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しかし、日本人の傭兵は実在してるようですね>
3/1/2022
56歳・元日本人傭兵の何とも壮絶で快活な半生 20年近くミャンマーなどで命を賭け戦ってきた
2020/12/24 10:00
アフガニスタン、ミャンマー、ボスニア・ヘルツェゴビナ……傭兵として20年近く活動してきた高部正樹さんの壮絶で快活な半生とは?(筆者撮影)
日本人ながら「傭兵」として活動した異色の経歴
高部正樹さん(56歳)の最も知られている肩書は「元傭兵」だ。
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アフガニスタン、ミャンマー、ボスニア・ヘルツェゴビナと、海を渡り戦地に赴き、傭兵として20年近く活動してきた。傭兵とは金銭などの利益により雇われ、戦闘・闘争に参加する兵士や集団のこと。これは日本人としては非常に珍しい経歴だ。
引退後は、軍事アナリスト、軍事ジャーナリストとして活躍している。
著作も『戦友 名もなき勇者たち』(並木書房)、『実録!!傭兵物語―WAR DOGS―』(双葉社)など、傭兵時代の経験を基にした作品をたくさん執筆している。
先日上梓した『日本人傭兵の危険でおかしい戦場暮らし』(竹書房)では、傭兵のシビアな面だけではなく、コミカルな面も描かれている。
不足した野菜をとるために銃撃されながらピーマンを採った話、仲間が現地の女性に惚れてしまった話、そして少女からビスケットを1枚手渡されて感動したエピソード、など。イメージする傭兵よりも、ずっと人間味のある姿が描かれていた。
ただ、それでも「元傭兵」という肩書の人だから、こわもての男性が来ると思い少し身構えていた。しかし実際に会議室に現れた高部さんは体躯こそ大きいものの、ニコニコと笑顔でとても優しい雰囲気の男性だった。
傭兵のコミカルな面も描かれている『日本人傭兵の危険でおかしい戦場暮らし』(竹書房)
今回は、高部さんにどのような経緯を経て傭兵になったのか。傭兵時代の歴戦の話、そして傭兵を引退した現在の話を聞いた。
高部さんは、愛知県豊田市に産まれた。山も川もある自然豊かな田舎だったという。
「小さい頃から身体を動かすのは好きでした。朝から晩までカブトムシをつかまえたり、川で釣りをしたり。野球でもなんでも得意でした。勉強はほとんどしなかったですけど、成績は上位でした」
ある日、小学生の高部さんは両親に書店へと連れて行かれ、
「好きな本を買っていいよ」
と言われた。
高部さんは『戦艦大和のさいご/真珠湾上空6時間』(偕成社)という本を買ってもらった。それからは第2次世界大戦の軍記物の作品を読み漁るようになった。
「子ども心に『軍人は自分のためではなく、他人のために命をかけて戦う仕事だ。これこそ男の仕事だ』と思いました。そして大きくなったら軍人になろう、と決めました」
ただ、学校の先生は高部さんの夢は理解しなかった。
「卒業文集に将来の夢は『軍人』って書いたら、勝手に『プロ野球選手』って書き直されました。さすがにひでえなあって思いました(笑)」
当時、高部さんのいちばんの目標は航空自衛隊のパイロットになることだった。パイロットになるには大学を卒業するしかないと思いこんでいたので、普通科の高校へ進んでいた。
高校2年生で航空学生という制度があるのを知りました」
航空学生とは、航空自衛隊の戦闘機のパイロットなどを養成する制度だ。非常に狭き門で、高部さんが入隊したときは、結果的に3000人が応募し、68人しか入隊できなかった。
<略>
高部さんは自動車工場で期間工として働いたり、ヨットハーバーでアルバイトをしたり、ボーリング(穴掘り)の仕事に就いたりと、さまざまな仕事を渡り歩きながら、傭兵になるチャンスを探っていた。
そんなある日、とあるフリージャーナリストがアフガニスタンに行った経験をまとめた本を目にした。
「『この人に連絡取ったら傭兵になる方法がわかるかもしれないな?』と思い出版社に連絡をとりました。すると『出版記念パーティーがあるからよかったらおいで』と誘ってもらえました」
そのパーティーでアフガニスタンに精通している人物を紹介してもらい、後日その人の事務所を訪ねたが、ほぼ門前払いをくらってしまった。
がっかりではあったが、だが少しの会話からある程度の知識を手に入れることができた。
「それはパキスタンとアフガニスタンの国境にあり、ベシャールという街の『ユニバーサルシティ通り』という場所に行けば、反政府ゲリラの事務所がある、という情報でした。
こうなったら1人で『ユニバーサルシティ通り』に行くしかない、と思いました」
仕事を辞めて、パスポートとビザ、パキスタン行きのチケットの入手した。
そこまで用意したところで、前述のアフガニスタンに精通している人物に挨拶をしておこうと思い立った。顔を出すと、その人は驚いた様子だった。
戦いたいと言って本当に戦うのは100万人に1人
「男が1000人いれば戦いたいと言い出すのが1人くらいいる。しかし実際に戦うのは100万人に1人だ。だから最初は拒絶したけどもしかしたら君はその100万人に1人なのかもしれない。なら時間を無駄にしなくてもいいように紹介状を書いてあげよう」
と、反政府軍の事務所の電話番号や担当者の名前を教えてもらい、紹介状も書いてもらった。
現地で、紹介状を見せると話はすんなりと通った。そして
「いつ行きたい?」
と単刀直入に聞かれた。高部さんはもちろん
「明日にでも行きたい」
と答えた。
「3日後くらいに、アフガニスタンに入る反政府軍がいるから一緒に入るか? と言われて、オーケーしました。3日あるならゆっくり準備しようと思っていたら、翌日
『今から行くから来い!!』
と急に言われました。現地の人が着る服、シャルワール・カミーズだけは準備していたので、それだけを持って反政府軍に加わりました。シャルワール・カミーズは民族衣装ですが、彼らは軍服ではなくシャルワール・カミーズを着て戦います」
反政府軍は多くの場合、親兄弟、仲間同士、というような人のつながりでできている小さなグループの集合体で、基本的に、自分たちが住む地域周辺で戦闘をしていた。
高部さんは当時、反政府軍の中では2番目に大きいグループに入った。そしてすぐに最前線に回された。高部さんにとって、最初の戦闘が始まった。
「アフガニスタンでは斜面の上のほうから攻めていくことが多いです。初めての戦闘は、気分も高揚していたので、まったく怖くなかったですね」
弾丸が飛んでくるときにはこんな音がするんだ、砲弾が炸裂するときはこんな音がするんだ、などと冷静に判断していた。
重症を負った兵士がかつがれて、斜面の下から運ばれてくる。撃たれて死んでいる人もいた。
「戦闘時はまったく怖くなかったんですけど、戦闘が終わり後方の拠点に移動してから、いろいろ思い出して急に怖くなってしまいました」
こわくてもう戦闘に出たくないと思った。
「頭が痛い」
「熱がある」
と仮病を使って戦闘をサボろうとした。
怯える高部さんに指揮官は、
「大丈夫、大丈夫!! 前線に行けば治るから!!」
と高部さんの手を引っ張り無理やりに、戦闘へ連れ出した。まるでスーパーで駄々をこねる子どもを、親が無理やり引っ張っていくような状態だったという。
実戦では基本的に先に敵を見つけたほうが、自分たちのタイミングで攻撃をしかけます。戦闘のはじめに最大火力を出すようにします。もちろん先に相手から見つかって発砲されることもあります」
パパパパン!! と山間に銃声が響くと、それを契機に戦闘がはじまっていく。
撃たれた側は当然即座に撃ち返す。
野球の応援のウェーブのように、戦闘は波及していく。
傭兵時代、部屋で準備をする高部さん
「もちろん、戦闘になるかどうかは状況によってさまざまです。パトロールで敵を見つけても戦闘をしかけないことはありました。無視しても問題ないと判断したときや、相手が強すぎる時は仕掛けませんでした」
一度だけ、お互いが発見し合ったのに戦闘にならなかったこともあったという。
高部さんの隊が山の中腹を歩いていると、200メートルほど先の敵の軍隊と鉢合わせしてしまった。
お互い、敵がいるとは思っておらず油断していた。高部さんたちは銃を肩にかけていたし、敵の兵隊は地面に銃を置いていたりした。
お互いに睨み合ったまま、動けない状態が続いた。高部さんの隊の先頭を歩いていた兵士が、ゆっくり1歩ずつ歩き始めた。相手の兵士は目で追うだけで、行動はしなかった。
敵兵の死角に入った途端、全員全速力で走って逃げた。
「戦闘力は相手のほうが圧倒的に強かったですね。味方は10人。敵は30~40人でした。戦闘になったら結構不利な状態でした。その頃、旧ソ連軍が撤退する直前だったんですよ。彼らは、もうすぐ故郷に帰れるのに、無用のリスクは犯したくないって思ったんでしょうね。助かりました」
このように傭兵は、まさに命を張った仕事だ。朝ごはんを食べた仲間が、夕食にはいなくなっている、というのは珍しい出来事ではなかった。
ヘリに攻撃された後。小さい破片が3つ背中に刺さった
実際、高部さんも大怪我をしたことがある。
「ソ連製の攻撃ヘリが、砲台をロケットで攻撃しました。砲台は大破して、飛んできた小さい破片が3つ背中に刺さりました」
ヘリコプターは砲台を撃破しただけで退散したからよかったが、追撃されていたら一瞬にしてミンチになっていただろう。
そんな命をかけた戦闘をこなして、高部さんはどれだけの報酬を得ることができたのだろうか?
(C)高部正樹・にしかわたく/竹書房
1回にもらう給料は8000円ぐらい
「アフガニスタンのときは1回にもらう給料は8000円ぐらいでしたね。雑にカバンからわしづかみにしたアフガニー(アフガニスタンの通貨単位)札束を手渡されました。その給料の出どころもどこからなのかはわかりませんでした」
(C)高部正樹・にしかわたく/竹書房
現地の兵隊としては、8000円は悪い金額ではなかった。ただ、高部さんにとっては使い道がなかった。アフガニスタンにいる間は、食べ物などは支給される。そして国境を超えて、パキスタンに戻るとアフガニーは使えない。両替商はいるが、弱いアフガニーをルピーには交換してくれなかった。
結局、高部さんは給料を全部仲間に配っていた。
(C)高部正樹・にしかわたく/竹書房
「でも僕はお金のために傭兵をしていたわけじゃなかったので、何とも思いませんでした。それに、その後に行ったミャンマーはボランティアだったので報酬は0円でした。衣食住武器弾薬はタダで支給されましたが、飛行機のチケット代などを考えると完全にマイナスでしたね」
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