近代は合言葉のように「効率化」をよく耳にする。
効率がいいことが正義、求める社会の如く叫んでる。
「無駄を省くこと」、「効率化重視」の時代は一つ狂えば「余裕のない人間」環境を作り出す。
命の尽きるまで働け!
と、それは死ぬまでこき使われる奴隷の環境ではなかろうか?
そこを求める目標にしてませんか?
機械ならば24時間、愚痴も言わず主体の存在時間を気にせず動き続けられる。
同じように、そういうことができること、あるいは人、が求めるものであるかの如くに唱えてる気がします。
その意識では、現代社会構造の中では、人の人生は既に無いものと同然に感じます。
それに対して、余裕の必要性を唱えてみると、罵詈雑言が返ってくる。
「時代に逆行する!」
「時代錯誤!」
「昔に戻る!」
それを声高に発信するSNS。
そこを批判対象として叫ぶ世論。
あるいは、「一番でないと、世界の経済戦争に負けてしまう」ということなのだろうか。
今の時代は狂ってるから、経済、言い切るとするならば「お金」であろう。
お金は、かつての貨幣、紙幣から、「情報幣」に変化したと感じます。
個人所有の価値財産が情報として登録された次元がある。
そこが、銀行の持つ情報サーバーの中だった。
ソレ(情報幣)が、いわゆるグローバル化の声によって、インターネット空間につながった。
そうなると、別の次元が誕生し、その情報が自己の生活を支配するようになった。
世界と繋がってるから、「一発当てればあなたもイーロンマスクになれる」かな?
世界は危険がいっぱいの大海原ですよ。
一発で当たることもあれば、一発で死ぬこともあるのでは?
言うなれば、「危険な博打」ですな。
まぁ、とどのつまり
個人を重視するならば、狭い空間で生身の仲間だけの生活で 十分幸せで生きていける気がしますが、いかがでしょう。
世界とつながらないと生きていけない?
時代遅れ?
「で、ソレが何?」
である、と言いたい。
さらに世論に対して私が言いたいのは、昔に戻ったところで
「それでイイ」
「それこそ本来の自分で居られる生活だろ」
と。
或いは、昔から言われ続けてる「ハンドルの遊び」理論を理解することは決して間違ってないと思いますけれどねぇ。
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