant-garde→前衛」「party→政党」
「policy→政策」「group→集団」「election→選挙」「common sense→常識」等々

更にさらに、全くの「創造漢語(和製漢語)」も
方針 場所 日程 特長 敵視 単純 成員 人選 支配 事態 作者 財閥 故障
公認 原作 権限 系列 金額 記号 簡単 学歴 入口 狂言 軍部 克服 歌舞伎
等々、夥しい数の和製漢語が生み出されたのです。
(上記翻訳・和製漢語は「漢語外来詞詞典」劉正談ら著 1984年上海辞書出版社刊に収録済。)

梁啓超は翻訳漢語には若干違和を覚えるも、和製漢語に新鮮さを感じたのでは?
 続く。
それでは、本日にて2024年最終投稿に致します。
皆様におかれましては良いお年をお迎え下さいませ。 それでは、又。

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清王朝 ⇒ 中華民国 梁啓超の登場

2024-12-07 | ファッション
先週、清王朝は王朝名であり主権国家名で無い事に気付き、国家名を提案した方が
出現しました。そのお方は「梁啓超」(リョウケイチョウ1873~1929)。
(但し、この時点で主権国家の概念がお分かりであったかは、定かではありません。)
1873年01歳 広東省広州府新会県にて生まれる(現在の広東省江門市新会区)
1889年17歳 科挙地方試験(郷試)合格
1890年18歳 康有為と会う 以後、彼の一番弟子
1894年7月 日清戦争勃発(7/25~1895/4/17)
1895年23歳 日清講和条約(下関条約)に対する講和拒否運動、政治結社強学会 書紀
 強学会入会者には英宣教師Timothy Richard ティモシー・リチャード中国名 李提摩太(リテイマタ)、
 袁世凱(エンセイガイ1859~1916大清帝国第2代総理→中華民国初代大総統)等々
 康有為・梁啓超を中心としたこの結社が清王朝の伝統的政治制度を改革する「変法運動」
 となり(君主専制→立憲君主制・富国強兵・科挙→洋式学校等)「変法」党派に
1897年11月 山東省で鉅野事件
1898年26歳 光緒帝の変法新政「戊戌の変法」作動も8/6袁世凱の日和りであえなく没
 身に危険が迫った康有為・梁啓超は逃走 各々別々に9月日本に亡命を果たします
 梁啓超は11月横浜中華街を拠点に早速、持論等々を記した「清議報」を刊行
1900年6月 北清事変勃発 1901年9月屈辱的な北京議定書
1901年29歳 「中国史叙論」
1902年30歳1月「新民叢報(シンミンソウホウ)《新民説 新史学》」半月刊誌発刊(~1907年)
1904年2月 日露戦争勃発(1904/20/8~1905/9/05)
1905年8月 東京にて中国革命同盟会(→中国同盟会)結成 孫文・黄興・汪兆銘ら「民報」
 隋王朝から始まった官吏途用制度「科挙」廃止
1911年10/10 武昌蜂起(現 湖北省武漢市)辛亥革命の発端
1912年01/01 南京にて孫文国民主権国家「中華民国」成立宣言 梁啓超数え40歳
 続く。

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清王朝 ⇒ 中華民国1912年

2024-11-30 | ファッション
「服飾ファッション先行き危うし」シリーズ展開から西太后まで語ってしまいました。
その清王朝の末裔?「中華人民共和国」(英語表記People's Republic of China)が
ここのところ、とみに危うい状況に陥ってます。
(但し、共和国とは主権が国民、国民が選んだ代表者が政治を行う共和制をとる国家。
 かの国の代表者(指導者)は直接・間接選挙を経てませんので、
 従って上記には当てはまりません。独自の民主制と云われればそれ迄ですが・・・・・。)
一方、日本では国交を結んだ1972/9以降、
中華人民共和国(1949/10~)を略して「中国」と表記してます。
又、「中華民国」(英語表記Republic of China)は
1912/1/1(清王朝宣統帝7歳退位滅亡1912/2/12)からの呼称で現在は通称「台湾」と。
こちらの指導者は直接選挙で選ばれてますので、まごう事なき「共和制(国家)」です。
この二つの「中国」についてはここでは触れずに置いてきます。
「中国」と云う近代国家名は、ほんの112年の歴史しか持ちません。
とは云うものの、中国という漢語は紀元前から存在しています。
基本的には「中華(天下の中心)」と同じ意味合いです。
因みに、
「夏」→「殷」→「周」→「秦」→「漢」→「魏」→「晋」~「隋」→「唐」~「清」
これらは「王朝名」で(主権)国家名ではありません。
(「国家」と云う漢語は王朝・政権との意味合い。)
先に記した「近代国家」は概ね「国民国家(Nation-state)」と同じになります。 続く。

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服飾ファッション危うし XVI  西太后悪女に非ず4

2024-11-23 | ファッション
西太后の豊富な政治経験がこれは外交の罠だと見抜かせたのでしょう。
絶対に計画を進めさせてならない。
だから最も効果的な方法として光緒帝を幽閉したのですよ。
又、近年判明した光緒帝の毒殺(1908)についても西太后の高度な政治的判断でしょう。
西太后は自分の亡き(1908)後、光緒帝が復権して計画を再現する事を怖れていたのだと
思います。光緒帝に清王朝を任せる訳にはいかなかった。
光緒帝の死は西太后の苦渋の決断だったと思います。と博士は推・考察してます。
中華王朝歴史上、これだけ長い期間、政権を担っていた女性は存在しません。
夫・咸豊帝崩御(1861年 西太后26歳)~西太后崩御(1908年11月15日 74歳)
崩れそうになった清王朝を約50年に渡って支え続けた西太后、
傑出した素敵な女性でありませんか? 彼女は決して「悪女」ではございません。
もし、それでも悪女をおっしゃるなら、そ・れ・は嫉妬以外の何ものでもありません事よ。
西太后は「北清事変」の後、諸般の事情を鑑み、
秦の始皇帝による中原(華北)・江南(華中・華南)統一王朝から2100年以上連綿と続いた
「王朝制(皇帝制)」におさらばし、「立憲君主制」を導入する事を決断。
その手始めとして憲法作成作業、官吏を列強に派遣(英・米・仏・独・墺・日など)調査、
「憲法大綱」が制定され1908年8月1日にお披露目・宣布されます。
君上大権
一条 大清皇帝統治大清帝国 万世一系 永永尊戴
(大清皇帝は大清帝国を統治し、万世一系、永永尊戴す。)
二条 君上神聖尊厳 不可侵犯(君上の神聖なる尊厳は侵犯すべからず。)
一方、大日本帝国憲法(1889/2/11公布)
第一章 天皇
一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
何処か似ていると思われません?
又、大清帝国の「帝国」は和製漢語です。漢語には元々「帝国」は存在しません。
清朝官吏は日本製漢語(和製漢語)も取り入れているのです。
この「帝国」はこの当時、「帝国主義国」と云う意味合いでなく、
文武帝(683~707在697~707)~明治帝初期迄は「帝を戴く国」「帝が治める国」です。
(但し、1895/4/17(下関条約)~1945/8/15迄は日本も「帝国主義国家」でした。)
清王朝は憲法作成と同期して1910年国会開設も段取っていました。
しかし、西太后は亡くなり、ご自分の目で見る事はできませんでした。
西太后他界3年ちょい後1912/1/1南京にて中華民国臨時政府樹立 2/12幼少宣統帝退位。
(尚、西太后は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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服飾ファッション危うし XV  西太后悪女に非ず3

2024-11-16 | ファッション
それから3年(1898年)、
李提摩太(ティモシー・リチャード)は北京で急速に交流を深めていた人物がいました。
その人物は康有為(1858~1927)。彼は5月に隠居した西太后から権力を譲渡され
士庶なく実力主義で官僚途用を標榜する光緒帝に抜擢された改革派のリーダーを努める人物。
康有為の日記には李提摩太の名前が数多く登場します。
博士は李提摩太が一度却下された計画でも康有為・光緒帝なら云う事をを聞いてくれる
のではと予感していた時、それを示す史料を発見したとの事です。
これこそ「戊戌の政変」の原因であると。
康有為の右腕の一人楊深秀(1849~1898 戊戌六君子)が書き残していた文集、
その中の上奏文に李提摩太の名前が記されていたのです。その上奏文、
「英国の牧師、李提摩太が我が国の為に策を教えてくれました。
 今の困難を脱するために我が国は英・米(美)・日と深く結(連)びつくべきです。
 牧師も欧の名士でありますが、まとめ役として相応しいのは日本の伊藤博文と
 云っております。そして彼は今ちょうど旅行で来ており、会えるのです。
 皇帝陛下ご決断の時です。躊躇(ためら)ってはなりません。
 これこそ天下の未来が見える道なのです。」
李提摩太は3年前の失敗から伊藤博文を巻き込もうとしたのでしょう。
日本にはメリットがあるから、断らないと考えたのでしょう。
8月5日光緒帝はついに助言を受け入れ、伊藤と紫禁城で面会、
全ては李提摩太の計画通りかと思われました。
しかし、この前日8/4、西太后は隠居所の頤和園から紫禁城に駆けつけていたのです。
この計画は事前に発覚していました。改革派に冷遇されていた保守派の官僚が密書を
西太后に、したためていました。(8/3)
「伊藤博文に清朝の政権を握らせようと云う計画が噂として広がっております。」
西太后は光緒帝・伊藤博文会見の翌日8月6日、光緒帝を幽閉するのです。
これにて李提摩太の計画は泡と消え去りました。 続く。
(尚、西太后は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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服飾ファッション危うし XIV  西太后悪女に非ず2

2024-11-09 | ファッション
西太后悪女説を覆した方は「台湾師範大学 雷家聖博士」(1970~)。
「戊戌の政変(1898/08/06)」で西太后64歳が光緒帝28歳を幽閉する事態に陥ったのは
「清朝の英保護領・植民地計画」を阻止する為。
清朝に英国から派遣された表向きは宣教師、Timothy Richard ティモシー・リチャード(1845~1919)
中国名 李提摩太(リテイマタ)、裏向きは英国公使館為に仕事をしていた牧師の仕掛け計画。
雷家聖博士の著書
「『Power to Save the Day: A New Exploration of the Hundred Days' Rebellion』
(失われた真実 清末百日の乱史の新探求)台北 萬年老書社 2004年」で、
彼は多大な史料収集、それらの資料文言を確認、推量・論理展開されてます。
以下はNHKインタビュー等の内容から。
博士も最初は流布されていた「西太后悪女説」を信じ
「戊戌の政変」は西太后が悪いと思っていましたと。
しかし、分析を進めるうちにどうも違うと気づいたのです。
博士が注目したのは
1898年8月5日、紫禁城で伊藤博文と光緒帝が会見した出来事。
日本侯爵伊藤博文は明治維新の立役者です。
当時、伊藤博文は総理を辞任したばかりで漫遊と称して清朝を訪れていました。
(「続 伊藤博文秘録」〈春秋社版〉)これに光緒帝との会見の様子が記してまります。
「何日位、いる予定か。我が国は改革を望んでいる。助言があれば是非お願いしたい。」
交わされたのは社交辞令のみ。この翌日1898年8月6日光緒帝幽閉事件の発生。
後に、伊藤は妻の梅子さんに「何が起こっているのかわからない」と戸惑いを伝えてます。
事件前日の面会はあくまでも偶然と思われていました。
伊藤は会う予定でないにも関わらず、光緒帝の希望で会ってます。
なぜ、光緒帝は伊藤に合ったのか?裏に何かがあるのではないかと思ったのです。
博士は散逸していた当時の史料を徹底的に収集・分析、その結果、ある国際的な謀略が
あった事をあぶり出しました。
政変2ヶ月前、1898年6月の改革派の官僚、洪汝冲の光緒帝に対する嘆願書(上奏文)。
これが謎を解くきっかけになりました。これが伊藤博文に最初に言及した文書です。
「改革を推進する為、欧から有能な政治家を招いて指導を仰ぐべきです。
 ちょうど伊藤博文が旅行に来ます。是非皇帝陛下の権限で北京に留め各国政治家の
 まとめ役として下さい。」
その3年前、同じような提案をしている人物を発見、李提摩太(ティモシー・リチャード)です。
1895年李提摩太は清朝政府に「新政策」を提言、そこには、
「改革の為、(清)政府の半分は(西)欧人を迎えるべき、私も実力を十分持ってます。
 財務関係の仕事のまとめ役としてお力添えできると思います。」と。
親切のように聞こえますが、これは典型的な英国のやり口です。
かって印でも近代化の顧問と称して英人を送り込み植民地にしました。
当時、権力を握っていた西太后は即座に却下、取り上げませんでした。
(さすが百戦錬磨の為政者では?) 続く。
(尚、西太后は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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2024年ヒット商品1位は新NISA&「オルカン」

2024-11-02 | ファッション
10/31日経トレンディ・日経XTRENDOから
「2024年ヒット商品ベスト30」が発表されました。
(対象期間 2023/10月~2024/9月)

衣料部門から今回めでたく?2点エントリー。吸湿速乾下着とGUジーンズ。

■2024年ヒット商品ベスト30

2024年 01位 新NISA&「オルカン」投資 「財IT」
2024年 02位 大谷翔平売れ 「遊」
2024年 03位 Vポイント  「混IT」
2024年 04位 「リードルショット」シリーズ 「美」
2024年 05位 名探偵コナン 100万ドルの五稜星 「健」
2024年 06位 キリンビール 晴れ風 「食」
2024年 07位 スイカゲーム 「遊」
2024年 08位 シンカトリ 「健」
2024年 09位 Temu 「混IT」
2024年 10位 メルカリ ハロ 「遊IT」
2024年 11位 未来のレモンサワー 「食」
2024年 12位 劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦「遊」
2024年 13位 もちっとおいしいスパゲッティ 「食」
2024年 14位 アセドロン 「衣」
2024年 15位 鰻の成瀬 「食」
2024年 16位 トイレマジックリン こすらずスッキリ泡パック 「健」
2024年 17位 Osmo Pocket 3 「遊」
2024年 18位 バレルレッグジーンズ 「衣」
2024年 19位 ゴリラのひとつかみ 「健」
2024年 20位 クロスブレンドカレー 「食」
2024年 21位 エッセンス スキングロウ ファンデーション 「美」
2024年 22位 薄皮たまごぱん 「食」
2024年 23位 アサイーボウル 「食」
2024年 24位 コリコランワイド 「健」
2024年 25位 忍者めし 鉄の鎧 「食」
2024年 26位 SHIBUYA TSUTAYA 「遊」
2024年 27位 JRE BANK 「財IT」
2024年 28位 魔法のかまどごはん 「食」
2024年 29位 布製ランドセル 「健」
2024年 30位 アライ 「健」)

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服飾ファッション危うし X III  西太后悪女に非ず1

2024-10-26 | ファッション
「戊戌の政変」で西太后は「中華王朝で悪女の中の悪女」とされました。
何と、これが1976年に覆されたのです。
西太后(1835~1908)が「悪女中の悪女」と祭り上がられたのは
「China under the Empress Dowager」(西太后治下の中国)
J.O.P. BLAND(英ジャーナリスト) AND E. BACKHOUSEの二人の共著 1910年刊
この著書に依るものです。
これが世界初の西太后についての伝記になるとの事です。
著者の一人、E. BACKHOUSEはEdmund Trelawny Backhouse(1873~1944)。
彼は英国の表向きは「東洋・中国・言語学者」で1899年~北京在住。
その著書内容は
「西太后は私財を増やす事にしか興味がなく、政治には参加していなかった。
 権力欲を阻む者は死を命じられた。云々」
この著書は世界各地でベストセラーになり、
やがて中国の皆さんもその内容を信じるようになっとの事です。
そして、これを全否定した著書が66年後に世に出るのです。
「A Hidden Life: The Enigma of Sir Edmund Backhouse」
(隠された人生~エドモンド・バックハウスの謎)
Hugh Redwald Trevor-Rope著 1976年刊
この著書でヒュー・トレヴァー=ローパーは
エドモンド・バックハウスについて彼は英国政府の秘密工作員(the secret agent)で
「西太后治下の中国」の著述の殆どがフィクション(創作物語)と暴露したのです。
この事案は検証され、ヒュー・トレヴァー=ローパーの指摘が今現在、事実となってます。
秘密工作員エドモンド・バックハウスは
政治的に西太后を悪女にしたい思惑があり、英帝国主義国家にとって必要だったのやも。
それから、更に、西太后悪女説を覆した方がもう一人存在します。 続く。
(尚、西太后は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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服飾ファッション危うし X II  中国確かに侵略された5?

2024-10-19 | ファッション
清王朝の宣戦布告後、戦いの最前線になったのは天津駅(清朝鉄道中心地)。
天津駅から都・北京に繋がる鉄道が敷設(1888年)されていました。
この駅が陥落すれば都が 列強の手に落ちかねません。
清軍・義和団軍・清の民は共闘、列強軍の進撃阻止の為、線路を35~40㎞に渡って破壊。
列強軍は自国民を保護し義和団を取り締まると云う名目の元、近くの農村で略奪の限りを
尽くした。北京へ行く迄の軍資金だと云って農民達のなけなしのお金を奪ったり、
食糧補給と云って大事な家畜を勝手に殺したりする暴虐ぶりに、農民達も我慢ならず
棒や包丁持って義和団軍と清軍と共に闘いに参加したとの事。
列強が北京に進軍するのを防ぐ為、天津の民衆は徹底抗戦。
抵抗を続けること約一ヶ月、しかし、それも空しく天津は列強軍に占領されてしまいます。
その後、列強軍は北京攻略、清王朝の王宮「紫禁城」を制圧・占拠・略奪。(1900/08/15)
そして、翌1901年9月7日8ヶ国連合軍に屈辱的な「北京議定書」を結ばされるのです。
その内容は莫大な賠償金支払(銀4.5億両 金利年4% 39年分割払 清の年歳入0.9億両)、
北京・天津を始めとする都市の各国公使館所在区域は公使館のみ使用・警察権保持、
大沽口砲台、及び、海岸から北京までの自由交通の妨げとなる砲台撤去等々。
一方、この条約により清朝の立場は一転、義和団を取り締まりを余儀なくされるのです。
又、列強軍が紫禁城に迫ると西太后は側近らと共に都・北京から脱出、西安へ。
この「8ヶ国連合軍の振る舞い」は、まごう事なき「侵略」ですわよ。
(尚、北清事変は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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