車でついつい急いでしまうのは人と比較するからである。
道を走っていて馬や豚や牛がいても、これは危ないから止まらねばと思う。
けれども、前をトロトロ走っている車がいるとイライラする。
そこには人が関与するところに違いがある。
つまり他の人と比較をするからである。
他の人と比較するという事は、他の人の感情を意識するからである。
押しボタン信号を誰かが押して車を止めればならなくなった時、その時に押しボタンを押した人がお菓子を食いながらゆっくりと横断歩道を渡っていたりすると腹が立つ。
たとえ急いでいなくても、スムーズに前に進めないと言うことに感情的になり、怒りがこみ上げてくることがある。
つまりは人、他人を意識することから発生している感情だろうと思う。
それは他人の感情を察知し、比較しようとするその辺に原因がありそうな気がする。
例えば、他人が面倒なことに遭遇をして困っている人だと助けてあげたくなる。
それは自分と他人を比較して、自分の方が優位に感じるからである。
逆に、他人の方が優位に感じると、そこに怒りがこみ上げてくることがある。
焦りの感情もそういうところから来るような気がする。
車を運転しているときに、他の車がどんどん先に行ってしまっていても、その車を運転しているのが人ではなく、ただの風の流れだとか木の葉が飛んでいるとか、牛や馬が走っているとか、そういう別のものであれば まぁ感情的になる事はないと思う。
つまり、そこに人がいるからであり、その人の感情を自分が察知するからであろう。
自分の車をどんどん追い越す人がイカつくて、人相の悪い凶暴な人だったとしたら、別の感情になるような気もする。
日本には他人の気持ちを察知しろ、という社会的な風潮がある。
しかし、それは諸刃の剣である。
おそらく他人の感情を察知するというのは、少し目的とずれている気がする。
他人の希望を察知したとしても、それを感情として受け取ってしまうと、結局は自分のためにならないと思う。
他人の希望を察知するのを、そこに人ではなく、自然の脅威を察知するのと、同じような次元で捉えた方が良いような気がする。
人の感情を自分の感情で察知してはならないということになる。
人の感情から希望することを読み取り、その上で自らするべきこと、あるいはできることを考える。
そこまでのことで完結する方が良いと思う。
大自然の脅威はとても大きい。
大地震が来て、自分が身を滅ぼすようなことになったとしても、それを感情で捉える事はないと思う。
そういう場合は感情ではなく、やむを得ない身の危険や肉体的な恐怖にたどり着くと思う。
大地震が起きて、その地震に対して「このやろう!」「なんてやろうだ!」と思う事は無い。
あぁ怖い大変だ、いやだいやだ、で終わる。
感情に対して、感情で答えてはならない。
そこにあるのは、大自然と、同じく、いわゆるやむを得ない自然現象であり、成り行きでしかない。
焦りが生じたときに、そういう感覚を持つべきであろうと思うのである。
つまりは、感情ではなく、感覚で受け取ろうと言うことにつながる。
養老猛司さんが言ったように、意識優位ではなく、肉体優位が結論になる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます