ネットの誹謗中傷は私見を表現する事が最初の行動として見えます。
自分自身の意見のことです。
自分が感じた事をありのままに書く。
まぁ、時々悪意を感じる文章もあります。
そもそも活字です。
まぁ、画像もありますが、そこには何か表現したい何かがある。
また、売名的な行為がある物やただの面白おかしさを表現したものもある。
いずれにしても個人の思いをそのまま表現するところがあると感じます。
もしそれ一切排除して表現すると、事実だけを文章にしただけ、あるいは、多くの人が既に見たことのある画像や動画などになる。
しかし、既に見飽きた画像を何度も何度もアップすると、それも或いは批判の対象になる可能性もある。
しかし、何度もアップするならば、そこに何らかの意志がある様に思う。
つまり、事実だけを自己意識なしに表現する行為だけに絞れば、誹謗中傷は無くなる方向に向かう。
ただの現実、事実を誹謗中傷しても意味はないから。
現状だけの差し障りのないニュースを書き込むこと。
それだけになるならば、それは機械でできる。
ただの機械でできる。
AIはインチキだ、と森永卓郎さんは言いました。
まぁ、そんなものかもしれない。
意志がないなら、そう言える気もする。
意志が無い。
痛みを感じないことと同じ世界な気がするから。
喜怒哀楽を感じるAIをAIとするならば、使い方が危なくてしょうがない。
猛獣と同じではないですか?
従って、昨今のネットの誹謗中傷は人々が人間的行為を否定して、機械的な生活に向かってる様に思うのであります。
人間が生きる行為に存在するあやふやな意識を否定したら、そこには機会がただ動くだけに世界に落ち着きませんか?
そんな印象を感じるのであります。
自己の感じた事であっても、そこに他人を持ってくるならば、何らかの配慮があるでしょう、おそらく。
その配慮の程度は人様々ですから、その人の配慮レベルまで指摘するならば、それを指摘した自己の配慮も問題となる。
そこだけで終わればいいのですが、それ以上に誹謗中傷が誹謗中傷をよぶ。
堂々巡りの争いにしかならない。
そこを無くすのは、結局は無機質な世界にたどり着く気がします。
有るが儘、為すが儘、仏教思想はそのへんの人の姿を顕してるんでしょうな。
機械に宗教の意識ができたらそれは既に人ですな。
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