6月12日
また、快晴の朝が開けた。3日連続の青空で、空気はカラッとしている。昼は日差しが熱いほどだが、日陰は涼しいし、朝晩は快適で過ごしやすい。ハワイの気分だ。ベランダに出て湾を望むと、HSBCの旧長崎支店の背後に巨大なマンションのような客船が停泊している。昨日は、なかった。上海を経由してくる最大の客船だという。
ANAクラウングラバーヒルホテルの2日目の朝。と言っても、あとでチャックアウトするのだが、今朝は朝食付きを予約しているので、午前6時を待って2階のダイニングへ降りていった。先にフロントで、自宅に配送する小さな荷物を手続きしたのだが、ダイニングでは1番だった。
流石にANAホテル。ダイニングの座席はゆったりしているし、朝食バイキングは980円の佐野温泉昼食バイキングとは比べようもない豪華な雰囲気があった。2000円もするのだから仕方がない。もっとも、すぐに白米と味噌汁をお盆に乗せて、一口サイズの生の辛子明太子を3切れ、漬物や卵焼きに焼き魚の小さな切り身などを小皿に乗せていくのだから、ハムやベーコン、ウインナーなどの洋食系も様々なドレッシングを用意した野菜系やジュース類も見向きもしないので、結局、自分の皿の上とお腹には、佐野温泉の昼食バイキングより「貧相」な事になる。贅沢といえば、白米を少し追加し、明太子をもう一切れ、とってきたことぐらいだ。
学ぼうではないか、ボケ老人! 金沢のANAホテルで数えきれぬほど回数を重ねて、朝食バイキングに金を捨てている。ましてや、当時より胃袋も老化しているのだ。200円か300円で十分な朝食になるのだから、その10倍も金を捨てることはない。
部屋に戻ってうとうとしていると、ベランダ下の坂道から大勢の人たちのおしゃべりが延々と聞こえてくる。巨大客船から、無数の異国の観光客が流れのように続いている。
今日はカーネル氏が車を用意して、9時半に迎えにきてくれるという。ボルト氏は山の上の自宅からホテルが近いので、歩いて待ち合わせる。まだ少し、朝寝が出来そうだ。
東明山「興福寺」は、元和6年(1620年)に長崎在住の中国人によって創立された、国内最初の「黄檗禅宗」の唐寺。「おうばくぜんしゅう」という言葉さえ耳に新しい。
唐寺と言われれば、納得する。お寺の雰囲気が、日本のお寺とまるで違う。寺の内部も非常に質素で、第一安置されている仏様も違うのだが、仏教に違いはない。江戸幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎在住の中国人にも疑いがかかり、仏教徒であることを示すために建てられたという。
黄檗宗の開祖は隠元禅師。言わずと知れたインゲン豆を日本に持ち込んだ人。黄檗宗は日本の建築、彫刻、絵画、書、茶、料理に多大な影響を与えたという。確か、通称、紫陽花寺とも言われて親しまれているはず。
佐伯泰英の時代小説「交代寄合伊那衆異聞」のシリーズの中に、長崎が海に街にふんだんに出てくる場面がある。読み始めたらやめられない面白さのある娯楽本だが、長崎の歴史や地理を知る上では、これほどお気楽な読み物はない。そこに興福寺が出てきたと思う。せっかく買った文庫本シリーズだったが、整理してしまったので手元にない。残念。
私に与えた影響は甚大である。この興福寺の前の下り坂。あの謎の果樹が、いまだに不明で私の好奇心は深まるばかり。
3人は興福寺の前に、ちょっとだけ、私の要望で孔子廟を覗いたのだが、高い入館料を取られただけで、新しい陶器の中国偉人の人形はなかった。「福星人」という名前の人形一つ、名前に興味を覚えて買って、カーネル氏の車の中に放り込み、早々に孔子廟を出た。中国人が大量に観光にやってくる長崎で、中国土産を大量に並べていても、売れるはずもない。日本の土産だって、中国製という時代だ。
3人は出島ワーフに出向いて、昼食を取ることにした。「トルコライス」? 初めて耳にする言葉だが、昔のレストランの洋食の余り物を寄せ集めたようなごった混ぜライスのことで、「ちゃんぽん(混ぜること)」の好きな長崎人メニューだ。ハイセンスで口の肥えた北陸人に流行ることはないだろう(ほほほ)。
馬鹿話をしている間に、14時55分発のフライト時間が刻々と迫ってくる。長崎市内から大村湾の長崎空港まで、車で小一時間、最低でも40分はかかる。搭乗手続きや空港での土産を考えると、1時半までには長崎の街を後にしなければならない。昼食後、カーネル氏の一人暮らしの自宅マンションに寄って、私たちは空港に向かった。
勝手に仏壇を解体して燃やしてしまうような人間だから、飛行機でも落ちて、今生の別れになるかもしれないと思ったのだろうか、二人は、土産売り場から出発ゲートまで見送ってくれた。
ありがとう。まるで3人で旅行していたほど、付き合ってくれたのだ。おかげで、私はめちゃくちゃ楽しく、気楽に過ごすことができた。ありがとう、また、会う日まで。
ANAの784便、後部座席で手足を伸ばして、あっという間に私は長崎を後にした。