城郭 長谷川博美 基本記録

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城郭の基本 堀の内 丸の内

2021-04-27 03:23:16 | 城址見学会予定 
城郭ビイスタ論 上文字クリック

北近江城郭鳥瞰図 上文字クリック

城郭の基本 堀の内 丸の内

◆アドバイス「助言」
前項「羽柴秀吉 賤ケ岳合戦 田上山城北外郭
の考察と小屋論」も併せてお読み下さい!

◆質問者
堀の内の意味って何ですか?

◆長谷川
堀の内側が城であると言う事!

◆質問者
丸の内の意味とは何ですか?

◆長谷川
城内を丸と言います。丸の内地名
は全国の城に多数あります。〇の
中心は⦿です。車輪〇の中心も⦿
です。弓道で的の中央に矢が当た
る事を的中「てきちゅう」と言う。
的の中心に当たる事が的確の語源。

◆質問者
長浜市余呉町東野山城の主郭はどこ?
長谷川先生に的確な解答を願いたい!


◆長谷川
城の基礎知識、堀の内から、勉強しましよう。
正論や常識として、2月の節分では、福は内!
鬼は外と言うのが常識です。城址の場合でも
堀は外!土塁は内!つまり城内側が原則です!
また現代でも外堀を埋めて掛かるという言葉
も残っており内堀と外堀を認識する事が来本。

◆みんな
そんな事、全国津々浦々の人々も知っている常識!

◆長谷川
東野山城も当然ながら「堀」は城外を意味します。
従って現在東野山砦の石柱のある場所が主郭では
なく二の郭や外郭に相当する事は当然城郭の常識!

◆長谷川
検証の為現地の堀の写真断面を見ましよう!
先ずは外郭 二の郭の 外堀と土塁を見学!

下写真の如く丹生谷や摺墨方面を意識して
土塁を本当80度近い急角度で普請してます。
これ丹生谷を東野山が警戒した城と言える。
丹生谷に関する秀吉の文書も確認できます。

◆みんな
すげえーこれが本当に400年前の城の壁?
生々しく残ってる事自体が真実現実です!

◆一般様
ふん!?そんなの400年前の遺跡が残る訳
が絶対ない!見られるならば見たい物だ!

◆長谷川
400年前の砦がどのようなものか最初から
絶対にないと決めてかかる事は軽率な人間
の先入観であり決め付けの心理が働いてい
ます。最初から否定するのではなく実際に
残っているのか自分の目で確認する事こそ
城址見学の根本であり向学心でもあります。

◆長谷川
次に東野山城の中心部である内堀と主郭本丸
の写真を確認しましょう!やはり東丹生谷へ
向けて内堀を掘削してる様子が解りますね?

◆みんな
そうだ!そうだ!全国の城郭愛好家は堀の内こそ城内
である事くらい社会全体が知ってる!それ基礎の常識!

▼非常に明確な東野山城の土塁!令和3年5月15日見学会!

◆みんな
何故?東野山の本丸、主郭が掃除してないの?まさ
か?外郭を本丸と誤認し石柱を立て掃除した訳かな?

◆みんな
長谷川先生!令和3年5月15日にもう一度東野山城
本丸を是非とも見学したいのですが?如何ですか?

◆長谷川
5月15日にも、東野山城は、再見学を致します!
①摺墨砦②久太郎小屋砦③東野山城と3城見学!

▼東野山城見事な丹生谷を意識した竪堀と土塁。

◆長谷川
東野山城は何故丹生摺墨方面を意識して明確な
な竪堀や竪土塁を構築してるのか?皆様方、で
考えてみて下さい!彦根城に存在する登り石垣
や竪堀のルーツは決して文禄慶長の役の影響で
はない日本の中世城郭から連絹として継承され
てきた日本の城郭遺跡の伝統文化で敵が山尾根
を横渡りする事を阻止するの施設である事は城
跡を冷静に現地見学している日本全国の皆様は
充分に知っておらます。先の4月10日と4月24日
の米原市磯山城でも壮大で見事な竪堀をみんな
で見学した記憶は新しいと思います。現場に行
かず図書館で城郭図書を例え1000冊読んでも真
の城郭学習出来ません。空論よりも現場が大切!
▲米原市磯山城の巨大立堀ものすごい迫力の現実!

◆みんな
石垣の城見物から入った人は総じて土の城からは
目離れする。城は石垣ではないルーツは土木工事。

◆長谷川
秀吉は余呉や丹生を強く意識した証拠がある。
羽柴秀吉が残した『称名寺文書』下知状には
★丹生の文字か文献として明確に提示されてる。

「致敵陣取急度出馬おしつむべく候。定北国者
はいくんたるべく候。然時は、余呉、丹生其外
在在所所の山々に、かくれいる土民百姓以下、
ことごとくまかりいで、後をしたい、ちゅうせつ
をはげまし、くびをとるともからにをきては、
あるひは知行をつかはし、あるひはたうざのいん物
を可出、もしのぞみの儀あらば、しょやくめんじょ
すべく候。此むね相心得、申しふれらるべき者也。
仍如件
  天正11年3月15日    筑前守 秀吉(花押)
   称名寺

◆質問者
城郭の本城、出城、端城の意義を教えて下さい。

◆長谷川
要するに今回は東野山から北の支城網と言う事に
甲賀郡中惣で言う「手端の城」が摺墨砦に相当。
◆長谷川
ブドウは一房の複数果実がブドウの本質です。会社も
本社、支所、営業所、などに分割されたりする事など
は人間社会の普遍的社会構造も同じです。東野山城を
中心とする出丸、出城、端城の見学は数えきれない群
をなしている城郭群と言えます。天正11年織田家筆頭
家老、柴田勝家の敗因は東野山城郭群を攻略落城させ
る事が出来ず甥佐久間玄蕃の分隊と合流不可能だつた
事に尽きる。一方秀吉は石田佐吉「三成」を称名寺に
派遣して柳ケ瀬の柴田勝家本陣内中尾山城「玄蕃尾城」
を偵察させています。

◆秀吉と真宗教団と山の民の民俗学的考察
天正10(1582)年の本能寺の変の直後、
羽柴秀吉の正室おね(ねね)と母なかを長浜城から
避難させた美濃国(岐阜県)坂内村の広瀬兵庫助に
褒美として五百石の領地を与えた秀吉の文書は知
られています。秀吉家族を無事避難させたのは
山深い美濃坂内村の広瀬城の主、広瀬兵庫助と
称名寺性慶です。広瀬兵庫助も晩年真宗僧侶に
なっており彼等真宗教団は山間僻地を中心に
歩いて布教活動をしている傾向にあります。
間道を知るのは門徒の人々や山の民とも言える。

2016年岐阜県揖斐郡坂内村広瀬城見学会写真。

◆みんな
ああそうだったのか?今頃見学の意味が解って来たわ!

長浜市余呉町の丹生谷にはかって真宗の布教の為の
拠点道場「小原道場」も存在しましたが秀吉は秀長を
通じて木ノ本黒田郷の人々を丹生谷小原郷に出役を命
じています。賤ヶ岳合戦の概念のなかには、丹生谷は
全く一般認識されていません。今回の丹生谷摺墨砦の
発見は驚くべき歴史的発見の意義が含まれております。
東野山から北に向かって本城、出城、端城を秀吉とは
事前準備しておいた事でしょう。秀吉とは段取り8部
の経営者、播磨中国戦線で蓄えた巨大な富と明智を破
り畿内主要部も既に手中におさめ旧本拠地長浜城をも
既に回復しており。途方もない軍資金を持っ資本家で
必要とあらば金には糸目をつけません。使うべき金は
然るべき合戦で砦を無数に作らせ伏兵も巧妙に配置し
てます。秀吉の家臣石田佐吉が三成へと成長し後に彼
は坂田郡出身であった事から佐和山城主に秀吉から
任命されますが、彼の朋友とも言える大谷平馬と言う
人は今回見学する摺墨砦とは白波越えを挟んだ余呉町
小谷に出身であると『近江與地誌略』は伝承しており
ます。元はこの集落は大谷と表記しております。秀吉
は大谷吉継を余呉大谷から近い越前敦賀城主として彼
を厚遇致します。三成と吉継が友に余呉地域で称名寺
と連携して柴田方の柳ケ瀬や余呉近隣を詳細に秀吉に
連絡報告していた事でしよう。5月15日は小谷集落も
通過して摺墨砦方面へと3城併せて見学する予定です。


久太郎小屋より望む 賤ヶ岳古戦場の景観
▼久太郎小屋砦の土塁と堀切

5月15日 ウッデイパル城郭フオーラム見学会
余呉城郭研究会 
会長 生月茂様
講師 長谷川博美
顧問 前川常務様
補助 宮本さん
協力 田畑さん
  1. ★摺墨砦「全長300m」長尺布陣遺構 新発見  初見学
  2. ★★久太郎小屋西陣東陣二ヵ所 堀秀政奥田直政 再見学
  3. ★★★名人堀久太郎 東野山砦 本陣     定番見学
予約問合せウッデイパル余呉
0749-86-4145 


▼余呉城郭研究会さんのの地道な現地看板整備作業

▲作業前
▼木杭修繕リペア作業
▼再設置作業





コメント (2)
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羽柴秀吉 賤ケ岳合戦 田上山城北外郭の考察と小屋論

2021-04-27 03:22:23 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
城郭ビイスタ論 上文字クリック

北近江城郭鳥瞰図 上文字クリック

羽柴秀吉 賤ケ岳合戦 田上山城北外郭の考察と小屋論

◆メール紹介
近江坂田郡の者です。米原の磯山山麓に伊香小屋
小字地名など絶対にないと鼻から信じ込んでいた
私、でも長谷川先生は伊香郡出身磯野丹波守員昌
が永禄4年に坂田郡磯山に居た資料や伊香小屋の
小字名を平気でするりと登場させてる鋭敏さ気付
力に歴史観察の冴えやヒラメキを持っておられ
ます。また秀吉が田上山山麓の木ノ本郷の小屋
について記録している文書を読んでも「小屋」の
意義など全く私は意に介さない問題視していない
歴史講演のみに沈殿していた自分の姿に気付きま
した。はやはり長谷川先生は他府県から滋賀へと
就職した学芸員さんと歴史観点が本本的に異なる
生粋の近江人的な歴史眼を持っ学者さんと再認識
を致しました。文献や遺跡をサラリと読みサラリ
と見過ごすして見学するタイプの人でなく疑問点
や問題点や深淵を深く洞察しておられると感じま
す。軽いノリの講演や見学会が続く御時世であり
ますが長谷川先生の視点は、隠れた滋賀の歴史を
照射しているとさえ感じます。それは長谷川私学
や長谷川ワールドとかの別の次元である意味にお
いて極めてオーソドクスな根本的正論に思えます。

◆長谷川 はじめに
今回の投稿は城郭研究史及び城郭関係用語の
「小屋」と言う文言は献史学的見地の意味に
おいて非常に重要重大な意味を包含する記録
になっていて今回の投稿を学究派の人々には
は是非に熟読される事を謹しみ御勧めしたい。

◆外郭
城郭の場合本城の外を守る外壁を外郭と呼称する。
内堀のある城ならば外堀等に相当する施設を言う。

◆出丸
外郭から更に城外に構築された小規模な砦を言う。

◆防塁
外敵が侵入する事を防ぐ為の壁や土手を防塁と言う。

◆陣小屋
中世合戦の際、将兵の宿営用に作る簡易臨時家屋の事。

◆小屋の民俗
臨時の簡易仮設住宅を現す日本語、室町期から発達
した庶民の娯楽歌舞伎は公権力から課税の対象には
ならない河原に礎石を伴わない臨時仮設住宅「小屋」
を設置し冠木門形式の木戸を設営し木戸銭を摂取する
芝居興業が実施されていた。河原は柴が繁茂してその
河原の柴土手の河川敷を利用して芸能演劇が開催され
事を起源として今日の演劇「芝居」(しばい)の語源に
なっている。河原に仮設の芝居小屋を設置して観覧料
を木戸銭と言う。また江戸時代は彼等、歌舞伎役者達
を「かわらもの」河原の者とも芝居役者と表現してた。

◆小屋掛け
臨時の仮の建物「小屋」を作る為の臨時の簡易建物
礎石や板床を備へず土の土間のままで作られそれで
雨露を人がしのぎ、野営や露営する為の作業を言う。

◆掛城
江戸時代の用語で昔(戦国時代)に臨時に構築された
陣小屋も含めた臨時築城の城つまり砦の意味を言う。

◆戦国期の小屋
城郭研究では文献に山小屋が登場する件で是を正規
城郭施設か城郭に含まれない臨時の仮設小屋なのか
で議論された「山小屋論争」が知られている。また
天正11年賤ケ岳合戦の羽柴秀吉の堀久太郎小屋つま
り秀吉家臣となった堀秀政の陣屋や小屋「仮設小屋」
を柴田勝家方に将兵の宿舎として利用されない為の
処置「久太郎小屋」の撤去を、秀吉が秀長に命じた
文献が発見されている。

『軍師官兵衛』86号文書
今日中に取出の堀の外の小屋、壊ち取るべき書置のこと
一、柴伊衆小屋の儀、美濃守手伝いすべき
一、久太小屋の儀は、将右衛門組の衆、官兵衛組の衆、
隼人組の衆、このための衆手伝い候て、今日中に壊ち
取らるべきこと、
一、筒順も、久太小屋の儀壊ち取りの手伝い候て
、今日中に隙を明けらるべきこと、
明日朔日人数右に申す所まで、打ち入らるべきこと、
陣払★20あるまじく候、小屋/\の火を消させ、
念を入らるべく候、自然火も炊き残し、小屋より
火出で候わば、その組の衆越度たるべきこと、
★20 陣地を払って戦場から本国に帰っては
ならないと言う意味。 以上

(大意)今日中に出城の堀の外にある陣屋破却
すべきものを書き置くことひとつ、柴田勝豊軍
の根小屋を破却することは、秀長軍が手伝うこと
とする。ひとつ、堀秀政の陣は、前野長康組の衆、
黒田官兵衛組の衆、木村重茲組の衆、このための衆
が手伝い、今日中に破却することとする。一、筒井
順慶も、秀政小屋の破却を手伝い、今日中に更地に
すること。明日、四月一日に、人数を右に書き出
したところへ、軍勢を退却させること。陣開きはし
ないこと。小屋小屋の消火を徹底させること。
万一火も消し忘れ、小屋から出火した際は、
その組の軍勢全体の越度としなさい。以上。

▼「久太郎小屋」通称 西陣 東陣 
堀秀政と奥田直政「堀監物」の陣城と推定される。

我々余呉城郭研究会としては既に久太郎小屋「堀秀政」
が撤廃した城郭遺跡として秀政の本陣東野山城よりも
北約1キロに位置する滋賀県中世城郭分布調査に言う
ところの今市上砦「織豊系陣城」を既に見学研修して
いるまた同じく当時柴田伊賀衆「長浜城衆」の築城し
た天神山城跡も現地見学している。

★注目すべき文献
▼天正11年4月当時の長浜市木ノ本郷と小屋の文献

禁制    江州北郡 木之本郷 同小屋
 一、 当手軍勢 甲乙人乱妨狼藉の事
 一、 放火の事
 一、 対地下人 不謂族申懸事
 右条々堅令停止畢。若違犯之輩在之者、速可処罪科。仍下知如件
 天正11年3月 日   筑前守(花押)

上記文献の重要性は「小屋」の文言が披見できる事に
つきる「小屋」とは前記前文で述べたように床がなく
礎石を伴わない掘っ立て柱の臨時の仮設住宅つまりは
羽柴秀吉の将兵の宿直する為の陣小屋を意味している。
したがって上記文献は 木ノ本宿と臨時設営した小屋
が木ノ本郷に存在した事を伝える貴重な文献資料記録
に相当し天正11年段階で羽柴秀吉は播磨、但馬、丹後
丹波、河内、摂津、山城、大和、近江、など畿内数国
を領有する勢力版図を持ち合わせており大軍を擁する
羽柴秀吉の大兵団を木ノ本宿のみでは当然収容できず
余呉庄一体に無数の秀吉方の将兵の陣城や小屋を築い
て北国の柴田勝家の近江南下を防ぎこれを越前北庄に
追撃し織田の宿老柴田勝家を滅亡させる事に成功した。
今回確認した田上山城北外郭北東部の巨大腰郭は温存
して兵員を田上山城東裏側に伏兵として隠して置いた
可能性があろう。この軍事機密の現実を敵側「柴田」
に知られない交通遮断の様子は最前線の将兵に対し
て「惣構えの堀より外へ鉄砲を放つのは言うに及ばず、
草刈をする人に至るまで一人も外に出ることを禁じる」
と羽柴陣内の陣形陣営の機密の漏えいを厳守した意味
が含まれている。この総構の堀は前線の東野山と堂木
山間を意味し権現坂は秀吉は交通規制を緩慢にしてい
るこれは脆弱な砦、大岩山と岩崎山に柴田勝家の先鋒
佐久間玄蕃盛政を誘導する緩慢な入口権現坂を緩めて
おき佐久間を大岩、岩崎、に引付、己の陣営木ノ本に
隠し置いた小屋の設営とその部署から精鋭隊を賤ケ岳
城へと後詰させ丹羽長秀と合流して一挙に柴田と勝敗
を決定しようという用意周到な羽柴秀吉の策戦である。

★注目すべき湖北小屋地名論
田上山城は滋賀県旧伊香郡木ノ本町であり今回巨大な
陣営の跡陣小屋の跡と思しき田上山城の小屋と思われ
る空間を発見認識したのであるが伊香郡高月町つまり
伊香郡の磯野山や山麓居館(宮澤丸)に割拠した武家氏
族は磯野氏と宮澤氏が知られている。宮澤平八なる
人物が近江浅井氏に従属して本家である磯野家の養子
となり磯野丹波守員昌と名乗りこの武将は『信長公記』
に2回伊勢戦線にも信長に浅井時代から軍事徴用され
坂田郡と犬上郡の境目の城、佐和山城から伊勢に出兵
している。文献によると磯野員昌は永禄4年に米原市
磯山城に在城して佐和山城入城以前は磯山城に在城
した近江国伊香郡磯野出身の武将である。彼や彼に
従う伊香郡の将兵の陣小屋は果たして何処に存在を
したのであろうか浅井の意向に従い伊香郡勢や浅井
勢も磯山城の山麓に陣小屋を構えて宿舎確保をする
物理的要因が潜在していると思われる、小字地名は
400年前の見地帳に起源を発しておりその資料性は
以外にも高いと評価せずにはおけない。さて磯山城
の山麓に伊香郡勢が小屋を作って果たして米原磯山
北山麓に駐屯した痕跡は小字名に残っているのであ
ろうか?ここで一度米原の磯野地籍図を参考にする
事にすると非常に驚くべき事であるが「伊香小屋」
や「大小屋」の小字名が残されている事に驚愕する。
城郭に付属する「小屋」地名「小屋」の文献を看破
する事は歴史城郭研究の分野では不可欠であろう。

◆伊香郡磯野山城、坂田郡磯山城と江南六角攻め伝承
江戸時代初頭に完成した地誌「二次資料」には彦根の
荒神山山系の日夏山城に攻めに関する記述がありこれ
も北近江の浅井氏傘下に属す磯野丹波守と日夏山城の
合戦が記されていて、二次資料であるが近江浅井氏の
南近江六角領への進出の模様をうかがい知る伝承記録
であろう。磯野氏は琵琶湖湖岸より操船をして日夏山
の先端唐崎構つまり日夏山城近辺に侵攻した記録であ
ろう。『淡海温故録』より

▼近江国 伊香郡 田上山山中の土橋遺構

令和3年2月27日に城郭フオーラム講師として滋賀県長浜
市木之本町田上山城に私は行った。城に南大堀切が存在
する賤ケ岳合戦当時柴秀吉は実質この田上山城に弟秀長
を置いて守備させた本陣とした理論上から言うと北堀切
や北外郭が存在してしかるべきであリ余呉城郭研究会の
諸氏は北堀切を目指して田上山城を一路北進し長土橋を
確認した。この土橋は後世の杣道の可能性もあり合戦の
当時の遺構か完全に断言できないものでもあるが彦根の
稲枝学区の石寺要害山城に巨大な土橋も現存しとている。
石寺要害は反信長派に属する真宗門徒の臨時の陣小屋と
推測される。
▼近江石寺要害の土橋 近江国犬上郡の石寺近辺の土橋遺構

◆近江石寺に北近江坂田郡の伊吹氏の移動伝承記録
石寺は北近江の伊吹氏が浅井氏南進とともに入部
した経緯が推察される。『淡海温故録』

彦根荒神山の北に先程の日夏山城が存在して荒神山の南
端が石寺に相当する。滋賀県中世分布調査でも、石寺や
日夏山城を私長谷川が測量調査しているが北近江型馬蹄
土塁郭、木ノ本賤ケ岳、西浅井西岡、浅井小谷城出丸、
米原西番場鎌刃、米原太尾山「北城」など主に北近江に
その分布が拡がっている傾向がみられる。

さて余呉城郭研究会の諸氏は残雪が残る田上山城北外郭
の北東に存在する自然地形の谷間の底へ城郭踏査を進め
た。谷間は残雪が残り風通しも日光も遮断する巨大窪地
を形成していた。会員は更に進み上記北外郭北東に付属
する巨大な人工の削平地に至る事が出来た。この形状を
イラストで解説するならば下図の如き状態の地形である。
▼北横矢桝形土塁写真


田上山城北外郭を形成する山尾根には横矢桝形
喰い違い虎口、曲尺土塁「L状の土塁」そして
低土塁による田上山城本城守る典型的な織豊系
城郭の外郭線を形成している。

ベース「砦」とキヤンプ「宿舎」の違い
★バトル「戦闘の施設」堡塁の空間ベース
◆典型的な江戸期軍学の基礎をなす縄張
1喰い違い虎口
2横矢桝形
3曲尺つまりL状をていする馬出郭
以上3点は小屋つまり宿営地とは異なる戦いに
実戦に備えた
★キヤンプ「宿営の施設」宿泊の空間キヤンプ陣小屋
田上山城北外郭東北巨大腰郭の発見と認識

さて問題は城郭
防塁と言う施設の目的は戦闘や合戦を目的とし
た城郭遺跡と言えるものだ。しかし田上山外郭
の東北下に位置する巨大な腰郭の規模は壮大な
規模で整合性を持って遺構が残りまた外郭土塁
の更に外郭を形成し大量の兵卒宿舎つまり上記
で述べた陣小屋を形成していた様相が理解可能
だ羽柴秀吉は柴田勝家の先陣たる佐久間玄蕃を
脆弱な未完成砦岩崎山や大岩山に付き付け攻め
させ其処に駐留させて秀吉が美濃大垣から木ノ本
に帰還するやいなや羽柴秀長に類従する大量の
山陰やこの腰郭の陣小屋に宿陣し控え温存して
いて多量の兵員が一挙に、賤ケ岳方面へと大挙
出陣して敗走する柴田軍に追撃し大勝した事が
類推され伏兵を専用とした武者隠を田上山中の
要所の要所の髄書に配備構築していた現地の遺構
が理解さた。

◆生月会長談
玄蕃尾城の規模は壮大だが大量の兵員を田上山
に巧妙に隠すように配置する秀吉の総合戦略!

◆廣畑理事談
田上山の陣小屋は北国街道から見える西よりも
東の山陰方面に隠し構築された遺構傾向がある。

◆宮本サポーター
今回は田上山城の土塁の外の遺構を長谷川先生
と見学出来た意義が大きい。何故ならば、全く
別の城を別角度から再度観察考察出来きました。
土塁の外の宿営跡陣小屋の段も多数見学出来た。

◆長谷川
秀吉は大岩山と岩崎山には砦を作らせたが全く
堀切を普請させていない。佐久間盛政を引き付
る為には2砦は敵を引き寄せる為の囮の城です。
当時の秀吉の命令指示命令の厳格さを痛感する。



◆これはデカイ砦だイヤあの真田丸級の巧妙さだ!
田上山城見学会で長谷川さん解説を是非聞きたい!

◆質問者
田上山って水があるの?大量の兵員を駐屯させる為
には水源が必要なのよ!飲料水確保が炊飯に必要だ。

◆みんな
何を言っておられます。田上山城の主郭には井戸跡
の痕跡が残っていました。また田上山北出丸は水源
が隣接していて清冽な小川の水音が聞こえましたよ。
あの砦は水の手砦だったんだ。また伊香校の北谷に
羽柴秀吉の軍隊が駐屯しても大量に炊飯してもその
火や煙は柴田方からは全く見えない地理と地勢です。
何も美濃大返しをしなくても木ノ本宿の裏山に陣を
取っていたら秀吉軍は賤ケ岳に即時に急行できます、
そうしたらば疲れた佐久間柴田方より断然に秀吉や
秀長軍は賤ケ岳合戦では断然有利と言う事になる!

◆長谷川
柴田軍は斥候や草の者、ラッパを放っていた事だと
思いますが秀吉は本当用に意周到です余呉東野山と
堂木山に間に総掘をつくり草刈り人足1人とて通行
を遮断し切れと指示した貴重な書簡文献を残してる。
その深意は田上山の軍事トリック伏兵隠蔽し温存し
その現実を勝家方に絶対に知らせないないという
軍事機密厳守の意味があったと思われます。

◆質問者
田上山城北外郭には


◆質問者
小谷城見学会でもL形の土塁を見学しますか?


★長谷川教
ええ存在しますよ!向学心ある貴方には是非とも!
探訪や観光ではなく現地城郭遺跡見学者ですから!
また田上山城でも小谷城でもイラストを見て解る
様に城郭遺跡の上面だけではなく城の側面に位置
する帯郭や腰郭を分厚く装甲した腰の据わった城
と言う共通印象かせ見出せます。小谷も田上双方
とも羽柴秀吉に所縁がある歴史的視点も必要です。

◆一般者
先生小谷城一段石垣二段石垣三段石垣是非教示を!
一段石垣

二段石垣


三段石垣
★長谷川
見学します!勉強見学しましようね!三段石垣

◆反論者
ちょつと!小谷城って織豊系城郭なのですか?

◆長谷川
浅井長政は織田信長の義理の弟に相当します。
また小谷城主、羽柴秀吉は天正3年まで小谷
城に居城してたと第一級文献資料『信長公記』
が記録してます。当然の事ですが、天正2年に
秀吉は長浜城を築城始めますが現代の引っ越し
でも前の家を残して暫く暮し引っ越し準備が
完成して新築完了したら新居に移る事が常識。
彦根城も本丸が一番に完成せず、鐘の丸御殿
完成して、佐和山城に井伊氏がしばらく居て
彦根城完成して移城した事が推定出来ますね。

◆馬出は小谷城に何か所ありますか見学します?
★長谷川
2カ所東国型とは異なる騎馬集団小谷型の馬出が。
浅井氏と武田の通信役とは武田の雨宮氏と言う事

▼徳川家康の小田原の陣 今井の陣図
▼小谷城 出丸の馬出 Ⓒ長谷川博美図

◆反論者
ちょつと待って下さい!徳川家康の今井の陣が
天正18年(1590年)の遺跡でしょう?小谷城
は天正元年(1573年)に浅井氏とともに滅んだ城!
何故?こんなに両者が似た城郭なのか理解不能!

◆長谷川
貴方は小説や大河ドラマのフイクションを見過
ぎて冷静に歴史を客観視しておられませんね?
小谷城は火災の痕跡が見つからず、また新たに
小谷城主となった羽柴秀吉は文献『信長公記』
によると天正3年(1576年)まで小谷城を居城
としてました。歴史とは演劇や創作ではない

◆対談者
しかし今井の徳川家康陣と小谷の出丸は酷似し
ています。ここに歴史城郭の謎が存在致します。


★長谷川博美 城郭見学会のおしらせ
日時 令和3年3月13日土曜 集合時間 午前9時30分
集合場所 JR北陸線河毛駅 東口 無料駐車場有り
受付 0749-86-4145 ウッデイパル城郭係様 
参加費 2500円 弁当と詳細資料A4/10ページ付属 
主催 余呉城郭研究会 生月会長 田畑理事
事業 長浜市市民活動団体支援事業
講師 元滋賀県中世城郭分布調査員 長谷川博美
城郭 小谷城
歴史 織田信長の妹市姫は近江小谷城主浅井長政に
   織田氏と浅井氏の縁戚と戦略的提携を結ぶ為
   と婚儀が成立しかし元亀の騒乱で織田と浅井
   の連合協力関係は決裂して織田と浅井は対立
   する。戦国一の美貌の美人と讃えられた麗人
   お市は小谷落城寸前に織田信長のもとへ浅井
   三姉妹「淀殿、初、江姫」とともに引き渡さ
   る浅井三姉妹の長女は天下人秀吉側室となり
   次女は京極宰相高次に江姫は天下人徳川秀忠
   の正室となり徳川三代将軍家光を出産すると
   いう織田と浅井の血統を引く戦国名門姉妹へ

コメント (8)
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